北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[歌登] 桧垣農場 (上)

最辺境の開拓 桧垣直石と長村秀の志し

 

「北海道開拓倶楽部」では、北海道全市町村の開拓物語の調査を目的としています。江別、北広島と道央圏の話題が続いたので、目を北に向けましょう。平成の大合併で枝幸町の一部になった宗谷管内歌登町を紹介します。道央圏が北海道の中心とすると、北オホーツクは道央から最も離れた周辺部の一つ、さらに海に面していない内陸部と言えば、北海道の最深部の一つと言えるでしょう。こうした場所が誰にどうやって拓かれたのか──探ってまいります。
 

 

■先人達の偉大な勇気と開拓魂に感謝

昭和55(1980)年発行の歌登町史を開いてみましょう。巻頭の「発刊に寄せて」で当時の吉田富雄議会議長が、今の北海道では聞くことのできなくなった感動的な序文を寄せています。
 
桧垣直右氏が、不毛無人の大地に開拓の第一歩を踏み入れ、爾来、先人達が不屈の精神のもとに星をいただき、 極寒に耐え、弛まぬ努力を重ねられた結果、今日の歌登町の発展があるわけであります。その先人達の偉大な勇気と開拓魂に感謝するとともに、 この輝かしい歴史を今般発刊することは、まことに喜びにたえない次第であります。
 
この町史は、ややもすれば忘れがちな先人達の苦難の業績を明らかにして、 豊かな郷土愛をはぐくむため、永く後世に伝え、今後の歌登町を発展させるうえで、きわめて大切なものと考えます。
 
町民の皆様をはじめ、次代を担う若人が先輩の残した偉業と体験に学び、新しい歌登の町づくりに希望と意欲をもち、限りない未来に向って郷土発展のため努力されることを期待するとともに、改めて振り返ると、砂金のゴールドラッシュ、あるいは造材の華やかな時代、そして馬鈴薯王国を経て、現代の近代化された酪農、その道は羊腸の如く、決して平担ではなかっ たと思いますが、発刊される町史は、その事実背景をありのままに記述され、変遷する内容は感嘆のほかありません。[1]
 
町村合併後も2000人を超える人口をもつ歌登を築いた先人の苦闘が忍ばれますが、歌登は「桧垣直右(ひがきなおすけ)」という人物によって拓かれた町であるということがわかります。
 

■先住した和人入植者

町史のページを進めましょう。
 
和人移住当時の歌登はまつたく無人の原始林で、わずかにパンケイ川の川口付近に数戸のアイヌが住んでいただけであった。このような原始の森に、最初に開拓の鍬をおろしたのはいったい誰であったろうか。それは桧垣農場の開に始まるのである。
 
歌登町の開拓の歴史において管内他町村と異なるのは、山師、柚夫、または漁師が自然に住みついたものではなく、農場を設置し計画的に入地開墾したのを初めとするところで、この点本町の誇りとしてさしつかえないものと思う。[2]
 
「パンケイ川の川口付近」というのはオホーツク海に面した枝幸市街地ですから、歌登の地は明治後半までまったく無人の地であったようです。よく北海道開拓に寄せられる批判として「先住のアイヌの土地を一方的に奪い」などという言葉が聞かれますが、歌登ではこれから紹介する和人入植者が先住者となりました。
 

■長州藩士・桧垣直右の志し

桧垣直右①

開祖となる桧垣直右は、1851年 嘉永4(1851)年 、山口県吉敷郡山口町上字野令に、長州藩士・宇野次荘右衛門の二男として生まれ、桧垣五百重の養子となりました。明治7(1874)年東京高等師範学校卒業後、香川県師範学校長、文部省視学官を経て内務省に転じ、秋田県、福島県書記官、富山県、岡山県知事を歴任。明治42(1909)年朝鮮京畿道長官を最後に退官し、昭和4(1929)年、千葉県館山市でなくなっています。こうした桧垣が北海道開拓を志すのは明治26(1893)年、秋田県書記官となったときです。
 
明治26(1893)年1月文部省視学官から秋田県書記官に転任した桧垣直右は、秋田県と北海道の相互関係を調査し、気候、風土、人情、風俗、産物の類似点を認め、この関係を深めることを思い立った。また秋田県の人口増加の対象として北海道移民計画を考えたのである。[3]
 
北海道を視察後、次のような計画をたてます。
 
1、秋田県内より耕地と資力に乏しい農民を募り補助を与えて移住させ、地方細民に産業を与えるとともに北海道拓植計画の趣旨に沿うこと。
2、両地方間の運輸交通の道を開くため、補助を与えて定期汽船を購入し、また旅客貨物の割引運送をさせること。
3、北海道の秋田県人と在県人の協同会を設けること。[4]
 
この計画に道庁も賛同し、最初は上川管内比布原野を貸付ましたが、秋田県側の準備が整わず、実行に移すことはできませんでした。しかし、桧垣は諦めません。体勢を立て直して上幌別(歌登)原野170町歩を出願し、明治30(1897)年7月10日に認可を受けました。辺境の歌登を選んだのは「競願者少く、而も樺太を遠望し得る土地」を条件としていたからです。「樺太を遠望」というのは長州志士としてロシア帝国から日本を護る防人たらんとしたのでしょう。
 

■腹心・長村秀に農場を託す

長村秀②

桧垣自身は関矢孫左衛門のように北海道に渡って開拓に従事する意志がありましたが、立身出世が約束された顕官であり、周囲に止められたようで、官僚を辞めて歌登に入植することはありませんでした。その代わり、長村秀(おさむらひで)という腹心を歌登に農場管理人として派遣し、開拓に従事させたのです。長村はこの時、北海道庁の官吏でした。
 
長村氏を選定したのは、桧垣氏は元石川県在任中長村氏を使用したが、長村氏は孝心深くして、桧垣氏の信用甚だ厚かったためであるという。後長村は北海道庁吏員となっても桧垣氏の恩を忘れず、農場開墾に尽したのである。
 
長村は石川県の人で、桧垣に見込まれて桧垣農場の理人となり、人跡未踏の原始林に入地しあらゆる困難を乗りこえ、孤独と欠乏に耐えて18年の長きにわたり農場開発と地方発展に寄与した。その功績はことに偉大である。[5]
 
長村は、秋田県職員の時代に桧垣に部下として使えていました。その後、道庁の職員となっていましたが、桧垣が歌登に開墾地の貸下げを受けると、秋田県時代の恩に報いるため道庁を辞めて桧垣農場の管理人となって歌登に赴きました──ということですが、そこはまさに人跡未踏の地です。農場の管理人とはいうものの実態は島流し以上の過酷さでした。
 
かくいう桧垣も書類の上だけでこの計画を進めたのでなく、何度か上幌別(歌登)原野に足を踏み入れています。現地の状況を知った上での長村への依頼ですから、依頼する方もされる方も並大抵の決意でなかったことは確かです。
 
町史は簡潔に紹介していますが、桧垣と長村、この二人の間にはもっと濃密な物語があったに違いありません。志定まれば、気盛んなり──とは桧垣も影響を受けただろう吉田松陰の言葉ですが、私益を越えた強い志がなければ、道庁の役人を辞めて、人跡未踏の明治30(1897)年代の歌登に入ることはできません。
 

■真の先駆者

この時、長村がたった一人で歌登に入ったわけではなく、桧垣は3人の雇い人を長村に付けました。そのうちの一人が谷口庄次郎です。
 
谷口庄次郎は最初の雇人3名のうちの1人で、他の人びとが失望し逃亡するかにただー人初志を変えず、昭和6(1931)年まで35年間この地に在住し、あらゆる酸をなめながら開墾に従事した真の先駆者であった。[6]
 
長村秀と谷口庄次郎、この二人が歌登の「草分けの人」でした。
 

桧垣農場・明治38年頃③

 

■第一次入植 

長村と谷口、他2名(逃げ出したようです)の4人が歌登の原生林に分け入って準備を整え、明治31(1898)年、最初の移民として石川県地方から15戸の農家が家族を伴って入植しました。
 
の頃、内地府県から北海道へ渡るということは大変なことであった。現在の南米移住にも匹敵するか、むしろそれ以上の決意と覚悟を要したのである。
 
北海道へ渡る道順は判然としないが、小樽から船で枝幸へ回り、さらに幌別川を川舟で遡上した。枝幸からパ ンケナイ川の出合に達するのに3日を要したという。これは河中に倒木があって、これを切り開き切り開き上ったからだと言われている。川舟を離れても道路があるわけでもなく、橋が架けられているわけでもない。老人も子供もそれぞれに荷物を背負い、杖をつき手を引き合って、前年先発した人たちの待つ農場へ向ったが、見た現地の姿はどうであったろうか。
 
誰もが希望を胸に決意も固く、はるばるやって来たのであったが、あまりにも厚い大自然の壁を前にして、ただ茫然とたたずんだのではあるまいか。行くに道なく、もちろん帰る道もない。移住者たちは自分が今来た方向を振り返って、遠い遠い故郷の空を思い浮かべたと想像される。[7]
 

■大水害に遭遇

このように悲壮な覚悟で渡ってきた移民に北海道の自然はあまりにも過酷な試練を与えます。
 
明治31(1898)年9月、大洪水に遭遇した。枝幸町史には、「この年春から霖雨が続いて各地に洪水騒ぎが起っていたが、9月6日遂に堰を切ったような大豪雨となり、翌7日は強風も加わって…」と記され、「枝幸では建物流失56戸、流耕地369反、堤防破損6000間、橋梁流失141」と報ぜられている。
 
桧垣農場は幌別川に沿う低湿地帯で、旧河川跡の池沼が数多く点在し、また農場中央を横断するオムロシベッ川は、アイヌ語で尻づまりと言われるように本流の砂礫で出口が塞がれ、一雨降ればたちまち農場一面が湖と化すありさまであった。
 
入植当初の水害で移住者たちの心は動揺した。離農を策し、夜逃げをはかる者があらわれた。農場開設概要には「移住者挙って帰郷の念をいだきたるを以て百方之に慰憶を加え、辛うじて之を留止せり」とあるように、なだめたり、諭したり、あるいはいろいろ条件を与えて離農を押えたのであった。[8]
 
もちろん、留意に努めたのは長村秀です。彼はどんな言葉で移民の心を納めたのでしょうか。
 

桧垣農場の入植者(明治39年④)

 

■ゴールドラッシュに乱されず

入植者の心を乱したのは自然だけでありません。金色の誘惑も移民の心を乱しました。
 
明治32(1899)年の春、2度目の移民10戸が入地した。しかし移民の難渋は筆舌に尽くし難いものがあった。ちようどこの頃、付近の河川から砂金が発見されたのである。あの有名なゴールドラッシュの幕開けとともに、農場開発にも大きな影響を及ぼすことになった。
 
枝幸町史には、「大洪水に見舞われて農作物はすっかり流失するという災害に遭ったその少し前の7、8月頃、幌別川支流で砂金が発見され、枝幸の住民は誰も彼も砂金堀りになつて山へ入る勢いであったが、農場の小作人は誰も砂金採取をしないよう説諭して開墾に専念した。[9]
 
このゴールドラッシュについては、中頓別の開祖
楢原 民之助伝」をご参照ください。
 
翌32年5月頃、いよいよ農作業にかかる季節になると砂金の産出はますます多くなり、おまけに農場内を流れている支流にまで砂金が発見される騒ぎ、ことにペーチャンに砂金が発見されるや、農場が主要な通路となり、毎日農場を通過する砂金堀りは何百人という数になった。そのため小作人のうち窃盗の災難にあう者も出て、これまで家族全員農地に出て開墾に従事してきたのであるが、今は一人が家に残って留守番をしなければならなくなった。
 
そのうち農場から砂金地までの荷物運搬は、当時白米2斗30履 で4円という高値がついたので、前年は隠忍して開墾を続けた小作人達も、今は砂金堀りから荷物運搬に鞍替えて農場には農夫の姿が見られなくなっていった。このようなありさまで農場は一時閉鎖の状態となった。それは明治32(1899)年から33年にかけてであった。[10]
 
誰もが金に目が眩む中、長村秀は入植者たちに農業に向かわせるように諭しました。そうした努力が実り、農場や少しずつ軌道に向かいます。
 
明治35(1902)年は作物の稔り良好で、大小裸麦はもちろん、豌豆、菜豆、馬鈴薯の収穫は前年に数倍するほどであった。桧垣農場の前途にもようやく曙光が見えはじめ、入地する農家も年々数を増すようになった。とくに明治38(1905)年5月、天塩地方から小作人25戸が集団移住して桧垣農場は一段と賑やかになった。このうち脇安次は十戸を伴って入地し、長村を援けて農場発展に尽した。[11]
 
このようにして歌登の基礎はつくれました。
 
 

 


【出典参照】
[1]『歌登町史』1980・歌登町・巻頭言
[2]同上61-67P
[3]同上
[4]同上
[5]同上
[6]同上
[9]同上
[10]同上
[11]同上
①②③④⑤『歌登町史』1980・歌登町

 
 

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