屯田兵の日露戦争の活躍を知らないと北海道開拓史は理解できない
■屯田兵は日露戦争勝利の立役者
明治37(1904)年の日露戦争の勝利によって日本は欧米列強から独立を守りました。この民族の運命をかけた一戦に主力となって活躍したのが屯田兵です。屯田兵制度は明治37(1904)年に廃止になりましたが、戦況が不利になると、後備役兵として第七師団に召集され、乃木希典大将が指揮を執る第三軍に所属しました。二〇三高地の激闘で知られる旅順攻略戦の主力として活躍し、ロシアとの天下分け目の決戦となった奉天会戦では戦況を変える左翼迂回軍として勝利をもたらしました。
奉天会戦の勝利がいかに大きなことだったかは、奉天会戦に勝利した3月10日が「陸軍記念日」となっていたことでも知られます。この勝利の立役者となったことで第七師団は〝最強師団〟と名をほしいままにしましたが、その本体は屯田兵だったのです。
明治37年(1904年)12月4日午後4時付で、第三軍司令官の乃木希典大将の名義で出された命令。翌日の12月5日に第七師団が203高地西南部に突撃し、ここを占領するとしている。(出典:国立公文書館「アジア歴史資料センター」)
第三軍命令 十二月四日午後四時於柳樹房
一、第七師団ハ明五日午前九時頃ヲ以テ二○三高地西南部嶺頂ニ向ヒ突撃ヲ決行シ同地ヲ奪取スル筈ナリ
二、第一師団、攻域砲兵及野戦砲兵第二旅団ハ従来ノ任務ニ基キ第七師団ノ攻撃ヲ援助シ且ツ他方面ノ敵ヲ牽制スベシ
三、第九、第十一師団ハ引続キ前面ノ敵ヲ牽制スベシ
四、攻域砲兵司令官ハ第七師団攻撃ノ進捗ニ応シ状況之ヲ許ス限リ二○三高地西南部ニ設備セル観測所ヲ利用シ可成多クノ砲@ヲ使用シ時期ヲ失ワスシテ港内敵艦ニ対スル砲撃ヲ開始セシムヘシ 第三軍司令官男爵乃木希典
■北海道の英雄となった屯田兵
昭和40年代まで屯田兵といえば道民の誇り、敬愛の的でした。それは北海道開拓の尖兵として開墾に従事したこと以上に日本を救った日露戦争の英雄だったからです。そして屯田兵の活躍によって、どこか本州に対して気後れするところのあった北海道移民が自信を持って北海道民として自らを語れるようになりました。
屯田兵制度は明治37(1904)年に終わりましたが、屯田兵の存在は日露戦争の英雄となったことでむしろ戦後に大きくなりました。元屯田兵たちは道内各地で英雄としてリスペクトされ、地域の指導者として活躍するからです。
■分断された日露戦争と屯田兵
しかし、それから120年、屯田兵と日露戦争は分断され、両者の関わりはまったくといっていいほど語られなくなりました。その結果、屯田兵はかつての存在感を失っています。
「北海道開拓倶楽部」は北海道開拓の誇りを取り戻すことを目的としています。そのためにも日露戦争と屯田兵の関わりを再認識し、屯田兵が北海道はもとより日本の発展に果たした役割を再確認する必要があると思います。
このためサイト内研究プロジェクトとして「屯田兵の日露戦争」を立ち上げます。屯田兵ならびに第七師団と日露戦争、日露戦争後の元屯田兵士の活躍などについて調べたことを順次こちらに掲載していきます。よろしくお願いいたします。