北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【釧路】鳥取村の開拓(下)

村を救った旧藩士文太郎の涙

 

岩見沢とともに鳥取藩士族が入植したもう一つのまちは釧路です。昭和18(1943)年に町制を施行し鳥取町となりますが、昭和24(1949)年に釧路市に編入合併しました。釧路に鳥取町の地名はありませんが、鳥取支所にその名前を留め、一帯は釧路の中でも最も栄えた地区の一つとなっています。この鳥取村も明治の終わり頃には寂れ果てた寒村となっていました。それが今日の姿になるには旧鳥取藩で結ばれたドラマがあったのです。

 

釧路市・鳥取神社の「鳥取百年館」。
昭和59年鳥取移住百年を記念し建設した。
旧鳥取藩池田家15代池田徳真氏より寄贈の家宝37点が展示されている​。

 
 

■『鳥取村五十年誌』の伝える当事者の証言

 

私は僅かに八歳の小童であった。釧路だ、という声に大喜びで、年寄の留めるも聞かず、甲板に飛び出して見ると、夕陽が赤々と襟裳の岬角に沈もうとし、北の方には遙かに雌雄の阿寒が、頂上に雪を頂いてさながら天柱の如く奔え立っている。他は目の届く限りただ茫々たる野原だ。
 
と岸から髪の毛や髯をモジャモジャ生やした、鹿や犬の毛皮を着た人たちが、エンヤラコラホと舟を漕いで近寄って来る。浜辺には前移住の人達であらう、何やら大声に呼び交はしながら、所々に焚火をして、その煙りが白く立昇って居る。
 
その近間に家らしいものは見えない。やがて促されて舟に乗り移り、陸に近付いたが、遠浅で舟は停まってしまった。大人や若い人達は裾をからげて、がやがや話しながら上って行く。つい無心に眺め入つて居ると、耳元で
 
「オンブってやるテヤアー」と耳馴れない声が聞えた。
 
われに返って見上げると、髪も髯もモジャモジャな上にムク毛の毛皮を着込んだ人がニコニコとして、私に背を向けていた。

 
釧路のアイヌの人々に歓迎されて上陸した鳥取士族移民団の第2陣の様子です。昭和9(1934)年6月に発行された『鳥取村五十年誌』の一節ですが、同書の著者である福本猿三が8歳のときの体験談です。福本は明治18(1885)年に鳥取県士族移住者田川藤市の随行者として自費渡航した福本恒三郎の子息です。
 
福本は同書の序で「教えを請うべき古老も今は亡いので、まったくどうしてよいのか困却した。そこで思いついたのが座談会である。甚だご迷惑であろうが寒いときに、2回3回と実に十数回の回を重ねた。こうしてこの間に一脈の史的事実を把握しようと考えたのである」と書いています。開拓期の生き証人の証言によりまとめれた同書はとても貴重です。『鳥取村五十年誌』から抜き出して鳥取士族移民団の苦労を振り返ります。
 

鳥取村(明治28年)①

 

■鳥取県人を苦しめた極寒

「移住者は拓植報国の熱意と北方防備の覚悟においては人後に落ちるものではない――という彼らですが、不慣れな武家の商法ならぬ農法、意気込みは高くても結果は惨憺たるものだったようです。
 

士族であるから刀や槍の使い方は十分に心得ている。が、鍬、鋤などは手にしたこともない。口では「何!」と力んでみても一向にかんばしい仕事が出来ぬ。家族の人達も国あった時は、痩せても枯れても、奥様とか、ご隠居様とか、ないし坊さん、嬢さんと言いもし、言われもして暮らしてきたものである。
 
野良に出るにも裾のついた着物に草履ばきで、紅い襖というちょうど雛刀でも使う身ごしらえへ、こうして旦那も、奥様も、お嬢も、坊も、毎日星をいただいて出て、月を踏んで帰り、精魂の限り働いた。がしかしこのような労働の結果も、ただ阿寒川の出水、鳥虫害、野兎野鼠の腹を肥やしたにとどまったのである。

 
人の手が及んだことのない原生林との戦いにも増して鳥取士族移民を苦しめたのは寒さでした。
 

故郷では寒さと言っても、結った雪が午後までに地上にあることは無い。いわんや水が凍結するなどということは話でも希なことなのである。それが何と言うことであろう。寒暖計が零下20度30度と下るではないか。寒いのでは無いのだ、痛いのだ。飯が凍る、石油でも、醤油でも凍結する。これが驚かずにいられようか。
 
「凍えて死んでしまうのではないかと思った」と、年寄りの話すのを聞いたことがあるが、天井の無い、四分板一重張の掘立バラックで、しかも何も防寒設備のない生活では、一通や二通りの寒さではなかったことが想像できる。

 
 

■「鳥取の五升いも」と蔑まれて

このような苦労をのりこえて耕地を拓いたとしても、本当の戦いはそこから始まりました。
 

拓植報国と言うには言うが、土地を開墾し、作物を蒔き付け、収穫しても、それを如何にしたらよいのか。士族移住者からかと言って食わずに働くことはできない。着ずに暮らす訳にはいかないのだ。給与米のある間は、貧しいながらも食うことには事欠かなかったが、貸与の2箇年が過ぎると、ただちに飢餓が襲ってきた。
 
坂本友規は、真っ直ぐな元気な人間で、総代をして優れて農業に熱心であったが、あるとき役場に出てきたのを見ると、真っ青な顔をして、大層元気がない。それで私が――
 
「坂本さん、どこか加減でもようないでないかぇ、大層元気がない様だが――」と聞くと、如何にも力のない声で
 
「えぇ、米は無なるし、イモ(馬鈴薯)を食えぇというで、10日ほどイモ食っているがどうにもこたえんぜ、イモじゃいけんなー」と吐き出すように言って椅子に腰を下ろした。
 
これは単に坂本のみの問題ではなかった。これらの患み、困しみは、県庁(三県時代の根室県)における開拓、農事の指導方針、移住者生活の保護方法に欠けるところがあったのではあるまいか。移住者もまた北門鎖鑰とか、拓植報国といって、肩を怒らせては来たが、果たして農事にどれほどの勝算があったのか極めて怪しいものである。

 
士族移民達がさまざまな作物を試した中で、辛うじて形になった作物が「大根」と「馬鈴薯」でした。特に馬鈴薯は主食の代わりとして移民の餓えを癒しました。もっとも、そのために水産業者が多数を占めていた釧路の住民からは「五升いも」と蔑まれました。
 

馬鈴薯(いも)飯は、イモを細かく賽の目に刻んだものの一升に、米を2合ぐらい混ぜて炊いたのはまだ上等の部類であった。暖かい間は馬鈴薯の匂いがするので、好かぬ人もいるが、結構なものだ。冷えるとボロボロして食べにくい。味噌も醤油もみな馬鈴薯で製造したものだ。だから釧路の衆は私達のことを「鳥取の五升いも」と冷笑したものです(小畑龍吉談)

 

私と富治兄は、来た年に祖父母と釧路に出て、日清学校に通った。当時生徒は四~五〇人もあっただろう。多くは漁場の子どもで東北の人である。その中に兄と私のただ二人。鳥取人で百姓の子なのだ。様子も違う。鳥の群れ中に他の鳥が迷い込んだと同じで、衆を頼む子供達は、寄ってたかって「鳥取の五升いも」とはやし立てる。関わらずにいると横から背後から棒きれなどで突っつく。三男坊の私は我慢できない。突貫して張り倒してやると、ワーッと散ってしまうが、すぐに集まって「鳥取の五升いも」を始める。

 
 

■「鳥取大根」に一縷の光

鳥取村の農民は、馬鈴薯にすがりつくよりありませんでしたが、これを売って換金することができるようになるのはまだ先でした。
 

明治24(1891)年秋、渡辺長官が巡視されたときに、本村で生産した馬鈴薯を宮内省へ献上して、天覧を賜ったということである。ともかく馬鈴薯と大根は、土地に適合しているのか、非常に収穫があったけれど、収穫したところで一人の買人もないので、自然と耕作に遠ざかり、あるいは官庁の勤務に、その口の見つからぬ者は漁場の日稼ぎに出て米塩の料を得てくるようになった。

 
かつては士族として「旦那様」と呼ばれていた者が漁場の下働きです。このような鳥取村でしたが、明治39(1906)年に鉄道が釧路ー帯広間に開通し、作物の販路が開かれて状況は改善します。
 

39年に記者が帯広まで、41年に函館まで開通したのを機会として、いわゆる「鳥取大根」が網走、帯広、旭川方面に進出した。年間約50万本、価格にして2000円ないし3000円、当時としてはなかなの収入であった。

 
しかし、この大根生産もやがて競合産地が現れ、産地間競争にさらされます。
 

これが10年ほど続いて鳥取大根の名声を上げたが、そのうちに害虫が付きはじめたのと、沿線の庶路、白糠、音別などの農家が盛んに移出しだしたので暫時衰退してしまった。

 
このようにして明治の終わる頃には、鳥取村は元の苦境に戻ってしまうのです。
 

一体本村の農業は移住当初の第一歩から、一、如何に農業すべきか。 二、何を作付けすべきか。三、如何に收穫物を処理すべきか、といふ大事な問題について、移住者は勿論のこと、指導者たる当局にも、何等確たる成案が無かったため、五十年の間、その時の風向に動かされて右に左に彷徨して来た姿である。

 
 

■寒村を蘇らせた旧臣の涙

「上」で紹介したように劣悪な条件の中でも村民達は「矯士会」「報恩会」などをつくり、石にしがみつくように農業をつづけて来ました。この村民達の姿を神様も見ていたのでしょう。大正9(1920)年、村に富士製紙(後の王子製紙釧路工場)が立地し、村は一変するのです。
 
大正4(1915)年、阿寒の前田一歩園の創設者前田正名から「富士製紙株式会社が釧路地方に工場建設の計画をもっている」という知らせが鳥取村にもたらされます。村では協議し、小畑牧蔵、野村英造を代表として上京させ、敷地の略図を提示して誘致運動に当たらせますが、この話は立ち消えになりました。
 
しかし、翌大正五年当時日本におけるパルプ製造技術の第一人者といわれた大川平三郎(大正8(1919)年より富士製紙社長)が製紙会社の創立を計画し、工場を釧路地方に設置すべく調査を開始しました。大川は大正5(1916)年2月に配下の田中文太郎を派遣します。あろうことか、この田中文太郎も旧鳥取士族の出だったのです。
 
次は『鳥取村五十年誌』に掲載された田中文太郎の手記の一節です。
 

田中文太郎②

 

しかるにこの鳥取村は、私の郷里旧鳥取藩士の方々が、明治17(1884)年、18年に団体移住をなし、開拓に従事されたる由なるが、それにも拘わらず、業績挙がらず、全く見るに忍びざる一寒村にて、感慨の涙下るを知らざる位、実に情けなく感じたり。
 
しかしてこの村に、旧主輝政公以来の御影像の祭ある鳥取神社あり、之に初めて参詣したるに、神社の屋根は壊れ、鳥居は傾くといふ悲惨なる有様にて、旧藩士たる私は実に残念の涙に暮れ、その社前に脆き、万難を排して此の村に工場を設置することを誓い、神様もこれを嘉みせられて、旧藩士の方々が蘇生されるよう、併せて事業の支障なく成立するよう心願こめたり」

 
このようにして鳥取村の立村の志は救われたのです。『鳥取村五十年誌』はこう書きます。
 

此の処に王子製紙工場と云ったのは、王子製紙株式会社釧路工場の事である。縷々記述した如く、本村五十年の歴史の内製紙工場が設置せられたるに至るまでの約三十五ヶ年は、ただ困苦、窮乏、陰惨、悲痛、血と汗の記録に過ぎない。村民が生活らしき生活を営み、多少とも文化の恵沢を享受し得るに至ったのは全くその後のことである。すなわち製紙工場の設置は、本村歴史の上に光明と、栄誉と、進歩と、発展とを齋らしたものと言ふべきである。

 

富士製紙釧路工場②

 

 


【主要参照文献】
『新釧路市史』第1巻・第2巻・第3巻 1972~1974
『鳥取村五十年誌』S9③
『鳥取県人の北海道開拓移住』鳥取県立公文書館 1998 
①北海道大学北方資料データベースhttps://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/
②鳥取神社公式サイトhttps://www.tottorijinja.com/
 

 
 

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