北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[鶴居村]青山 奥左衛門

 

今回紹介する「草分けの人」は鶴居村の開祖 青山奥左衛門です。開拓の厳しさは当サイトをご覧になっている方は理解されているところと思いますが、厳しければ厳しいだけそれに挑戦したいと意欲を燃やす者もあります。青山がまさにそうした開拓者でした。昭和41年の『鶴居村史』からのご紹介です。
 
『鶴居村史』は昭和62年版もありますが、なぜ古い方をご紹介するというと筆者や編集者が開拓時代を実体験としているからです。多少手を入れましたが、昭和41年版は少々文章が散らかっています。それでも行間には、厳しい大自然に打ち克って郷里を拓いた、開拓の誇りと自信があふれています。そのこともあわせて味わっていただければ幸いです。
 

 

■開拓の達人 青山奥左衛門

本村の農業は前述に述べたごとく、明治18年、釧路アイヌ27戸の移住をもって創始とするが、本村の原野に、ようやく集団的な開拓を見るようになったのは、それから幾歳かの星月が流れ、明治35年6月、青山奥左衛門らの移住を見てからであった。
 
そもそも青山奥左衛門という人は福井県の出身者で、早くも明治23年北海道に渡り、以来札幌郡広島・島松を拓き、さらに同29年には十勝利別川流域に入って、すでにこれも成功を遂げていた。
 
折りから、たまたま農事試験場の某技手が根室地方の視察をおえて帰り、青山に対し「やっぱり根室は見込みない」と語ったからたまらない。青山は非常に憤慨し「道路を歩いた視察で何がわかる」ということから、たちまち激論となり、あわや掴み合い喧嘩にまで発展しそうなありさまであった。鬱勃たる彼の開拓精神は、これまで農耕不適地とされた根室原野に意欲の火を燃やしたのである。
 

■釧路支庁長に懇願され

こうしたことから青山は明治34年、わざわざ釧路支庁に出かけ根室原野の調査に当っていると、ときの支庁長赤壁二郎はその熱心な姿に「どうしても根室でなければならないのか、釧路原野を拓いてはくれまいか」という説得にあった。
 
ついにその懇望を容れ、地図によって久著呂原野に定め、早速アイヌ人若干名を道案内にともない、まずコッタロ川に沿って田口牧場の高台に至り、それから久著呂川上流に遡ること約4日にして北19線まで達した。
 
所々視察の結果、下久著呂から中久著呂の間、久著呂川両岸が最も有望の地として選定して帰り、ただちに3人の名義をもって80戸分400町歩をこの両岸流域に出願したのである。
 
支庁では当時1人の競願者があったが、とくに機先を制して許可を与えたという。これがそもそも青山奥左衛門が本村に入植する動機であった。
 

■久著呂原野の端緒が開かれた

越えて翌35年6月、青山奥左衛門は、福井・福島・岩手の各県から移民20余戸を募集した。
 
一行は船で釧路港に上すると、福島移民10戸はいまの釧路市鳥取町を経て湿地や山林の歩道をたどり、途中雪裡原野に1泊したが、時ならぬ大雪に見舞われ、これに怯えた4戸が夜中に逃亡するという事件があった。青山は極力残留者の慰撫督励に努め、さらに道のない原野をどうにかこうにか老若男女の手を携え、相扶け、ようやく現地に到着したのは同月15日であった。
 
別動の一隊は釧路川本流を丸木舟で遡り、久著呂川に至り、太古のままの流木や倒木をかきわけ、押しわけ、非常な困難をしながら、舟を曳き続け、1週間目にやっとの思いで現在の北16線・17線の地点に舟を着け、それから丈余の雑草密林を踏み分け、共同開墾小屋にたどりついたのであった。
 
以来この地を青山農場と称し、まさに前人未踏の原始林にいどみかかり、樹木を玉伐りにして焼き払い、窓鍬で1鍬1鍬起し、作条を切って作物の播種したが、初年度は何ひとつ収穫を見ることができなかった。それがために食糧が欠乏し、それを全部釧路に求めて引船で運搬して給与するという苦心も重ねている。
 
かくて久著呂原野開発の端緒が開かれたが、これより先、下久著呂には年代は不明であるが明治の中頃、盗伐に入った天内3太郎という人に雇われて入地、そのままこの地に止まったという大友竹蔵という人があり、そこへ同40年、渡部幸作が上利別から入り、まったくの自給自足の生活が始められた。(中略)
 
実にこの人々こそ名実ともに本村の草分けとして、道なき道を踏みわけてはるばる入地し、まったく原始草莽の処女地に開墾の鍬を打ち込んで、今日の礎石を築いた人々であった。
 

鶴居村鶴見台(出典①)

 

■輝かしい開拓者の新居

いまここに1例を大正7年、山形県平野村から、上幌呂原野基線31番地から48番地までに入った、山形団体17戸に見ると、当時この人々の多くは郷里において小作農家や日雇業者であった。それが「北海道へ移住して開拓さえすれば、広い土地が無償で付与され、しかも水田でも畑作でも、何んでも穫れるんだ」という話は、どんなに大きな魅力であったろうか。一挙に何町歩の大地主になることが出来るという夢と希望は、やがて先祖代々の故郷を後に移住を決意させたのである。
 
こうして4月1日、郷里山形を出発し、釧路の旅館に一夜を明かして支庁を訪れ、一片の図面と道順を窓口で教えられて、いよいよ現地に向った。
 
荷物は茂尻矢(いまの釧路市大川町)から川舟で下雪裡までの輸送を頼み、人は吹きすさむ鳥取街道を阿寒の麓をめざして、老母や子供たちの手を引きながら徒歩で1歩1歩と進んだ。
 
平戸前付近で阿寒川を渡舟で越え、ようやく下幌呂の駅逓所にたどりついて1泊。翌日は中幌呂の岡田農場の事務所まで至り、ここで先住者の小屋に一同がしばらく厄介になることにして、まず第一にここから通って現地に共同小屋を建てなければならなかった。
 
現地には道案内人をたのみ、1枚の図面をたよりに入植地を探した結果、おそらくここらであろうと、水の便利な川淵を選び、幾日かかかってやっと小屋掛けも済み、一安心してした。
 
ところが立木を造材する人がきて「われわれはこの付近の立木を買って造材するものであるが、ここは佐賀団体の入植するところ、山形団体はもう少し上流の方ではないか」といわれた。よく調べて見るとなるほど違うことがわかり、また改めて何日かかかって小屋の建て直しをやって、はじめて家族たちを連れて共同小屋に移った。
 
それからこの共同小屋を足場にして、各自の家を建てはじめた。むろん家といっても縄や釘といった資材をすべて釧路から買い入れ、適当な丸太を伐って掘立小屋の骨組みをつくり、それに征を刈って屋根を葺(ふ)き壁を囲い、丸太を四角に並べて炉を切り、枯草を敷いて床にした。
 
窓といえば木枠に半紙1枚貼っただけのものであり、入口は荷物をほどいた筵(むしろ)を吊して戸にするという。まったく非人小屋に等しい小屋が、いわゆる希望に充ちた輝かしい開拓者の新居であった。(井上玄四郎記録)
 

■40キロの道のりに10日

大正9年の3月末に入った岐阜団体の記録によって見ても次のような状況であった。
 
まず家族を現地に送り込まねならんと、急用の荷物だけを馬橇に積み、家族婦女子はみな歩いて山に入ったが、峠まで行かないうちに夕闇はせまり、仕方なく暗い道をとぼとぼと山道を下った所に丸松造材の飯場があった。
 
そこの事務所に入り事情を話して一夜の宿をたのんだところ、快く迎え入れて世話してくれた。そして大曲の川淵の荷物もここまで運んでおくようにいわれ、喜んで翌日はまず家族たちを現地に送るべく、昨日のようにまた歩き出し、茂幌呂の口まで来たが、雪が深くて馬橇(そり)も人も動かれず、野草踏みをして荷物を背負って運ぶのに2日も過した。
 
こうしてどうやら前年に建ておいた小屋に家族を落ち付かせたが、野積にしてある荷物が心配で、馬橇4台に6人が下ったが、もはや雪は解けて少なく、日中は馬橇もきかず、止むなく毎晩8時頃に川て行き、毎夜寝もせずに丸松の飯場まで運んだ。
 
しかしそれさえも程なくダメになり、残って荷物は馬車を借りて釧路に逆送して川舟で上げることにした。オンナイの丸松飯場まで揚げた荷物も、馬橇で2回ぐらいも連んだ程度で雪が解けて悪路で通れず、それらの荷物が全部着いたのは、この年の8月末であったという。
 
また、川舟に頼んだ荷物の輸送なども決して安全なものではなく、荷物を小舟に積んでそれを5~6人の人夫が、長いロープで川淵を歩いて曳き上げて遡るのであるから下雪裡につくのは早くて5日、遅ければ10日もかかった。
 
しかもこの人たちは自炊をしながら舟に寝泊りしてやっていくのだから、雨でも降って増水し、川淵にあふれて歩けなくなったら最後、何日でも減水するまでそこに止まっているので、遅いも早いもまったく天気次第なのである。
 
ことに雨が降っても荷物にかけるテントも持たず、莚(むしろ)や菰(こも)があれば誰のものでも容赦なく取り出して掛けるといった状態であった。その間、幾日も幾晩もかかるうちには、米でも味噌でも酒・菓子・焼酎でも、手当り次第に抜き出して食ってしまうこともあり、荷物が不足だなどと文句をいえば、それから後、その人の荷物は取り扱ってくれないので、みんな泣き寝入りをしてしまうということが、公然たる事実であった。
 
こうしたことは、山形団体や岐阜団体ばかりではなく、おそらく早期入植者は何人も体験した偽らぬ記録であろう。(松井貞雄記録)
 
※今の舗装された道路では想像しにくいのですが、かつて雪解けの頃は道がたいへんなぬかるみになり、歩くのもままならなかったのです。この例では釧路から鶴居村茂幌呂までの約40㎞の馬車輸送に5~10日もかかったとあります。
 

■いよいよ開墾がはじまった

入植当初の本村はいずれの原野も幸い地味は肥沃であった。そしてそこには原始の密林が鬱蒼と下からびっしり枝を交えて暗く生い茂っていた。入植者の開拓はまず、その立木から処理しなければならないのである。
 
これがまた容易な業ではなかった。鋸(のこ)の目立ても知らぬものが、道具といっても手鋸(のこ)一丁、鉈(なた)一丁で、一抱えもある大木を力だけで倒し、枝をおとし、幹を切り刻み、それを手や梃(てこでころがし、集めては、火をかけ、何日も天を焦がし、燃やし続けた。
 
こうして立木の処理したところから火を入れて、笠原や芝、雑草や小枝を焼き払うのであるが、それもときには火をもらして大地積を焼くことがあり、全員総出で大騒ぎしたことも何度かあったという。
 
さて、火入れが済むといよいよ開墾がはじまった。入植者のうちにはプラオを入れた人もあったが、多の人々は島田鍬(くわ)か窓鍬で荒起しをかけた。起したあとからそれに筋を切って植付けをした。播種は、ただちに食糧になるイナキビ、馬鈴薯、ソバ、麦などで、笹の多いところは、筋も切れないので、ソバをケズリ蒔(ま)きしたり、壺蒔きにした。
 
秋になってかなりの収穫を得たといっても、耕地面積が少なく、到底自給自足の生活はたたなかった。手持ちの金も路銀やその他の道具や準備に使い果たし、毎日開墾に専念することも許されず、山稼ぎをしてはその賃金で造材事務所から高い米麦や味噌を買い、開墾してはまた山稼ぎという血のにじむような苦闘は、入植後数年は続いた。
 

■苦役に近い勤労の日々

そしてようやく自給自足の生計が確立されたとはいえ、白米などはもなくソバ、イナキビ、馬鈴薯、南瓜(かぼちゃ)が主食であった。副食物はむろん、海の魚などは高くて食べられなかったが、幸いヤマベ・イワナなどの川魚が豊かで、昼休みに釣ったり、フキやワラビ、キノコなどの山菜を摘んで食べた。鱒(ます)の昇る時期になると棒切れで叩いて穫ったものだという。
 
服装は各自さまざまだった。お互いの故郷の延長を物語るもので、山県方面からきた人々はー名ドソプクといった綿入半纏に、男女とも独特のモンペをはいたものだったが、山稼ぎをするようになるとこれも乗馬ズボンに変った。
 
履物は夏はワラジ、冬はツマゴ、開墾の時だけは足袋を厚く、白木綿の糸で刺したボッコ足袋をを履いた。ワラジやツマゴをつくるといっても藁(わら)がなく、空俵や酒樽の菰(こも)を買い求めて、夜は目を腐らせながら暗いランプの下に、男は藁仕事、女に足袋さしやつくろいをくり返し、すでに希望を語る夢も消え失せ、ひそかに孤独と絶望に泣きながら、苦役に近い勤労の日々が幾年も幾年も続いた。
 
もちろんこの以外にも、当然記録されるべき数多くの人々があったにちがいない。いずれも本村の開拓に新しい人生の希望をつなぎ、不屈の情熱を燃して移住したのである。
 
そして今日ある本村の1本の道も1架の橘も、初めはそれが1本の丸太橘であったにしろ、昔からそこにあったものは何ひとつなく、必要にせまられ、また将来の利便を考え、自分たちの手によって架けられ、自分らの足によって、1歩1歩踏み堅められた経路の上に築かれたものである。
 
※今回は青山奥左衛門よりも青山が切り拓いた道を辿ってきた鶴居村の入植者が中心になりました奥山は尊敬する開拓者ですので改めてその後の苦闘を紹介したいと思います。


【出典】
『鶴居村村史』1966・鶴居村
【写真出典】
①釧路支庁HP>産業振興部 > 商工労働観光課 >  くしろ風光フォトグラフィ 
http://www.kushiro.pref.hokkaido.lg.jp/ss/srk/kanko/ksrphoto.htm

 
 

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