設計者・井口健 北海道百年記念塔を語る ②
設計理念
道民の無限の生命力をいかに表現するか
■設計競技の条件はどのようなものだったのでしょうか?
高さが100メートルであること、そして100年の耐久性のあるものであること。工事費は概算で4億5000万円、これに納まること。
公園地区を設計された高山英華先生によって開拓記念館と記念塔の位置が設定されていました。記念塔のセンターと開拓記念館を結んだラインがちょうど南北軸となっており、開拓記念館を設計した佐藤武夫先生は、開拓記念館のエントランスから額縁の中に塔が入っているように配慮されました。
開館直後の北海道開拓記念館と北海道百年記念塔(出典①)
建設当初の「北海道開拓記念館」の北口より記念塔を望む
現在は木々が成長しているが、このように両施設は視覚的にも連携していた②
■設計にあたって念頭に置いたことは何でしょうか?
コンペの募集要項はこう謳っています。
「この記念塔は、北海道100年を記念して建設されうるものである。したがって開発に尽くした人々の労苦に感謝する敬虔な心と、さらに未来に向かって輝かしい郷土を建設しようとするたくましい道民の意欲を造形的に表現するものでありたい」
この理念をいかにかたちにするか──それを第一に考えました。
当時、(北海道100年事業では)「風雪百年・輝く未来」をスローガンにしていましたが、風雪百年──厳しい自然を乗り越えてきた逞しいフロンティア精神、すなわち道民の無限の生命力をどう表現するかを一番に考えたんです。
■一部でこの塔は「アイヌ民族同化政策の象徴」という声もあるようですが?
見当違いの中傷ですね。
コンペの募集要項を読むと当然、北海道の歴史ということを思うわけです。この百年間だけではなく、何百年という過去の歴史に思いを致せば、当然、先住民族であるアイヌの人々を意識します。
アイヌの方々が多大な犠牲を払われたと同時に、松浦武四郎の測量事業に少なからずアイヌの人々が貢献しているように、アイヌの方々も和人も一体となってこの北海道の歴史を作ってきたのです。
まったく予想もしない結果で僕が最優秀賞に選ばれたわけですが、授賞式で一言あいさつをするように指示されたとき「明治維新によって『蝦夷地』から『北海道』に命名されて以来、北海道百年の開拓の歴史としての意義があると思います」と話をして感謝の言葉を述べました。
北海道の歴史を百年で始めるのではなく、先住民族の時代からとらえてこう言ったわけです。会場の人は分からなかったと思いますが、塔建設期成会の方からは「井口さんはよいことを言ってくれた」と言われました。私としては当然アイヌの方々への感謝も潜在意識に置きながら、塔のコンペに着手したんです。
もっとも、このような中傷が消えないのは、当初設計通りに塔がつくられなかったことにも理由があると思うんですよ。
■先生の構想の通りにならなかったところがあったんですね?
小樽文学館『北海道百年記念塔展』での
井口健先生
それでたまたま井口の案を見ると(塔の他に)いろんなものがあると、これらを全部取っ払うと予算内に収まるのではないかという発想で、煮詰まってでき上がったのが現在の塔です。体にたとえると手足を全部取っ払って背骨だけが残っている──そういう大手術された状態ですね。ですから設計者の立場としてははなはだ不本意なわけです。
■取り除かれたものには何があったんですか?
和人の先輩、アイヌの人々を合わせてまして、先住の歴史というのは何百年もあるのです。そうした先人たちへの慰霊のために、塔の周辺を2メートルほど下げて「瞑想空間」としました。今は池となっていますが、塔のまわりを散策しながら、先人に想いを致す対話空間。今であればアイヌ模様を彫って味わいを付ける──そういう雰囲気を出したかった。少し下げることによって塔が根から生えている感じ強調されると同時に、そうした瞑想空間が出来ると考えたわけです。それが真っ平らになってしまいました。のっぺりとして味わいが失われてしまいました。
塔からは少し離れところに高さ20メートルくらいの展望台を設けていました。この展望台の中に慰霊のための空間をつくるという気持ちもあったんです。この展望台の上がると、六角形の全体空間が把握できる。地面に立っているとわからないですからね。ここに立って全体を把握しながら、森林公園の森も眺めることできる、街も見渡せる──そういう味わいのある施設になるはずだったんです。
コンペ応募時の平面図
南に慰霊施設を兼ねた展望台が配置されている。
コンペ応募時の立面図
左に展望台が見える
■どうして実現しなかったのですか?
予算です。僕は予算という言葉に弱い。そう言われてしまえば言い返せません。味のあるところが全部削られて、手足がもがれて骨だけが残ったんです。だから僕としては不完全燃焼。シューベルトの未完成交響曲でないけれども、まぁ未完成の塔だな。
当初構想を示す模型
展望台は三角形の塔を抱いた教会のような造形だった
■設計者である先生にも批判が寄せられたんですね?
完全なかたちでできなかったものですから、これまでさんざん、とばっちりやら、批判やら、受けてきましたよ。あれはアイヌを侵略したシンボルだ、だから早く壊せ──とアイヌの支持者から非常にお叱りを受け続けてきたわけです。
いろんなことを言われてきましたけど、(そうではないという)確たる事実がありますから、なんぼ言われても僕は気になりません。黙って聞き流しています。
僕は物事を常に前向きに考えることにしています。過ぎたことに対してグタグタと文句を言うとか、そうした後ろ向きな姿勢というのは僕の人生の中に一切ありません。
【解説】北海道百年記念塔50年の歴史 ②
北海道百年記念塔建設期成会の設立
北海道百年記念塔の建設は、昭和43(1968)年の「北海道百年」の中心事業でしたが、北海道百年記念事業から切り離し、「北海道百年記念塔建設期成会」が別に設けられることになった。これは記念事業が北海道庁の事業であたたため、塔の建設を〝道民の総意〟によって実現するためであった。
昭和42(1967)年5月に、北海道商工会議所連合会会頭広瀬経一氏のほか産業団体、報道機関、学識経験者23名によって設立発起人会がつくられ準備が進められた。
同年6月6日、100名を超える道内各界の代表者が集い「北海道百年記念塔建設期成会」が町村金五北海道知事を会長として設立された。副会長には阿部兼夫北海道社会福祉協議会長、岩本政一道議会議長、黒澤酉蔵北海道開発審議会長、杉野目晴貞北海道総合開発委員会委員長、広瀬経一北海道商工会議所連合会会長が就いた。
北海道百年記念塔建設期成会設立趣意
明治2年にえぞ地を北海道と改め、開拓使を置き、積極的な開発を進めるようになってから100年を迎えました。
未開の地北海道は、わずか百年の間に当時10万人の人口が今日520万人を数え、産業経済文化のあらゆる分野においてたくましく発展し、日本経済に大きく寄与する土地としてますます躍進が期待されています。
北海道のこの一世紀の目覚ましい開発と発展は、わが国民の歴史的な遺業であり、今百年を迎え、道民の深い感動と誇りであります。
われわれ道民が今日の生活を享受できるのは、国の積極的な政策はもちろん、開拓者精神に燃えた先人の高い理想と、えい智と苦労の所産であります。
北海道百年に際し、開拓の功労者として称えられている方々はもとより、それぞれの職場において北海道開発のゆるぎない基盤を培ってくれた多くの方々に対し、感謝と慰霊の誠をささげながくその遺業をたたえたいという念を禁じえません。
また開発の偉業をつぎ、豊かな発展の可能性を開発し伸張させてゆくものは、我々とこれを受け継ぐ道民であります。この機会に次の百年に向かってたくましく郷土を建設するわれわれ道民の決意を表明したいと思うものであります。
幸いに札幌市・江別市及び広島村にまたがる野幌天然林を中心に百年記念事業として道立の一大記念公園の建設が進められております。この公園を中心施設として、われわれの感謝と決意の象徴であり、道民の熱意を込めた北海道百年の記念塔を建設し、ながく記念と致したいと存じます。
ここに道内各界各層の有志が相はかり、北海道百年記念塔の建設を推進する期成会を設立することとした次第であります。[Ⅰ]
期成会設立と同時に「北海道百年記念塔設計競技実施要綱」が発表され、全国に作品応募が呼びかけられた。登録の〆切は昭和42(1967)年7月10日、応募設計図書受付は同年10月15日から、〆切は同年10月31日とされた。
賞金の総額は550万円であり、最優秀作品におよび優秀作品には賞金100万円を、準優秀作品数名には150万円を等分するとされた。
なお「入賞設計図書の著作権はそれぞれの設計者に帰属する」となっている。本サイトで掲示した設計図面は設計者である井口健先生提供のものだが、著作権も井口先生にあることを確認しておきたい。
【引用参照出典】
[1]]『北海道百年記念事業記録 資料編』1969・北海道百年記念施設建設事務所・225p
①『北海道開拓記念館10年のあゆみ』1981・北海道開拓記念館・口絵
②『北海道開拓記念館』1971・29P