北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 

 

設計者・井口健 北海道百年記念塔を語る ⑥ 

審査と設計

北の大地の交響曲

 
  

──先生の作品が最優秀に選ばれました。どういうお気持ちでしたか?

僕自身がびっくりしました。全国から名だたる建築家の作品が299点も集まるようなコンペで、北海道の地元の建築家が当選するとは誰も思っていなかったんですよ。 それも誰も知らないような若造が当選したということで、業界関係者みんなびっくりしたと思いますよ。でも一番驚いたのは僕です。
 
久米でも、札幌では僕だけだったけど、東京の本社がこれを取ろうと必死でした。社内コンペを開いて、一番いいもの社長の名前で出すという力の入れようだったんです。
 
嬉しいと言うよりも、大変なことになったなぁと思いましたね。 コンペだけでは終わらない。実際に創らなければならないという責任感がまずきました。 いやーこれから大変だなぁと本当に思いました。
 
 


※北海道百年記念塔設計競技 最優秀賞を伝える北海道新聞(昭和42年12月11日夕刊)

百年の記念塔設計 若い道産子に輝く
〝きびしい冬〟追求
井口さん野幌へ何度も出向く

受賞を報じる新聞

北海道百年記念塔の設計者にドサンコ建築士が選ばれた。しかも29歳という若さ。大きな設計競技は初めての参加、みごと〝金的〟を射止めた。「きびしい自然に負けるな。未来に向かって勇気を持とう」という姿勢を設計図に力いっぱいぶつけたという井口さんの顔は誇りに輝いている。

『雪の中に立つ塔──イメージを置いて求めてみた。出来上がった作品にスマートさはない。かえってごつい感じに見えるかもしれない。色も茶色で、割と地味。しかし、厳冬期、ふぶき中で見たらきっと力強く見えるでしょう」

井口さんは勤め先の久米設計事務所札幌事務所の道庁新庁舎現場事務所で落ち着いてこう語った。

建築競技に応募しようと思い立ったのは9月上旬、応募締め切りの2ヶ月前。塔の建設予定地の野幌原始林を何度か行ってみた。昼は勤務、塔の設計に取り組むのは夜だ。窓の外に星が見える。

「北海道百年記念塔だけは道産子の手で設計したい』──考えに疲れ、夜の空気を吸うたびにそう思った。追い込みに入って事務所の同僚今桑原義彦さん、煙山正吉さんら五人の仲間も設計に肉付けしてくれた。

うれしいニュースは佐藤久米建築札幌事務所長の口から知らされた。
「まさか──初めは信じられなかった。だって全国から、優秀な作品が数百も集まっていただく言うんですから……」「早くほんものの塔が立つのが見たい」──分厚い設計図を手にしながら、言葉が熱を持ち「東京オリンピックの競技場なんかもやってみたい」と次の仕事へのファイトを燃やす井口さんだ。

桧山管内真金町の故郷には父親の栄さん(51)と妹3人がいる。栄さんは家具建具・看板業。樋口さんも小さい頃から手伝わされた。「こんどの受賞は父が一番喜んでくれるでしょう」という。

札幌工業高校で井口さんを教えた渡辺正朗教諭は「高校時代から個性的な図面を引く生徒だった」と語り、佐藤札幌事所長も「真面目な人柄で、仕事ぶりは同僚の模範」と今度の事象をたたえている。
 

この新聞記事に対する井口先生の感想
スケッチはコンペに参加しようか思案中に描かれたもの(真駒内公園)
(2021/02/25提供)

 


 
 

──優勝賞金百万円はどうしたんですか?

半分は久米事務所が持っていきました。残りの半分を協力してくれた仲間に分け、記念品として塔のミニチュアを作ったら、あっという間になくなりました(笑)
 

──どのようなところが評価されたのでしょうか?

建築家佐藤武夫氏②
音響学の父と言われる。名古屋生まれ
だが、旭川で中学時代を過ごしたこと
から思い入れが深く、日本建築学会作
品賞受賞を受賞した旭川市総合庁舎な
どで知られる

審査過程は知らされていませんから、詳しくはわかりませんが、審査講評で審査員長の佐藤武夫先生から、〝北の大地の交響曲〟という評をいただいたんです。少し紹介します。
 
最優秀案を提出した井口氏の設計趣旨に書かれているように、氏の案は問う建設の主旨の精神的つかみ方という点がしっかりしていること。
 
また造形的にいうと、精神性の高い建築は「凍れる音楽」だと言われますが、まさしくこの案の塔は一つの音楽であるとも考えられます。まことに北海道のフロンティア精神を雄大にうたいあげた豪壮な交響楽というような感じも受けます。
 
一見荒々しく、豪放で、『何か黒い鎧をまとった野武士のようだと評した審査員もいます。敷地条件、構造、材料、施工上の整合性やワーカビリティあるということで、最終的にこの案が選ばれました。

  

高山英華氏③
建築家で東京大学教授。日本建
築学会会長。昭和39年の東京オ
リンピックの施設計画を手がけ
た都市計画の第一人者

──なるほど〝北の大地の交響曲〟ですか。言い得て妙ですね。審査委員長の佐藤武夫先生は開拓記念館の設計者でもありますね?

 

開拓記念館の方が数カ月ですが、ちょっと取りかかりが遅いんですよ。森林公園の中の記念施設地区というのが設けられていて、その設計を高山英華先生が担当していました。森林公園全体は、東大林学部の加藤誠平先生が担当してます。
 
その記念施設地区にはコンペの前から、記念塔と開拓記念館のだいたいの場所が決められていたんですが、佐藤武夫先生は百年記念塔に配慮して、建物の中心軸を塔の方に向け、エントランスから塔が額縁に入って見えるように設計されたんです。
 

開拓記念館の中心軸から記念塔を望む④

 

──コンペで選ばれて設計に移りますが、設計の段階でコンペから変わったもところはありますか?

塔を望む展望台と慰霊のためのマスについてはすでに言いましたね。今の塔は、鎧のようにコルテン鋼のパネルをボルトで鉄骨に止めているんですが、構造計画ではブロックを積み上げる計画だったんですよ。予算がないということで、外板を貼り付ける方法に変わってしまったんです。
 
予算もそうですが、ブロックを積み上げるというのは実際には技術的に難しかったんだと思います。審査している人たちも実際にはこんなのできっこないと思っていたかもしれませんが。
 

──他に設計から変わったところはありますか? 

塔の向きも変えられたんです。当初は、コンペに応募したパースの姿を今のアプローチから見える形にしたかったんです。人の顔もそうですが、正面よりも少し斜めから見た方が良く見えますからね。
 
でも、展望室から札幌市街がよく見えるようにと、事務局から圧力がかかって向きを変えられたんです。私としては一番見てほしくない角度が正面になってしまい非常に残念です。
 
塔が展望台であるということをほとんど考えていませんでした。塔は見るもので、塔から見るものではないと。仕様書に展望施設がましたから、申し訳程度にいれましたが、これも歩いて登れる高さにということで位置を下げられています。ビルの8階ほどの高さに展望室として作られました。エレベーターはここから使用できるようにエレベーターは当初は解放していましたが、塔の管理専用に置き換えられましたね。
 

コンペ時のパース

現在の百年記念塔。向きが変えられていることがわかる

 

 

【引用出典】
①北海道新聞 1967/12/12朝刊
②日本建築家協会 北海道支部旭川地区会公式サイト https://www.jia-asahikawa.com/about4
③建築専門家のための情報サイト「コメット」COM-ET https://www.com-et.com/jp/page/architect/067_matsunaga/02/
④「北海道開拓記念館」1971・29p
 


北海道百年記念塔の歴史③

設計競技の公募と審査 

 

公募

北海道百年記念塔の設計競技(コンペ)は、企業団体を対象とせず、一級建築士の資格を持つ個人を対象としたものだった。他の専門家と共同設計することは認められたが、その場合でも応募者は代表者1名とされた。
 
昭和42年6月10日から札幌の道庁内、東京の北海道東京事務所、大阪の北海道大阪商工事務所内に募集要項を設置して応募者登録を開始し、7月10日に締め切った。
 
登録した者は、東京都内の560人を筆頭に、北海道147人、大阪府135人、神奈川県114人のほか、総数1327人に達した。
 
6月20日から7月25日までの質疑応答期間が設けられ、8月25日に質疑応答書が登録者に発送された。
 
作品の提出期限は昭和42年10月31日で、実際に寄せられた作品は299点であった。東京都が146点、北海道33点、大阪府27点、神奈川県20点、愛知県14点、埼玉県13店、以下20県となっている。職業別では設計事務所勤務者が179人であり、ほか建設業者・大学勤務者、公務員などの応募があった。応募者の年令は最年少26歳から最高齢78歳だった。
 

審査

審査員会は、佐藤武夫(佐藤武夫設計事務所所長)を委員長に次の各員が任に就いた。
 
阿倍 議夫(北海道文化放送社長)
大野 和男(北海道大学教授)
島本 融(北海道銀行会会長)
関 文子(北海道家庭裁判所調停委員)
高山 英華(東京大学教授)
谷口 吉郎(東京工業大大学名誉教授)
田上 義也(田上建築政策事務所所長)
前田 義徳(日本放送協会会長)
横山 尊雄(北海道大学教授)
 
審査は11月上旬から始まり11月中旬まで第六次にわたる審査を繰り返して16点を選び、12月9日最終審査を行なった。
 

 

設計競技審査の模様
左から横山尊雄・関文子・大野和雄・田上義也・高山英華・島本融・佐藤武夫・谷口吉郎

 

入賞者

最終審査では 
 
①建築主旨の精神性の捉え方
②構造の独創性と格調の高さ
③敷地・予算・構造・施工その他条件に対する整合性
 
を観点に約10時間に渡る検討の末、次の最優秀賞1点・優秀3点・準優秀6点の作品が選ばれた。
 
最優秀 井口 健(札幌市)
優秀 木村 康広(札幌市)
優秀 黒川 紀章(東京都)
優秀 沢田 隆夫(東京都)
準優秀 梶本 茂治(東京都)
準優秀 久保 雄三(東京都)
準優秀 長嶋 正充(東京都)
準優秀 林 久満(東京都)
準優秀 依田 定和(東京都)
準優秀 渡辺 洋治(東京都)
 
昭和42年12月11日に入賞発表会、同日19日に賞の贈呈式が行われた。賞金総額は550万円で、最優秀・優秀の4点に各100万円、準優秀の6点には150万円が等分された。
 
審査の結果を伝えた昭和42年12月11日の北海道新聞は次の談話を掲載している。
 

佐藤武夫 審査員長の話
 
優秀な作品が多かったので、審査の段階ではかなり白熱した議論が交わされた。井口さんの作品のほかにも、ぜひ採用したい作品がいくつかあったが、予算、造形、力学構造の面でもっともすぐれ、条件に合うのが井口さんの作品だった。こんどの公開競技は芸術的、建築的観点からいっても、わが国全体の建築界に貢献するところが大きかったと思う。

 

町村金五 期成会会長(知事)の話
 
おかげさまで立派な設計が決まった。本道開拓の先人に感謝をあらわし『輝く未来』を表現するのにふさわしい設計だと思う。百年の年もあと数日にせまったが、この塔の設計をはじめ各関連行事を意義あるものとし、この塔の力強さに恥じない未来を建設するため力を合わせて行きたい。

 
 


 【引用参照出典】
『北海道百年事業の記録』1969・北海道
『北海道百年事業記録資料編』1969・北海道
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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