北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

北海道の名づけ親は松浦武四郎なのか? ⑤

北海道の名付け親は明治天皇である

 

明治天皇①

 

「北海道」の由来は律令時代に導入された地方制度である「五畿七道」です。しかし、これを蝦夷地の新名称に選定するには課題がありました。蝦夷地が樺太を含んだ名称であるため、新名称は樺太の領有問題とも大きく関わるのです。そうしたなかで「北海道」が選ばれた意味とは―――。

 

■南北二道の名目改

松浦武四郎が北海道の名付け親であるとして制定された7月17日を「北海道みんなの日」としたことにたいして検証してきましたが、北海道という名称は律令制度の五畿七道に由来するもので、松浦武四郎とは関わりなく命名されたと論じました。
 
しかし、蝦夷地の名称問題は慶応4(1868)年3月25日に岩倉具視が群臣に「蝦夷地の名目を改める」ことを提起して始まりますが、正式な決定は1年半後の翌明治2(1869)年の8月15日です。北海道という名称が自明のものならば、なぜ決定に1年半もかかったのか、どうして松浦武四郎に諮問する必要があったのか、疑問が残ります。
 
まずは3月25日に岩倉具視が群臣に提起した3か条は次のようなものです。
 

第一條 箱館裁判所被取建候
第二條 同所総裁・副総裁・参与等人撰ノ事
第三條 蝦夷名目被改南北二道被立置テハ如何

 
三条で「蝦夷地の名称を改め、南北の二道を建て置くことはいかがか?」とありますが、当時の蝦夷地は北蝦夷地である樺太も含みますから、このとき蝦夷地の名称変更問題は、樺太と南蝦夷地である現北海道の両方の名称を考えるものでした。
 
さらに4月17日に維新政府が発した「蝦夷地開拓の条項7か条」でも、
 

一 追テ蝦夷ノ名目被相改、南北二道ニ御立被

 
となっており、南北の蝦夷地に「道」の付いた名称をつけることがうたわれています。
 
南の蝦夷島だけであれば、衆目の一致するところとして「北海道」と決められと思いますが、ここに「樺太」が入ると問題は複雑になります。どちらを北海道にするか、そもそも北海道は止めるか。であればなんと名付けるか―――。4月17日の「追テ蝦夷ノ名目被相改」は、3月25日から検討したけれども決まらなかったということでしょう。
 

道名選定のパターン

 

■名称問題は領有権問題

そもそも樺太には名称問題を難しくさせる課題がありました。安政元(一八五四)年12月にロシアと結んだ日露和親条約で「日露雑居地」とされていたのです。日露のいずれにも属さない共同管理地ですが、通常の状態ではなく、早急にどちらかの所領であるか確定させなければならないことは明らかです。
 
こうしたなか、日露の共同管理であるのに、明治政府が樺太に「道」の名称を付けることは樺太を日本領とする宣言となります。維新政府が「南北二道」といったことのなかには、将来樺太を日本領にするという決意が込められていたと思われます。
 
逆に言えば、樺太領有権問題の帰趨が定まるまで蝦夷地の名称は決められなかったとも言えます。
 
この後、蝦夷地開拓の議論は承知のように箱館戦争によって中断しました。道名検討の再開は、箱館戦争がほぼ収まった明治2(1869)年5月21日の次の明治天皇の御勅問からです。
 

蝦夷地之儀は 皇国の北門直に、山丹満洲に接し、境界粗定といへとも、北部に至ては中外維居致候処、是迄官吏之土人を使役する甚苛酷を極め、外国人は頗る愛撫を施し、候より土人往々我邦人を怨難し、彼を尊信するに到る。
 
一旦民苦救ふを名とし、土人を煽動する者有之時は其禍忽ち箱館松前に延及するは必然にして、禍を未然に防ぐは方今の要務に候間、箱館平定之上は速に開拓教導之方法を施設し、人民繁殖の域となさしめらるへき儀に付、利害得失各意見無忌憚可申出候事(『明治天皇紀 第二巻』)

 
函館戦争で露呈した蝦夷地防衛の脆弱性を踏まえ、南北の蝦夷地に居住する蝦夷(アイヌ民族)がロシアに付くことを恐れる内容となっています。
 
注目すべきは、この中で蝦夷地の「名称問題」が語られていないこと、そして「外国人は頗る愛撫を施し」と日露の雑居地となっていた北蝦夷地(樺太)の現状を踏まえたものになっていることです。
 

■二道から一道へ

薩長土肥と京都公卿が中心の維新政府が、蝦夷地なかでも樺太の実情を知ったのは、慶応4(1868)年4月26日、清水公孝が新政府の蝦夷地長官(函館裁府総裁)として箱館に入り、幕府の箱館奉行所から引き継ぎを受けた時でしょう。
 
樺太は安政元(1954)年12月より日露の共同管理となっていましたが、わが国が維新の動乱の最中にあった間、なかば放置状態に置かれ、ロシアの支配が南部まで及んでいました。明治44(1912)年に発行された樺太庁長官長官官房編『樺太施政沿革』は次のように樺太の状況を述べています。
 

露人の南下する日に夥しく、明治政府の創設される頃には、僅かに完全なる統治権を亜庭湾沿岸の一地点にのみ支持しつつありたる如し

 
亜庭湾沿は稚内の対岸の樺太島の南端です。日露の共同管理とは言え、明治元(1986)年頃はかつての豊原(ユジノサハリンスク)周辺にしか日本の勢力範囲は及んでいませんでした。
 
幕末の幕府とロシアとの領土交渉でも、せめて北緯50度で国境線を引きたい日本と全島領有を主張するロシアとの間で議論は平行線を辿っています。事実、明治政府はこの8年後の千島樺太交換条約で樺太を手放します。
 
「二道」のかけ声で始まった新道名議論ですが、樺太の実情がわかるにつれ、樺太に「道」名を付すことが難しいとの認識が広まっていったと思われます。実際に明治2(1869)年になってからは「二道」論は姿を消しました。
 

■衆目の一致する「北海道」

新名称の対象が南蝦夷島だけになれば、衆目の一致するところとしてその「一道」は「北海道」になります。
 
北海道は日本の2割を占め、その名称は数千年に渡って残ります。国際関係に与える影響も大きい。こうした名称を決めるのに日本の歴史・伝統、国際情勢等を考慮せずに決めるはずはありません。
 
当時、南進を目指すロシアの野望は明らかで、蝦夷地は歴史的にも日本固有の領土であることを示し、なんとしても領土として護持する強い覚悟を示す上でも、五畿八道に由来する「北海道」以外の名称は考えられないところです。
 
ましてロシア領域にも居住するアイヌ民族の自称であるカイノーに由来する「北加伊道」を、この時の明治政府があえて選ぶ理由を見出せません。
 
松浦武四郎が残した関係文献を全国的に調査した笹木義友・三浦泰之『松浦武四郎研究序説』(北海道出版企画センター・2011)は、新資料として慶応4(1868)年8月、箱館府判事の井上岩見と三澤揆一郎による「建言」を発掘し、その中に
 

蝦夷二嶋之儀者兼而被 仰出候儀も有之候得共新に北海道一道を被為置至当の御儀と奏存候是迄五畿七道之内北海道之名目無之者祖宗之深意今日を被為待候二も可有之歟

 
と述べられていたことを報告しています。
 
「蝦夷地本島と北蝦夷地の二島はかねてからいわれているが新たに北海一道を置かれることが至当であり、これまで五畿七道のうち北海道の名目がないのは先祖の深意が今日を待っていたためであろうか」(同上)という意味です。
 
この段階で函館府関係者の間では二道が無理なこと、一道であれば北海道が自然であることが感激を持って語られていたことが示されています。
 

■松浦提案の疑問

こうして南蝦夷の全体は「北海道」と定まりましたが、おのおの地域に地名=国名・郡名を定めなければ、近代的な行政は施せません。その役目を依頼されたのが幕末の蝦夷地探検家・松浦武四郎だったのでしょう。
 
松浦が蝦夷地名6案を記した「蝦夷地道名之儀勘弁申上候書付」の日付は明治2(1869)年7月17日ですが、国名を記した「國名之儀取調申上候書」は「巳七月」とあるだけで、郡名の「蝦夷地郡名之儀取調書」には日付がありません。
 
前書は国名について
 

(明治2(1869)年)七月の早々には提出されたものと判断できる。同様に郡名案も国名案に次いですぐに提出されたものと考えられる。

 

それらから松浦は、まず国名案を検討し、そのあとで郡名を検討していたことがわかる。

 
としています。すなわち検討の順番は 
 
 ①国名 → ②郡名   ③道名
 
だったわけです。こうした場合、大から小へ、③の道名から検討するのがセオリーでしょう。名前は被らないことが望ましいですから、もっとも大切な③が下位①②の制約を受けるというおかしなことになります。なぜ道名の検討が最後だったのか?
 
これ例外にも不可解な点があります。「蝦夷地道名之儀勘弁申上候書付」の出だしは「蝦夷地道名之儀勘考可仕候様昨日被」と始まります。すなわち、松浦は7月16日に「道名」について考えるよう仰せつかり、翌日の17日に提案した。永劫に残る北海道の新地名を1日で考えたというのです。
 
前書はこの事情を次のように解釈しています。
 

つまり16日に関係者が集まり、蝦夷地の国郡名についての検討の上、松浦案の採用を決定し、それを以て松浦に道名案の検討を命じたと判断される。命を受けた松浦は、これまで検討していていただろう道名案をまとめ、翌17日に提出したものである。

 
事前に検討にしていたにしても、この名称選定の重要性を考えるとき、要請を受けた次の日の提出は通常は考えられません。また国郡名の決定を受けてから道名の検討を命じるのもネーミングのセオリーに反しています。「松浦武四郎が北海道の命名者である」という前提から逆算した解釈と言わざるを得ません。
 
明治政府関係者の間で「北海道」の採用は自明の事とであったため、松浦には国名と郡名の検討だけが依頼されていたのではないかと考えられます。
 
そして7月16日、政府に松浦を呼んで国名・郡名の確認を行っていたときに「蝦夷地は北海道になった」と告げられた。はたしてそれは自分の雅号「北海道人」と同じなので、後世に自らの雅号を付けたと誹られることを恐れ、「すぐに別案を提案するから待ってくれ」となった。
 
これが、これまで判明している
 
①蝦夷地の新名称として五畿八道に由来する北海道という名称が自然なこと
②新名称の検討が国名から始まり、郡名へと進んで、最後に道名となったこと
③松浦は7月16日に道名の検討要請を受けて、翌日の17日に提案したこと
④松浦の提案6案の中にチャンピオンネームである「北海道」がないこと
⑤孫の松浦孫太は「北海道」と提案しなかったのは雅号と被さるからだ証言していること
 
を満たすもっとも自然な説明と考えます。
 
松浦は明治2(1869)年8月19日に「北海道道名・国名・郡名撰定為二御手当一目録之通金百円被し下候事」と報償を受けており、このことも松浦が道名の考案者である根拠のひとつにっていますが、国名と郡名の案出は松浦武四郎でしかできないことなので、政府はその功績に配慮し、道名についてあえて事を荒立てなかったものと思います。
 

■誰が北海道を命名したか

いずれにしろ北からロシアが虎視眈々と蝦夷地をうかがう中で、蝦夷地の新名称はロシアも刺激する問題であったため、秘密裏にすすめられたようです。現在にいたるまで選定過程を示す政府側の文書が発見されていないのは、そうしたことでしょう。
 
北海道の名称が決まったのは、明治2(1869)年8月15日の太政官布告ですが、当然、そ以前に選定の段階があったはずです。
 
『明治天皇紀』の8月10日を見ると、
 

次いで北地開拓のことを議す。12日再び御前会議有り。13日、17日、18日、19日、20日、22日、23日、25日、27日、28日、29日亦同じ、毎回巳の刻小御所に出御あり、大臣・納言・参議等仕出し会議するを例となす

 
とあって、10日から連続して御前会議が開かれ、明治国家の骨格がこの時期に決められていったことがうかがえます。
 

小御所会議 
このような中で北海道は命名された②

 
8月10日の会議では、これまでの「蝦夷」ではなく「北地開拓」となっていることに注目すると、8月10日の御前会議で「蝦夷地を北海道とする」ことが明治天皇の前で決められたようです。
 
北海道の名称は大化の改新で天智天皇が推しすすめた律令制度で導入された五畿七道に由来します。これに北海道が加わることで五畿八道として完成しました。
 
こうした流れを1200年前に産み出したのが天智天皇であり、北海道開拓の号令をかけ、五畿八道として完成させたのが明治天皇であったこと、さらに蝦夷地の名称選定が日本の領有権という国体の根本に関わる問題であれば、北海道の命名者は明治天皇であると言うべきなのではないでしょうか。
 

 


【引用参照文献】
・『新北海道史③』北海道・1971
・『新撰北海道史③』北海道・1937
・『明治天皇記』宮内庁・1968~
・『維新史』維新史料編纂事務局・1937
・竹内運平『北海道史要』(市立函館図書館・1933[北海道出版企画セン
・笹木義友・三浦泰之編著『松浦武四郎研究序説』北海道出版企画センター・2011
・『松浦武四郎自伝 新版』北海道出版企画センター2013
・樺太府官房編『樺太施政沿革』樺太日日新聞社・1911
①https://ja.wikipedia.org/wiki/明治天皇
②https://nekoarena.blog.fc2.com/blog-entry-4402.html?sp

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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