北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【釧路】鳥取村の開拓(上)
困難を乗り越えた旧主への忠誠心

明治17(1884)年に旧鳥取藩の士族105戸が岩見沢に入り、このまちの開基となったことをお伝えしましたが、同じ年同じく105戸の鳥取士族が釧路に入りました。寒冷で農業に不向きな土地に入った彼らは「無人の境界に一村を創生す。必ず幾多の困難あるべし、ゆえに互いに信義を尽くし、情意を厚くし、疾病患難相扶助すべし」と誓い合って困難に挑みました。
 

■鳥取県民の北海道移住

鳥取の困窮士族の救済策として北海道開拓が企画され、岩見沢に105戸が入りましたが、明治初期の鳥取県人士の北海道移住は2926戸(1万4301人)にも上ります。鳥取県再配置後の初代県令·山田信道が券をあげた事業として取り組んだ結果です。その内容は下記のように多岐にわたります。
 

(1)士族移住   
ルー移住:渡島国亀田(森島·平木·山田·藤岡ら 5 名)
②「移住士族取扱規則」による移住.·釧路(明治 17·18 年)·岩見沢(明治18(1885)年)
(2)屯田兵移住
①士族屯田:江別·野幌·東和田·西和田·室蘭(輪西)兵村な
②平民屯田:高志内・茶志内・美唄・当麻・江部乙・秩父別・士別・一巳・端野・野付牛・湧別・相ノ内・剣淵兵村など
(3)農民移住
①団体移住:足寄・美幌・鹿追・三笠・美唄・剣淵
②(華族)農場等小作人:池田農場(池田町)・山陰移住会社農場(倶知安)
(4)漁民移住:利尻・稚内・宗谷・留萌・増毛など

 

鳥取県人の北海道開拓移住①

 
士族移住では、岩見沢105戸と同数が釧路に入っています。先に岩見沢の例を見たので、釧路の鳥取藩士の開拓を見ましょう。
 

■鳥取村の建設

明治16(1883)年、北海道における士族移住事業の規定である「移住士族取扱規則」が制定されると、根室県では入植地を阿寒川西南西海岸、釧路郡ベツトマイと呼ばれていた原野90万坪に定め、受け入れを開始しました。鳥取県からは、山根安繁、荒井定義、小関温清、吉田芳蔵らが先遣隊と派遣されました。
 
ついで明治17(1884)年5月19日、根室県令湯地定基はこの地を「鳥取村」とすることを、内務卿・山県有朋に報告します。
 
こうして明治17(1884)年6月3日、移住者の第1陣41戸が鳥取県賀露港を出発しました。釧路港への到着は6月9日です。上陸した一行はかねてから用意された番屋に宿泊し、抽選の上10戸を1組として1番から4番までの組を決めて入植地に入りました。ここで彼らは来年に予定されていた第2陣のための家屋建設など受け入れ準備に従事します。
 
第2陣は明治18(1885)年5月14日に64戸が釧路港に入り、総勢は105戸・513名となりました。このほか、士族ではない縁故の者が20人ばかり一緒に入植しました。明治17(1884)年からの士族移住は、屯田兵制度に統合されるため、岩見沢と釧路、木古内の3か所に留まりましたが、それぞれ遠くに配置されたのは、不平を抱えたこれらの士族が糾合して反乱を起こすことを恐れたからだと言われます。
 
これら入植者達には「岩見沢市の士族移住」で紹介したような手厚い保護が与えられました。
 
まだ釧路地方に適した農業が定まっていなかった時代で、入植者は多様な作物を栽培しました。詳細な記録を残した坂本友規の記録によれば明治18(1885)年には、大麦、小麦、豌豆、大豆、小豆、亜麻、栗、インゲン、カイベツ、ソバ、大根、野野菜、馬鈴薯といった作物を作っています。しかし、大豆・小豆など豆類は壊滅で、大麦も普通作の半分程度でした。なんとかかたちになったのは大根・馬鈴薯くらいであったといいます。
 

釧路郡鳥取村区域図②

 

■阿寒川の大水害

明治20(1887)年で補助が打ち切られ、入植者は自活が求められますが、営農は赤字で釧路の建設事業に人夫として働きに出ることで補っていました。やがて入植者には国からの入植貸与金に対する返済が始まりますが、返済の目途が立ちません。そこに道東の苛酷な自然は苛酷な試練を彼らに与えます。
 
入植4年目の明治22(1889)年、阿寒川が大氾濫を起こします。この年は春の雪解け水が多く4月に氾濫を起こしたほか、9月の大雨で2度氾濫し、さらには12月にこれまで経験したことのようない大氾濫を起こしました。
 
戸長の報告が残っています。
 

本村創設以来曽て見ざる洪水に有之候。例年阿寒溢水の期は、春季播種の前後、または秋季結実の際に限り、多少の被害を免れざる儀に御座候処。本年八四月十九日より二日にわたる其水勢最も急激にして、阿寒川水量平水を抜くことほとんど八尺、耕宅地を浸し、春蒔大小麦の如きは悉く其種子を洗除流亡仕り。非常の害を蒙り居り候処。
 
続て九月三日、同十二日両度の出水は開墾播種地六十一町一反三畝歩を荒流仕り。為めに収穫殆んど六歩余の減額を覚へ、各自生活に危急を加へ、何れも失望落膽を極め居り候処、計らざりき又々本月十三日即今回の出水に遭遇仕り。
 
殊に夜間の襲水加之急激の為めに床褥を浸すの有様にて、内外貯蔵の馬鈴薯の如きは悉く浸潤し、目下寒成の候に有之候事とて、春気秋露の節と異り、掘上げ候ても忽ち氷結腐敗の愁は免れざる次第に御座候。
 
其他耕宅地の流失、道路堤防の破壊等は、算へて未だ其数を知らざる処。甚しきは民屋傾斜し、顚倒の憂ある向も有之。差当り耕地流亡のため、明年開墾地に差支ふるもの二三に止まらず、何れも悲喫の状を呈し候。殊に本年は春来気候不順にして、まつ前陳の如く、再三の出水に罹り候へば、農産は何れも薄収にて僅かに馬鈴薯のみを収複仕り候。

 
護岸などの無い時代でしたから、春と秋の水害は毎年のことであり、ある程度対策が立てられていましたが、12月の洪水は予想外で、秋の収穫を台無しにしてしまったのでした。「失望落膽を極め」とあるように、これを期に離農する者が続出しました。
 

■「矯士会」と「報恩会」

しかし、この移住事業は明治政府を挙げて多大な国費を費やした国策で、根室県=道庁としても離散者が出て移住村が崩壊することは防ぐがなければなりません。また移住者も公に殉じる気概を持った士分の者たち。
 
「無人の境界に一村を創生す。必ず幾多の困難あるべし、ゆえに互いに信義を尽くし、情意を厚くし、疾病患難相扶助すべし」と、残った若者たちは団結してこの困難を乗り越えようと「矯士会」という結社を組織しました。
 
矯士会の会員は30歳以下の男子50名で、次のような誓いを立てました。
 

鳥取矯士会は、青年の勢力を以て村の名誉を高めんが為めに結合す。故に互に知識を交換し、徳行を修め兼て剣、柔術其他活発の運動をなし、元気の旺盛を図るべし。村の名誉を傷け、又は傷けんとする者あるときは、会の内外を問はず、極力攻撃、懲師し、其撲滅を図るべし。

 
こうした青年たちの動きに触発されて、中高年層は「報恩会」という結社を組織し、次の誓文を交わしました。
 

【目的】本会は開拓事業を拡張して皇朝並びに旧藩主池田家へ対し、御報恩の万分のーを尽さんと欲す、よって報恩会と名す。
【約束】本会は毎月、中の日曜日を以て集合し、皇朝並びに池田家祖先代々及今代様の御影像を奉掲し、一同謹て禮拝し、終りて文武忠孝の道を鍊磨し、其他有益なる談話に数時間を移すものなり。
本会員は専ら和衷協同し、恭敬倹約の風を尚ひ、決して驕奢に流るべからず。

 

■池田家への忠節

厳しい開拓生活で旧主池田家の忠節心が支えになっていたことがわかります。池田家もこれに応えて明治27(1894)年に歴代当主を彫った彫像を村に送りました。そして明治43(1910)年には、池田家当主が来村しました。この様子を伝える新聞記事です。
 

池田候爵は一昨日(明治四十三年九月二十一日)零時二十分の列車にて、夫人同伴山根家令及侍女数名を随へ到着。前田支庁長、秋元町長、其他町有志、鳥取村民百数十名の出迎を受け、駅より直ちに腕車にて鳥取村に赴かれたり。
 
同村にては男女老幼皆路傍に跪座して藩主を拝し、老人の如きは感極って落涙するものあり。小学校に休憩し、藩臣一同より歓迎の挨拶を受け、有志の撃剣、乗馬を御覧ありて帰舘(輪島屋旅館へ御宿泊)。午後六時より喜望楼に於て鳥取村及町有志の歓迎宴を開催せり。
 
旧臣を代表して遠藤翁御挨拶を申上ぐ(中略)。酒宴に入るや、妙子拍子のメノコ踊り、小静姐さんの追分節あり(略)。柿田翁の音頭にて、池田候爵家の万歳を三唱し、和気藹々裡に散会せり。当夜鳥取村より参会するもの六十余名、開宴中は絶へず花火を打ち上げて興を助け、近来稀なる盛宴なりき。

 
明治も末期ですが、池田家主従の強い絆はなおも保たれていたのです。

 
 

【主要参照文献】
『新釧路市史』第1巻・第2巻・第3巻 1972~1974
①『鳥取県人の北海道開拓移住』鳥取県立公文書館 1998 
②北海道大学北方資料データベース
https://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/

 
 

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