北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【第1回】プロローグ─水稲壊滅

 

米どころオホーツク 北見産米25万石祝賀会

 
 1929(昭和4)年11月29日、野付牛西小学校で「北見産米25万石祝賀会」が盛大に開かれた。

 この年、網走支庁管内で水田は1万5000町(1万4876ha)に達した。不作で実際の収穫は17万石だったが、順調に平年反収になれば25万石になったはず。25万石というのは、オホーツク地域での米の自給目標であった。25万石を超えると、消費地から供給地になることができる。この水準を超えたことで、北見は〝米どころ〟となった。そうしたことを祝う集会だった。
  
  蝦夷住えし笹原に汗鍬打ちて
   胸に抱きしアノ大理想
  今ぢや青田 ヨッコラ 稲の波ネ
   あれさまた見えます赤たすき
  食糧の自給自足はアリヤ国の為
   賎が願ひを稲穂に垂れて
  北見の山の ヨッコラ 空晴れてネ
   野ではまた黄金の波がうつ
 
 「北見産米宣伝歌」[1] が流れるなか、祝賀会では、オホーツクの米作発展に尽くした功労者の表彰が行われ、1948(昭和23)年までに作付反別4万5000町(4万4628ha)・産米百万石を目指す「北見産米百万石計画」が発表された。オホーツクは豊かな稲作地域に向かう──その未来を疑う者はいなかった。
 

米─日本農民のDNA

 
 長い間、米は石狩地方以北では採れないと信じられていた。それでも、米づくりは日本の農業者に刻まれたDNAである。早くも1889(明治22)年には網走で米の試作が行われたという記録がある。米どころとして知られる上川盆地で米の試作が始まったのが1891(明治24)年。その2年前に網走で米を試す人物がいた。網走市史は開拓者の熱意を伝えている。
 
 農民の米にたいする執念は驚くべきものがあった。移民の多くは、郷里において米作の経験をもっており、府県農業はいうまでもなく米作中心であった。それが移住後は、裸麦・イナキビが常食となり、祝日か病気のとき以外は、米を口にすることはできなかった。米は大量に移入されてはいたが、開拓農民にそれを常食とする余裕はなかった。そればかりか、農家の必需品であるナワ・ムシロ・ワラジなどの製作原料を自給することもできなかった。米は稔らずとも、せめてワラだけでもとする願いが切実であった。したがって、どこへ移住しても稲作を試みたのであり、記録に残らぬまま空しく消え去った努力は、まだほかにあったかも知れない[2]。
 
 オホーツクで米づくりに最初に執念を燃やしたのは、福井県出身の吉田甚松であった。吉田は1889(明治22)年に渡道し、はじめは釧路集治監網走分監に勤めたが、1893(明治26)年、網走湖周辺の湿地帯に米作の可能性を見いだし、現在の大空町本郷に入植して水稲栽培に執念を燃やした。
 福井産種籾、札幌赤毛稲、岩手産種籾と試したが、天候に恵まれ稲を実らせた年もあったが、長続きしなかった。それでも、1897(明治30)年代に入ると、北見の北光社農場、遠軽の学田農場、相内屯田、上湧別屯田でも水田造成が行われるようになった。
 
 こうした入植者の努力は1907(明治40)年に開場した北海道農事試験場北見支場に引き継がれていく。北海道の米作は、札幌郡広島村の中山久蔵が1873(明治6)年に、渡島地方から取り寄せた「津軽早稲」を改良した「赤毛」種が始原となっている。北見支場ではこれの改良をすすめ、1913(大正2)年、オホーツク地方での米作を可能にする新品種「北見赤毛」を産み出した。
 「北見赤毛」が誕生した大正2年は記録的な冷害がオホーツクを襲い、水田は壊滅。一握りを除いて多くの入植者は稲作をあきらめた。北見支所の「北見赤毛」も安定生産にはほど遠く、地道に品種改良が続けられていた。
 

空前の雑穀景気 オホーツクの大戦バブル

 
 1914(大正3)年6月28日、オーストリアのフェルディナンド大公がサラエボで暗殺された。オーストリアがセルビアに侵攻すると、同盟が同盟を呼び、第1次世界大戦が勃発した。ヨーロッパの穀倉地帯が戦災に遭うと、不足する穀物を求め、空前の雑穀景気がオホーツクに訪れた。気候が似ており、早くから洋式農業を取り入れていた北海道農業の産物は、戦火に覆われたヨーロッパ農業の産物と重なっていた。このことが空前の雑穀景気となったのである。
  
 バブルは必ず弾ける。
 1918(大正7)年11月、ドイツは連合国と休戦協定を結び、4年以上に渡った第1次世界大戦は終わった。そして北海道の大戦バブルも終了した。
 
 大戦中、穀物相場に翻弄された農民は、安定した営農を求めて稲作に目を向けた。オホーツクが大戦バブルに踊る間も北見支場の取り組みは続き、品種改良が実用の域に達した時期と大戦バブルが崩壊した時期が重なった。

 一方、富山県では1919(大正8)年、第一次世界大戦中の雑穀価格の高騰から、「米騒動」が起こり、全国に波及した。明治維新以降最大の民衆動乱となった米騒動は政府を震撼させ、米の生産拡大による価格安定が急務となった。
 1920(大正9)年、道はオホーツク地域での米作振興を目指し、「北見赤毛」の試作をオホーツク地域全域で展開した。管内で30箇所以上に達した試作結果は良好で、オホーツクでの稲作に大きく期待を持たせるものとなった。
 
 稲作には多量の水が必要だ。水田を造成し、隅から隅まで農業用水を行き渡らせる灌漑施設に莫大な投資が必要である。幸いオホーツクの農業者にはバブル期に儲けた資金があった。灌漑施設の建設の運営のための組織「土功組合」を組織し、こぞって稲作に向かった。「北見赤毛」の好成績に自信を深めた道は土功組合に対する補助率を拡大し、「国策」としてオホーツクでの米づくりを後押しした。

 1922年(大正11)年1月に、管内最初の土功組合が常呂につくられると、1932(昭和7)年までに37組合に達した。1935(昭和10)年までに造成された水田は1万4297町。工事総額は538万8000円だったという。オホーツクのタコ部屋労働はこの事業に多く投入された。
 
 こうして昭和4年11月、冒頭で紹介した「北見産米25万石祝賀会」の風景となる。
 

水稲壊滅──4度の連続冷害

 
 しかし、稲は東南アジアから中国南部にかけての地方を原産とする南方の植物である。品種改良を繰り返しながら生産限界を北へ北へと押し上げていったが、流氷の押し寄せる北の海に達したとき、超えてはいけない一線を越えてしまっていた。

 1932(昭和7)年、この年は7月に入っても気温4〜5度という異様な低温が続いた。この年、網走管内には1万9211町の水田があったが、収穫皆無は8515町歩。翌1933(昭和8)年、6月に晩霜が降るという異常気象で、7〜8月も一桁台の気温が続いた。収穫皆無は前年を上回る1万4244町。2年続きの大冷害。

 1933(昭和8)年は順調な天候で豊作となったが、翌1934(昭和9)年は7月下旬から9月上旬に低温が続き、またしても冷害となった。続く1935(昭和10)年、5月からの低温、7月の多雨日照不足に加え、8月に台風が通過。9月には気温が下がり、収穫皆無は1万4287町と、またしても2年連続の大凶作となった。
 
 被害は全道に及んだが、とりわけオホーツク地域での水稲被害が激しかった。1935(昭和10)年の冷害を例にとると、石狩や上川で収穫歩合が70%を超えたのに対して網走はわずか4%。『新小清水町史』は1939(昭和14)年の「斜里新聞」を引用して次のように伝えている。
 
 大正十二、三年水田熱が勃興し、多少の資力のある者は競うて水田専業に転じ、久しく顧みられなかった不毛の泥炭地に数百町歩が造田せられ、また水利の便なる箇所はいたるところ造田せられ、ここに一躍一千三百町歩の造田を見たが、その反面、畑耕地の約五割は空しく荒廃に帰した。
 しかしてわずかに現地にとどまった者は零細農家で行先も資力も無い者ばかりであった。一方、水田への転向者は不幸にして相次ぐ凶作により、水田を放棄し再び畑専業に還る者も多く、さしも全盛を極めた水田もわずか四十八町歩を残すのみとなり、農家はただ負債の重圧に苦しむ悲惨な状態に陥った[4]。
 
 収奪型の開拓農法を乗り越えるべく採用された稲作。これの崩壊はオホーツク農業の崩壊、ひいては地域の崩壊をも意味した。こうしたときにオホーツクの若者たちは「北方農業」という新しい農業に地域の未来を託すのである。
 

 

【引用出典】
[1]『網走市史 下巻』網走市・1971・1151p
[2]『網走市史 下巻』網走市・1971・824p
[3]『斜里町史』斜里町役場・1955・734p
[4]『新小清水町史』小清水町・2000・270p
【写真出典】
① 女満別町町史編さん委員会(編)『女満別町史』1969・女満別町役場
②③ 小清水町史編さん委員会(編)『小清水町 開町100年物語』2018・小清水町
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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