北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【第3回】北海道にデンマーク・ドイツの農家がやってきた

 

■ヨーロッパの農家を北海道に招聘

 農業は書物だけではわからない。黒澤の提案は、ヨーロッパから農家を招いて実際に農業を実践してもらおうというものだった。
 日本から欧州の先進農業を学ぶために飛び立った留学生は数多い。しかし、逆に欧米から農家者を家族ごと招いて営農を実践してもらうという企ては、日本の農政史上、後にも先にこの時だけだろう。
 黒澤のこの破天荒な申し入れを受けとめた宮尾長官も立派だった。道庁から農務課技師山田勝伴と畜産課技師相原金治、産業組合係技師神田不二夫、民間から音江酪農組合長深澤𠮷平をデンマークに派遣する一方、1923(大正12)年9月、デンマークからエミール・フェインガーとマーチン・ラーセン、ドイツからフリードリヒ・コッホ、ウイルヘルム・グバロウ一がそれぞれ一家を伴い来道した[1]。
 フィンガー一家は琴似農業試験場、ラーセン一家は真駒内牧場、コッホ一家は清水農事試験場、グバロウ一一家は帯広農事試験場に入り、5年に渡ってヨーロッパの有畜畑作農業を実践したのである[1]。
 

■エミール・フェンガー 圃場の科学を説く

 
 宮尾庁官の大胆な施策に応えるべく、発案者である黒澤酉蔵は、宇都宮仙太郎、佐藤善七などとともに、石狩、空知、後志地方の先進的な農業者に声をかえて1923(大正12)年11月「北海道牛馬研究会」を組織した。
 

【フィンガー一家】右からフリダ夫人、長男フリッツ君、札幌生まれの次女リズ、主人エミール、長女オーセ(出典①)

 
 研究会は、デンマークから戻ってきた相原金治、深澤𠮷平らとエミール・フェンガーを講師にして1924(大正13)年2月から道議会議事堂を教室に「デンマーク農業講習会」を開催した。この講習会の反響は大きく、講義内容を記録した「丁抹(デンマーク)の農業」と題した冊子は、先進的な農家に広く愛読された。この年の春から本格化した招聘外国人農家の農業実演には多数の農民が駆けつけた。
 
 エミール・フェンガーは1898年に生まれ、デンマーク農業の最高学府コペンハーゲン農業専門学校を卒業し、各農場で実地経験を積んだ後、来道する直前はスクラゲロップ農学校で教鞭を執っていた農業業技術者だった。
 
フリダ婦人、長男フリッツ君、長女オーセちゃんとともに大正12(1923)年から昭和三年まで滞在し、琴似村にあった北海道農事試験場内の「デンマーク記念農場」で北欧の農業を実践した。専門教育を受けた学識を活かして北海道の農民に「圃場の科学」を説いた。
 
 例えば雑草対策。この頃、北海道の農民は摘み取っても生えてくる雑草に頭を悩ましていたが「私の接した多くの農業者は、北海道の土地は雑草が多くて困るとこぼして居られますが、それは当然であります。秋の収穫後そのまま放任しておけば雑草が生えるのがあたりまえであります。それではどうしたら雑草の駆除がよくできるかといへば、全く秋の耕起によるのです」と言いながら、秋耕作の方法を伝授した。計画的な農耕の必要性を説き、実際にたった一人で5町歩の農作業をやってみせた。
 
 フィンガーが北海道にもたらしたさまざまな農業のなかでもっとも大きな影響を与えたのが「輪作」の実践である。輪作の概念は明治に書物で伝えられていたが、当時、農事試験場でも実践はしていなかったという。単に作付けする作物を年毎に取り替えるだけでなく、家畜の糞尿を堆肥として畑に還元する方法はフィンガーによって実践された。
 
 フィンガーの営農を目の当たりにした黒澤酉蔵はこう感想を述べている。
 
 経営全体の計画をたてることもこのとき教えられたことなんです。出たとこ勝負で投機に走るのは農業経営ではない、ということです。農機具の使い方も一から十まで学びましたが、その使い方ばかりか、重労働を機械にやらせるという合理主義が注目を集めました。
 また、タネをまく前に整地をしっかりやることや、地力を増すために麦と赤クロバーをいっしょにまくこと、あるいは輪作とはどんなものかということもこのとき初めて見た農民もたくさんいます。
 牛のエサにしても牛乳を出す量に応じて与えるというやり方は、日本人は初めて知りましたし、三頭びきのプラオとか、雑草にハロ-をかけるということもそれ以来道内に普及したものでした。[2]
 
 北海道における寒地畑作の基本は、この時にもたらされたものだ。
 

■コッホ次女ヘルタ、開拓青年と恋に落ちる

 ドイツの2農家が入った十勝では、グラウバ一家は契約年限未満で帰国したものの、コッホは十勝農民の情熱に応えて契約を2年延長した。コッホ一家は妻ベッター、長男オットー、次男リーヘルト、長女エルナ、次女ヘルタの五人家族だったが、次女のヘルタは三沢正男と恋に落ち、北海道に残ったのである。
 
 帯広の「久慈建築工房」のホームページ(下画像クリック)に、同社社長久慈敏久氏が三沢正男の長男である三沢道夫氏から伺った話が掲載されている。大変貴重な記録である。
 

【伺った話】
 コッホさんご夫妻には男2人、女4人のお子さんがいて、一家がドイツへ帰国する年、次女のヘルタさんが酪農家志望の日本人青年、三澤正男さんと結婚、日本に残った。結婚が昭和5年11月29日、一家の出発が12月4日。「家族を横浜まで見送ったのが私たちの新婚旅行でした」というヘルタさんの話が残っている。

久慈建築工房ホームページの一部
大変貴重な資料が掲載されている(出典②クリック移動)

 三澤正男さんは有畜農業の自営を心ざし、モーテン・ラーセン氏(※コッホさんと同時に札幌真駒内に招聘された)の農場で学んでいた。ラーセン氏とコッホ氏は親交があり、ヘルタさんに会う機会もあって結婚に至った。
 二人は昭和9年下音更村入植を振り出しにヘルタさんが後に「死のうと思ったことも何度もある」と語っているほどの苦闘を続けた。[3]

 
 ヘルタは日本に残ったばかりに三沢正男とともに下音更原野に入植し苦しみを共にしたという。おそらく北海道開拓の苦労を体験した唯一のドイツ人ではないだろうか。
 しかし、三沢正男は、ヘルタが日本に残ったことを決して後悔させなかった。
 1938(昭和13)年11月、音更から道南の八雲に移り、ここで大平農事株式会社を組織。三沢牧場を開いた。規模を拡大しつつ近代的酪農に取り組み、酪農家として大成。戦後は、北海道ホルスタイン農業組合専務理事、北海道農業改良普及協会会長など歴任、道会議員としても活躍した。
 妻ヘルタの支援もあったのだろう。1952(昭和27)年7月、デンマークで開かれた「万国酪農会議」の日本代表として出席、その後、ヨーロッパ各国、アメリカ・カナダの先進農業を視察して帰国した。
 北海道農業のリーダーとして期待されたが、1954(昭和29)年9月、公務で上京の途中、乗船中の洞爺丸が遭難し、犠牲となった。北海道農業にとってあまりにも大きな損失だった。[4]
 

■ラーセンは組合精神を伝える

 ラーセンは道内各地で講演を行い、次のように語ってデンマークの「組合精神」を誇り高く語った。
 
 組合はデンマークの農業を貧困から富裕につくりかえてくれました。これはひとりデンマークに限ったことではないでしょう。外の国でもデンマークと同じ方法で、同じ筋道をたどって進んでいくとすれば、同じようになるに決まっています 。[5]
 
 ラーセンのこの言葉は北海道の農業者に強い感銘を与えた。道内各地で農協や信用組合の前身となる「産業組合」が結成され、自力更生を推進する原動力となっていった。黒澤たちは1925(大正14)年、雪印乳業(現雪印メグミルク)の前身である酪連(北海道製酪販売組合連会)を結成している。[6]
 

■北方農業で経営は可能か──安孫子孝次「経営試験場」を設ける

安孫子孝次(写真出典③)

 こうして宇都宮仙太郎と黒澤酉蔵のデンマーク農業は、宮尾長官の支援を得て「北方農業」として推進されることになった。
 
 しかし、農業は自然相手、「土」相手の事業である。札幌で成功した農業が土壌や気候の違う地域で成功するとは限らない。麦とビートを主体とした有畜循環農法を基本形にしたとしても、他に何を組み合わせればよいのか? 輪作の間隔は? 順番は……。「北方農業」の地域への〝落とし込み〟は、農事試験場の大きな課題となった。
 この課題に対して安孫子孝次北海道農事試験場場長は道内各地に「経営試験場」を設けて、北方農業の実用性を試すことにした。
 
 安孫子は会津藩士として琴似屯田兵村に入村した安孫子倫彦の長男として1882(明治15)年に生まれた。開拓に苦労する両親の姿を見て、寒地農業の確立を己の使命とした。札幌農学校に学び、卒後北海道農事試験場北見支場で「赤銹不知1号」を開発、さらに改良を続け「春蒔小麦農林3号」「小麦農林8号」などを生み出し、〝世界の安孫子〟と称されるほどになった。教育にも熱心に取り組み、農業研修生制度を創設し、新規就農Iターン、Jターンの入口をつくっている[7]。北海道の歴史では忘れてはならない人物だ。
 
 さて経営試験場──用意されたのは開墾途中で放り投げられた離農地だけだった。ここに一個の農家が入植し、農業試験場が示したマニュアルに沿って「北方農業」を実践し、収穫物を販売して生活費を稼ぎ、実際に経営が成り立つのかを確認することが試験の目的だったのだ。
 
 1930(昭和5)年、屈斜路火山の火砕流が堆積してできた斜里原野での可能性を探ろうと、斜里村上斜里原野、現在の清里に「北海道農事試験場上斜里経営試験場」が設けられた。場長に選ばれたのが、上湧別富美の開拓農家、関口峯二だった。[8]  
 翌1931(昭和6)年に前述した連続冷害がオホーツクを襲うと水稲は全滅。経営試験場の成否、さらには北方農業の運命が、峯二の両肩にかかったのである。
 

 


【引用出典・註】
[1]『雪印乳業史 第1巻』1961・雪印乳業、『北海道農業発達史 上巻』1963・北海道立総合研究所 他参照
[2]黒澤酉蔵『北海道開発回顧録』1975・北海タイムス社・162
[3]久慈建築工房有限会社ホームページ>敏之レポート>こっほさんの家(2019/09/10閲覧) http://kujikobo.com/hp/report.html
[4]『八雲町史』1957・八雲町役場
[5]『黒澤酉蔵翁生誕一三〇年・記念 酪翁自伝』2015・学校法人酪農学園・102p
[6]『雪印乳業史 第1巻』1961・雪印乳業 他 参照
[7]札幌市教育委員会(編)『さっぽろ文庫66 札幌人名辞典』他
[8]渡辺侃、関口峯二『開拓、営農、試験 三十三年』1950・北海道総務部
【写真出典】
①浅田英棋(北海道デンマーク会常任理事)『デンマーク・モデル』1991・北海道総合研究所
②久慈建築工房有限会社ホームページ>敏之レポート>こっほさんの家(2019/09/10閲覧) http://kujikobo.com/hp/report.html
③『北海道大百科事典』1981・北海道新聞社
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。