北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

仮)北海道の民の歴史 
目次 

【連載:北海道民の歴史 11 】  

岡本監輔—和人初の樺太全島制覇(3)

間宮海峡、北から超える

2024/09/16掲載

 

岡本監輔①

 

おそらく人類の誰も成し遂げたことのない樺太全周踏破、岡本監輔はこの冒険に挑み、周到な準備のもと成功させました。『岡本氏自伝』(M32)から踏破記録を紹介したシリーズは今回で完結です。樺太最北端を極めた監輔は西海岸を南下。かつて間宮林蔵が踏破したルートを逆回りで進みました。そこにはどんな風景が広がっていたのでしょうか? 

 

■天照大神の神像を祀る

樺太全図
(岡本監輔、西村伝九郎製作、明治3年写)

6月26日、樺太最北端の鵞小門(ガオト)岬近辺でテント張った監輔一行は、早朝南西に向けて出発しました。あたりは深く霧が立ちこめていました。やがて大きな弓がしなるようなかたちの湾に出ます。波は穏やかで山に見える森は深淵です。さらに進むと広さ30間ほどの河口が見えてきました。川には鮭が多く泳ぎ、8軒ほどのニブフの集落がありました。監輔は鵞小門(オガト)村と名付けました。
 
監輔の記録ではこの日は立秋から11日目。砂浜に棒を立てて影の長さと方向で日時を確かめています。その様子を見にニブフの人たちが集まってきました。北樺太の東海岸はウィルタの人たちが多く、西海岸はニブフの人たちが多い印象です。なお原文で西海岸の肉分(ニブフ)は寿女連(スメレン)と書かれていますが、アイヌと混血の進んだニブフを寿女連(スメレン)と書き分けているようです。
 
さて翌日、監輔は鵞小門に湖の畔の良い場所を見つけて、極めて簡素ながら持参してきた天照大神の神像を祀る仮の社を建て、監輔が神主の代わりとなって祝詞を捧げました。そして一行は即席の神社の側で野営します。
 
翌日はあいにくの雨。伝九郎は村の子どもに砂糖などを与えています。雨が上がったので出発すると、2里ほどすすんだところでまたニブフの集落がありました。
 
男女40人ほどの比較的大きな村です。また雨がひどくなってきたのでここで泊まることにしました。ここで雨はいよいよ激しくなり、足止めを食らいます。村人と話をすると、ロシア語がわかる者があっても満州語をわかるものはいない。ロシアの進出状況が伺えます。村人はタバコなどに交換してもらうとロシアからもらった器具を差し出しますが、監輔は「ロシアのものいらない」と返しました。
 
翌日雨が上がったものの、波が高く出発を見合わせました。伝九郎は村人と射撃の腕を競いました。村では、満洲の吉林から流れてきたという銃を各家で所持していました。的に当てる競争をしましたが、村人の方が腕は確かでした。
 

現在の鵞小門(ガオト)村付近① 遠くに見えるのが樺太最北端の鵞小門(ガオト)岬

 

■ニブフとの交流

出発したのは7月3日の早朝でした。樺太の北端は牛が顔を傾げたかたちをしています。右の角が鵞小門(ガオト)岬で頭頂部をわたるとやや南に左の角があります。右角から左角へ海岸伝いに進みますが、人の影はなく、海岸には大小の岩が交錯しています。
 
しばらく進むと人家が見えましたが、人はいません。ここを「戸女(トメ)」と名付けました。さらに南に進むと岩が激しくなってきました。海豹が群れをなしています。戸女(トメ)から数里行ったところで野営です。
 

晴れ着を着たニブフ族の長老②

 
次の日は朝から霧でしたが、先を急ぎます。遠くにニブフが犬を使って猟をする姿が見えましたが、監輔らを見て姿を消しました。海岸に小川沿いのほとんどに現地民の住居があります。さらに進むと比較的大きな海跡湖に出ました。13戸の民家があり、品馬戸(ホンメト)と名付けました。暗くなってきたので船を止めていると、6〜7人の現地民が現れて様子をうかがっています。
 
一泊して朝になると、ガイドの周吉がいません。しばらくたって戻ると、「先祖が我らと同じというので現地民と親しく歓談していた」と言います。アイヌは西海岸ではずっと北まで進出していたようです。
 
天候に御地形にも恵まれ、船は順調に南に進みました。現代の「ザリフ・バイカル」という比較的大きな海跡湖に着きました。3里ほどの大きさの砂州が湖を塞いでいます。海水が流入し「停泊便利なるに似たり」と天然の良港と評しています。
 
地元民の集落がありましたが、監輔等が突然現れたので驚いたようです。しかし、友好的でやがて酒を酌み交わしての宴席となりました。酒は満洲からもたらされたものらしく、「味は火酒に近し」でした。入れ替わり立ち替わり50人あまりの現地民が姿を現しました。監輔は針と煙草を与えて喜ばせます。ここで監輔は、あまり老人に出会わないことに気づきます。聞けば、何年も前に痘瘡が流行して多くの人々が亡くなったそうです。
 

現代の「ザリフ・バイカル」①

 

■アムール河口を望む

7日からいよいよ間宮海峡に向けて南下します。「西に韃靼山を望むに2〜3里に過ぎず。島嶼大小羅列し、一島は最も近し」。大陸が間近に見え、樺太との間には大小の島が浮かんでいます。
 
ここでガイドのアイヌが互いに「あの島は山丹に属するのか、この島に属するのか」盛んに話し合っています。監輔は「(我が日本も)かつては熊を生け捕って帰ってくることもあった。今、この島(樺太)を以て日本と満洲の境を画すべきなり」と言うと、「その通り。昔は我ら(アイヌ)も極めて多くが満洲と交易していたため、このあたりにも我が同族がいる。そして今、我らがここに来てみれば、満洲人がいることを聞かない。もっぱらロシア人ばかりだ。なぜだろう」といいました。それに対して監輔は憤然として「それはほとんど露人有となりならん」と言い捨てました。
 
さらに進むと、いよいよ大陸が間近に迫ってきます。アムール川の影響で海水は塩辛くなく、そのまま飲めるほどになります。海岸に泥が多くなり、船を進めるのに苦労するようになりました。
 
与市這鷗(ヨイチハフヲ)と名付けた集落で一泊することにしました。薄暮の時間に5〜6人の原住民が姿を現しました。「黒竜江はどこだ?」と尋ねると、西南の方角を指差し、「年々ロシア人の家が増えている」と言いました。
 
聞けば、ここの住民の「木綿を得るために婦人は露人に淫を売ると聞けり」と言います。一回の行為で木綿を三尋えるのだそうです。果たして夜、ひとりの女が周吉のテントに入ってきました。「我に木綿を与えれば、君が為すところにしたがわん」と言ったそうです。このことは潔癖な監輔を大いに嘆かしめました。
 

アムール川河口②

 

■間宮林蔵の到達点を超える

7月8日、ついに間宮林蔵が到達した北限、「ナニオ」と記した場所であろうところに到着しました。現地民がこの場所を「那爾隖(ガニヲ)」と言ったことから、監輔はここを間宮林蔵が「ナニオ」と名付けた場所と考えたのです。近くにはロシアの難破船があり、多くの部材が漂着していました。近くの現地民は漂着した木材を家に利用していました。
 

ニブウの家屋②

 
海岸を進みますが、浜は浅く、岸より2〜3里離れても通れず、潮が満ちたときに進むしかありません。丘で5〜6人の現地民が立って手招きをしているので近づいて、潮が満ちるのを待つことにしました。ここで監輔は一人の現地民を雇ってカイドを頼みました。
 
翌日から、風が強くなってきました。昨日雇ったガイドが風を恐れて陸に上がろうと言います。すぐ目の前に広がる大陸を差して「ニカスロチャ」と呼び、万が一漂流して対岸のロシアの村に着いたら大変だというのです。現地民のロシアを恐れる姿は大変なものがありました。なんとかなだめて船を南へ進めました。
 
11日、夜荷部(ヨニベ)と名付けた場所の海上でロシア船が座礁している現場に遭遇しました。一人の士官と思える人物が現地民を率いて器物を小舟に載せていました。満洲族の辮髪をした者もおりましたが、監輔は「蓋し彼が帰化せるものならなん」、もとは現地民であろうと推測しています。船上のロシア士官は望遠鏡を取り出して監輔一行を観察しています。
 

現在の夜荷部(ヨニベ)?付近①

 

■大陸と最接近

鉾部(ホコペイ)と名付けた場所は、樺太と大陸がもっとも接近する場所です。「相距ること一里余りに過ぎず」(実際は約7㎞)という距離しかありません。鉾部(ホコペイ)の村を訪ねると、幼子をだいた婦人が恐れ、慌てました。
 
「志異射母(シヒシャモ)と聴くに及び、昂然として喜びの色あり。口に声を絶せざるほどなりき」。志異射母(シヒシャモ)は和人のことです。監輔たちが和人と名乗ったことで、声を出して大喜びしたと言います。よほどロシアを恐れていたのでしょう。
 
鉾部(ホコペイ)から和牙(ワゲ)という岬を過ぎ、2里ほどいくと3〜4人の婦人が河原に立っています。近づくと逃げましたが、一人60歳くらいの婦人が残りました。その婦人の家を尋ねるとロシアの器具がたくさんありました。名前を「キリン」というオロッコの夫人でした。
 
この村を過ぎると水深はますます浅くなり、船を進めるのに苦労します。12日、大陸の方に2隻の蒸気船を認めました。白い煙を吐いたまま動きません。このあたりから地形に変化が生まれ、しだいに岩場になっていきます。
 
やがて岬が見えてきました。監輔はここが間宮林蔵が記録した泣子(ナクコ)岬と主張しましたが、伝九郎は違うと言います。西南を望むと大きな黒い影が見えました。周吉は「ロシア船だ」と言いましたが、キシユリカは「小島の連なりだろう」と言います。結論が出ないまま南に進みます。「船の行くこと飛ぶが如し」と順調に距離をかせいでいきます。
 
13日に戸塚(トヅカ)という集落につくと疲れを取るために一日ここで休むことにしました。村人が満洲産の酒を出してくれて宴会です。村人の中に老婆がおり、むかし、和人がここまでやってきたという話をしました。「なんぞ上国(和人)が来らざる事の久しきやとて談じて時を移し愉々如たり」。楽しい宴となりました。
 

大陸と最も接近する鉾部(ホコペイ)は現在のポギビか?③

 

■ジェチコフとの再会

14日に船を出し、船は順調に南に下ります。15日に立ち寄った褒江(ホエ)という村では、ひとりの婦人がアイヌ語を話しました。幌子丹(ホロコタン)の出身で、この奥地に嫁に来たといいます。
 
ここを過ぎると現地人がこれから船を出そうとする場面にあいました。よくみると船には一人のロシア人が乗っています。監輔が予備調査で会ったジェチコフでした。しかし、ジェチコフは監輔を覚えていません。監輔も知らないふりをして別れました。
 
ジェチコフと分かれて多華(タゲ)という村を尋ねると、3人の現地民がいました。こんな会話が交わされました。
 
「どこから来たのか?」
「北東から来た」
「陸に舟を上げたのか?」
「そうではない。鵞小門岬から下ってきた」
「われわれの仲間で未だ彼の地を過ぎた者はいない。あなた方だけだ。どういう神なのか!」
 
本稿では岡本監輔の冒険を「和人初の樺太全周踏破」と紹介しています。ウィルタ、ニブフなどの少数民族に全島踏破をした者がいるかもしれないからです(ロシア人なら記録に残すはず)。でも、この会話を聞けば、岡本監輔は樺太全島制覇を成し遂げた最初の人類であったかもしれません。
 

泣子(ナクコ)岬か①

 

■ロシアの石炭採取場

7月16日、「天色清澄にして海水も鑑むべし。鱒の水底を行くを見るに極めて夥し。衆注視し、徐々に枻を鼓し南進す」。北緯50度に近づいてきました。落石(オッチシ)と呼ばれる場所で、鱒がたくさん昇る大きな川が流れていました。河原は広々とした草原で、牛が数十頭草を食んでいました。ロシア人が放ったものです。このあたりはロシアの牧場となっていたのでした。
 
南に大きな岩があり、簡単に通れそうにありません。この岩を捲くようにロシア人が開いた道が続いていました。足を踏み入れると、ロシア人が山を崩した跡がありました。馬鈴薯を植えた跡もあります。山の下の絶壁には石炭の露天掘りの跡が見えました。
 
監輔と伝九郎は勇気を奮って近づいていきました。ロシア人の数は200人を下りません。家屋も20棟はあり、中央には大きな建物が4棟建っていました。広さは10間×20間はあるでしょうか。礼拝堂と思わしきもありました。桟橋を架けて漏斗のようなもので石炭を船に積み込む施設も見えます。「人に寒心せしむ」と監輔は書いています。
 
ロシアの探鉱開発の様子を見届けると監輔はその場を離れました。近くに一人の現地民がいて、東の方を指すので一緒に進みます。この部落の長老の住居に案内され、酒を出して簡単な宴席を設けました。ニワトリの卵やウリなどが出されました。ことごとく地元産であるというのです。
 
彼らがどのような思いで招いたかは分からずじまいでしたが、帰りがけに辺りを見ると野菜畑が広がっていました。現地民が黄色く熟した麦を見せるので聞けば、「この地に産したるものなり」とのことです。監輔はとても感激して「この地を拓は耕種に在り。必ずしも獲魚のみならじ」と、樺太における農業の可能性を感じたようです。
 
長老に見送られて浜に戻ります。ここからは海岸の山が嶮しくなっていき、「巌石多く七里ばかりにして峻厳絶壁なり。仰ぎ見るに惴々(ずいずい=恐れおののく)たり」という場所となっていきます。ところ何処に川が注ぐ浜が見えますが、そこここに数軒の現地民の住居が見えます。
 

現在は北樺太の西海岸の中心都市アレクサンドロフスク=サハリンスキーとなっている落石③

 

■北緯50度線を南下

7月17日になって北緯50度、かつての日露樺太国境の場所を越えました。幌子丹(ホロコタン)という場所で、監輔は「往年吏議により、以北を露に与えんとし、露は全島を得まく欲するにより、ついに雑居の約を定めたたりしかど、この島は我に属せしは西土人も知り、蝦夷(アイヌ)は全島に満衍したる跡ありて、ここに限らざるに非ざるなり」と書いています。
 
翌18日に尋ねた部落では、アイヌ語が聞かれました。しかし、姿はニブフのようです。この地のアイヌがニブフ(原文は寿女連(スメレン))を娶るうちにその風習に染まったのだろうと監輔は推測しました。一人の女性を捕まえてどこの生まれか尋ねると「鵜城(ウショロ)」と答えました。
 
そして「古い記録を見ると、アイヌは落石(オッチン)以北にも暮らしているという。しかし、私が巡行したところ北ではアイヌを見なかった。ここがアイヌの北限なのか」と尋ねます。女は「ここより北は多華(たげ)にいたるまでは、みなアイヌがニブフと結婚したもので、アイヌの部落である」と答えました。さらに「ロシア人は来るのか」と尋ねると「ロシア人は、ここを欲すること久しきも、石炭なきがため来らざるなり」と答えました。
 
樺太の西海岸の北半分はニブフの勢力が強いようですが、ニブフとアイヌは混合が進んでいるようでもありました。岡本監輔の紀行全体を通して、樺太に在住する三つの北方民族の間に争いの記述はなく、東海岸ではニブフとウィルタが自分たちの文化を守ったままひとつの部落で暮らしていましたし、西海岸ではニブフに惹かれる方向でアイヌとの混合が進んでいるようです。
 
中世に北海道に在住したオホーツク人は、ギリヤーク系、すなわちニブフ系といわれます。オホーツク人は、北海道の先住民を武力で駆逐していったとの説を唱える向きもありますが、樺太を見ると両民族は平和的に融合していったように思われます。
 

北緯50度の街ピリヴォ②

 

■樺太全周踏破の完成

7月19日に知谷内に到達しました。ここは監輔が事前調査で樺太に来た時に足を伸ばした北限となります。岡本監輔にとって樺太全周制覇の完成です。監輔は感慨をこめて次のように書きました。
 
「三年前に余、ここに来たり。ひとえに奥地を探らんと欲して果たさず。今にしてついにその志を遂ぐることを得たり。この島は南北に2780里に過ぎず、東西は広きも340里に過ぎず。沿岸を周囲して700里計るにかく艱難なりしは余が懶惰(らんだ=なまけ心)なるに非ず。人の掣肘(せいちゅう=行動の引き留め)をなすともすべからざればななり。
 
顧ふに余が奥地の行は、あるいは風浪の険悪なるに過いて覆溺し、あるいは氷雪の厳凝する際に凍死し、あるいは猛獣のために噬(かま)れ、蛮民のために殺されんかも計りがたく、余は自ら覚悟したるところにして、官の管照を仰ぐの意なしといへども、官吏はその欲するに任せて保護せざるに忍びず。我邦の人跡を絶ちくる処に赴くを構はずといふべからざりしなるべし。この行の如きも伝九郎が同伴するに非ずはほとんど為しがたきものなるべきに、遅くもー周することを得たるは幸とこそいふべけれ」
 
この後、監輔は東海岸に移動し、8月3日に出発の地の輪荒(ワーレ)に入りました。ここでしばらく疲れた体を癒し、帰国を決意。伝九郎と別れを告げて、8月23日に久春古丹(大泊)に入ります。
 
ここで旅の記録を整理しながら一冬を過ごし、翌慶応2年4月、樺太航路が再開されると樺太を離れました。
 
 

【主要参考文献】
岡本偉庵銅像建設委員会「岡本偉庵『岡本氏自伝』」1964・徳島県教育委員会
金沢治「岡本偉庵先生の家系と年譜」1964・徳島県教育委員会
韋庵会編『岡本韋庵先生略伝』1912・韋庵会
河野常吉『岡本監輔先生伝』(高倉新一郎編『北海道史資料集・犀川会資料』 1982・北海道出版企画センター
『うらたつ観光協会』ブログ/岡本監輔の樺太旅行記 『窮北日誌』を読む会1回〜34回 https://wra5.blog.fc2.com
有馬卓也『岡本韋庵の北方構想』2023・中国書店
① Google Earth
②https://ja.wikipedia.org/
③https://idilesom.com/sakh/places/photos/205
④https://sakhalinmedia.ru/news/728511/

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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