北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

仮)北海道の民の歴史 
目次 

【連載:北海道民の歴史 2 】 
第1章 明治天皇の北海道開拓 2

文化露寇 日露初めての戦争

北海開拓は北から迫るロシアの脅威から日本を守るために始められました。ロシアはどのように日本に迫っていったのでしょう。鎖国状態にあった日本はこのことをどのように知ったのでしょうか? そして日本はどうしてロシアを恐れたのか? 文化年間に千島・樺太・利尻礼文で行われた「文化露寇」を知る必要があります。それは日本が、ロシアのみならず欧米列強と初めて砲火を交えた最初の戦争でした。[1]

 

 

■西洋の蝦夷地の発見

誰もが知るように明治維新は嘉永六(一八五三)年の黒船来航から始まりました。しかし、鎖国状態であった日本に突きつけられた「世界」という刃が明治維新という激震を起こしたならば、明治維新はそれよりも二〇〇年早く、北海道で始まっていました。
 
北海道にはじめて姿を見せた外国船はマールテン・G・フリース船長率いるオランダ船です。寛永二〇(一六四三)年のことでした。この年、オランダ東インド会社のフリースは、バタヴィア(インドネシアの首都・ジャカルタ)のオランダ東インド総督ファン・ディーメンから、①蝦夷島がどこに属しているのか、②黄金島があるのか、確かめるように指示されました。ヨーロッパの大航海時代、パイレーツたちはアジア大陸にあるとされた黄金の島を目指して冒険に繰り出し、その姿を日本に求めましたが、ここが黄金島ではないと知ると、さらに北方に船を進めたのです。
 
一年分の食糧を積んだフリース率いるカストリクム号は僚船ブレスケンス号とともに寛永二〇(一六四三)年三月二日、バタヴィアを日本に向かって出航しました。しかし両船は五月一九日に八丈島付近で暴風に遭い、互いを見失います。それでもカストリクム号は、三陸海岸から北上して襟裳岬を回り、六月二日に十勝川河口付近に到着して、はじめてアイヌの訪問を受けました。
 
さらに船を東に進め、六月十三日に北方領土の歯舞諸島に達しました。さらに北上して六月二〇日に得撫島西端に上陸。東インド会社所有の証しとして「コンパニース・ランド」と命名。続いて択捉島に接近して「スターテンランド」と名付けます。オランダの島という意味です。そして七月三日に国後島に上陸して、島のアイヌと接触しました。
 
この地方特有の夏霧がひどくなり、フリースは探検を切り上げて、樺太に向かい、亜庭湾に上陸。八月三日に帰路につき、途上、厚岸に立ち寄って八月十六日から一四日間停泊しました。このときの報告書が北海道を欧米に紹介した最初のものとされています。しかし、千島と日本の交流はこれよりも古く、松前藩の年代記『新羅之記録』によれば元和元(一六一五)年までさかのぼることができます。[2]
 

 

■ロシアの接近

最初に北方領土の領有を宣言したオランダでしたが、これを実行することはなく、一八世紀に入りオホーツク海の主導権は新興のロシアに移りました。一七世紀初頭、ロシア帝国が成立すると、東方に勢力を拡大していきました。ロシア傘下のスラブ系遊牧民コサックが、ヨーロッパで高く取引されていた毛皮資源を求めて東方に盛んに進出したのです。
 
一六九六年にコサック隊のアトラソフ[3]は部下にカムチャッカ半島を探査させます。翌年アトラソフは自らカムチャッカ半島に乗り出しました。そして北方少数民族のカムチャダールに救われていた日本の遭難者デンベイ(伝兵衛)と出会います。アトラソフはは伝兵衛をペテルブルクに送り、一七〇二年一月に伝兵衛はピヨートル一世(大帝)から尋問を受けました。
 
極東に日本という国のあることに興味を持ったピヨートルは、彼を教師とした日本学校を設立を命じました。ピヨートルはオランダが日本と交易を図っていたことを知っていたので、デンベイを通じて日本がロシアに隣接していることを知り、交易に意欲を見たのです。しかし、当時はオホーツクは未知の土地。交易の前に地理を明らかにして航路を開く必要がありました。ピヨートルはすぐにオホーツク地域の調査を命じました。
 
ピヨートルの勅命を受けてロシアは数次に渡って調査隊を派遣。千島方面の事情が知られるようになると、ロシアはこれらの地域の領有化に着手し、住民に毛皮税の納付を強要しました。ロシア官吏の強圧的を恐れて先住民は南に逃れようとし、追いかける中でロシア人はついに国後島まで到達するのです。
 
安永七(一七七八)年、ヤクーツク在住の商人レーベジェフは、日本との交易を求めてアンティピンとシャバーリンを派遣。一行は九月に根室のノッカマップに到着し、松前藩の役人・新井田大八と工藤八百衛門に会い、日本との交易を求めました。
 
鎖国が国是の時代です。二人は「自分たちの一存では決められない、藩主に伺いを立てるので、明年夏に択捉島で待つように」と返答しました。翌年八月、松前藩は厚岸で幕吏を派遣してシャバーリンと交渉を行い、この地での交易は国法で禁じられていること、日本と交易を希望するならば長崎に出向くことなどを伝えて引き下がらせました。
 
寛政四(一七九二)年九月、ロシア皇帝エカテリーナの国書を携えて、アダム・ラクスマンが、三九人の使節団と大黒屋光太夫など三人の和人漂流民を連れて、根室の西別川河口付近に上陸し、この地の松前藩士に来意を告げました。
 

アダム・ラックスマン②

 
松前藩は直ち幕府に報告。江戸表では、老中松平定信らが侃々諤々の協議を重ね、①エカテリーナの国書は長崎以外では受け取れない、②献上物も受け取らない。③江戸への来航は認めない、④漂流民は受け取り、その礼を厚くしてその労ねぎらう。⑤通商の件は長崎を通すこと、⑥使節を派遣して松前で対応するという方針を決めました。
 
この交渉は、寛政五(一七九三)年七月二十九日から、松前で行われることとなりました。幕府側は随行を含め総勢五四〇名もの使節団を送って右の方針をもって交渉に臨みました。交渉は八月四日まで続きました。
 
ロシア側の要求はことごとく撥ね付けられましたが、長崎であれば交渉に応じるとの感触を得たラックスマンは、大黒屋光太夫ら漂流者を引き渡して帰国します。出航に際して大砲を放ったことに日本側は驚き慄いたといいます。
 
船は福山を出ていったん箱館に入りますが、このときロシア船を刺激してはならないと、市中には喧嘩はもちろんのこと、大声を発することも禁じるお触れが出たといいます。海が荒れ、なかなか出港できずにいるとき、こんな歌がうたわれたと『函館区史』(1911)は伝えています。
 

 異国の舟ふき送れ日本のたみをめぐみの天津神風  [3]

 
ロシアの度重なる接近は幕府の蝦夷地への関心と欧米諸国への警戒感を高め、幕府は寛政十一(一七九九)年に仮上知し、享和二(一八〇二)年には東蝦夷地を松前藩から取り上げ、直轄地にすることを決めます。
 

文化露寇

通商の件は長崎を通すように———との幕府の要請に従い、文化元(一八〇四)年三月七日、ロシア皇帝アレキサンドルの使者としてニコライ・レザノフが長崎に来航しました。しかし、幕府は「国禁により許すことができない」と返答し、すぐに帰るように求めます。レザノフは激しい怒りを秘めながら、三月十九日に長崎を出航、四八日後に拠点であるカムチャッカ半島のペテロヴロフスクに戻りました。
 

コライ・レザノフ③

 
怒りが収まらないレザノフは「武力による対日通商関係樹立」という上申書を認めて皇帝アレクサンドル一世に送ります。樺太を武力占領した後、その武威によって日本に通商を迫ろうと考えていたのでした。さらに樺太で捕らえた日本人を、そのころロシア領であったアラスカに移住させることを考えました。そしてこの計画を実行に移すべく配下の海軍仕官フヴォストフとダヴィドフを呼び出し、侵攻部隊を組織して樺太の日本人居留地の襲撃することを命じました。
 
9月になってレザノフは首都モスクワに向かいますが、この時点で皇帝からの勅許が届いていなかったためでしょう、出発の間際に攻撃から偵察に変更した指令をフヴォストフに送りますが、表現が曖昧であったためフヴォストフは攻撃が中心になったとは考えず二隻の軍艦に七十余人を乗せてオホーツク港を出港しました。
 
文化三(一八〇六)年、フヴォストフの船が嵐に遭ったため、九月十一日、ダヴィドフ隊が単独で樺太アニワ湾のオフイトマリに上陸、先住民一人を捕らえ、ロシアの支配下に入ったことを告げる真鍮板を設置。翌日、久春古丹に銃を携えて上陸し、運上屋に押し入りました。松前藩の番人は不在でしたが、番所にいた和人四人を捕らえ、倉庫を掠奪し、運上屋と弁天社に火を付けました[4]。
 
樺太を襲ったフヴォストフはいったん拠点のペテロパヴロフスクに引揚げますが、翌文化四(一八〇七)年四月二十四日、ダヴィドフのアヴォシ号を加えてウルップ島を経て択捉島内保《ないほ》に上陸。二十四日に番屋に押し入り、中にいた邦人五人を捕らえると、物品を掠奪の上、火を放ちました。
 
このとき、幕府の択捉番所は紗那にありました。内保と紗那の間は約一二〇㌔。番所には幕府の下役元締・戸田亦太夫、調役下役・関谷茂八郎のほか、南部藩と津軽藩の兵が警備に当たっていました。中には間宮海峡の発見で知られる間宮林蔵もいます。
 
内保から急報を受け、関谷茂八郎は南部・津軽の足軽を引き連れて現場に赴きましたが、すでにロシア人は引揚げた後でした。関谷らが紗那に戻ったのは四月二十七日です。状況を把握し、翌二十八日にロシア船の来襲に備えて急ぎ陣を構築しました。日本側の兵力は三〇〇人程度でした。
 
二十九日午後二時頃、ロシア船が紗那沖に姿を見せました。やがて二隻の橋舟を下ろすと四~五〇人の兵が乗り込みました。一隻には大砲を積み込んでいます。彼らが上陸したところで、幕府守備隊は白旗を振って敵意のないことを知らせ、支配人の川口陽助らが彼らに近づきました。
 
するとロシア側は一斉に発砲。弾は川口陽助に当たりました。陽助に従っていたアイヌの珍平が撃たれて即死。これを合図に双方で撃ち合いが始まりました。近代において日本とロシアとの最初の交戦です。
 
幕府守備隊は弁天社に布陣し、上陸したロシア兵二十数人は粕蔵に布陣。双方で激しく撃ち合いました。夕刻になりロシア側は船に引揚げますが、時折船から大砲を放ちました。
 
この夜、幕府守備隊では、戸田と関谷は「銃弾が尽きてしまったといい」この場を離れて再起を図ると告げました。間宮林蔵らが積極攻勢を主張しましたが、素手で叶う相手ではありません。
 
守備隊は紗那からアリムイを経てルベツに向かいますが、ロシア側は番屋に激しい砲撃を加えた後に、上陸して狼藉の限りを尽くしました。負傷で逃げ遅れた南部藩士・大村治五平が捕らえられました。一方、ロシア兵に見つからないように山地を進んだ守備隊では、戸田又太夫が責任をとって自害。関谷も続こうとしますが、止められました。
 
この後、ロシア人は、五月二十一に日樺太に上陸、ここでも番屋や倉庫を焼き討ち。五月二十九日、樺太を出て利尻島に向かい、途中で出会った船を襲いました。六月五日に利尻に上陸してここでも焼き討ちをかけます[ 5] 。
 
フヴォストフらの択捉襲撃の報が函館奉行所にもたらされたのは五月十七日です。奉行の羽太正養は驚いて急報を幕府に発するとともに、直ちに南部・津軽・秋田・庄内の各藩に出兵を命じました。
 
ちょうどこの頃、五月六日に椴法華の沖合に怪しい外国船を見かけたとの報告が市中を不安にさせていました。そして一九日十九日午後、津軽海峡を異国船にも見える大型船が航行するのが発見されました。箱館奉行は南部・津軽の藩兵に命じて持ち場を固めさせます。
 

兵七百人、奉行支配向数十人、市在の人民、分かれて函館亀田等一八箇所に屯し、繋養馬に騎して各陣所を巡視す。その手勢百二十余人。小性以下に至るまで皆軍曹をなし、威容綽綽たり。されば市民は今にも砲火を交じゆべしととて老人小児等を箱館山の山林に避けしめ、残る婦女の中には泣き叫ぶものもあり。夜に入りては各所に篝火を焼き、市中は幕吏等髙提灯を建てて警護するなど未曽有の騒動を極めたり。[6]

 
この船がはたして異国船であったのか、ハッキリしていませんが、千島・樺太でのロシア襲撃事件が遠く離れた箱館の人々に強い恐怖を与えたことが伺えます。
 
この文化年間のロシアによる択捉・樺太襲撃事件は「文化露寇」と呼ばれ、幕府中央に強い衝撃を与えました。北方防衛を松前藩だけに任せてはおけないと、文化四(一八〇七)年、幕府は蝦夷地の全土を松前藩から奪い、直轄地にします。 そして海岸に所領を有する諸藩に、ロシア船が迫れば打ち払い、陸に近づくようなら捕縛するように命じたのです。
 
 

 


【脚注】
[1]この節については、川上淳『千島通史の研究』(2020)北海道出版企画センター・秋月俊幸『千島列島をめぐる日本とロシア』(2014)・北海道大学出版会・『根室市史 上巻』(1968)・根室市・『厚岸町史 上巻』(1965)厚岸町を中心に記述し、年月日等は最新の川上淳(2020)を優先して採用した。
[2]『新北海道史第7巻資料編1』72pの読み下しによれば『新羅之記録下』に「元和元年慶廣朝臣大阪の陣に立てしむの留守中六月、東隅(メナシ)の夷船数十艘来る」となっている。
[3]ロシア人の人名表記については、シベリア抑留史を研究する長勢了治氏に監修いただいた。
[4]『函館区史』(1911)110p
[5]「文化露寇」における樺太地域での事件については『編樺太沿革・行政史』(1978)全国樺太連盟で補った。
[6]『函館区史』(1911)176p 箱館市中の異国船騒動についても同書を参照している。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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