北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

栗山町

浄土宗・方田寺

栗山開祖泉麟太郎を助けた開拓開教師 

周田 順信

 

栗山町は、宮城県旧角田藩士、泉麟太郎によって開かれたことで知られます。泉は明治の初年に、北海道で〝第2の角田郷〟を開くべく「夕張開墾企業組合」を組織し、1888(明治21)年に7戸24人を引き連れて入植し、まちの礎を築きました。この開拓を宗教家として助けたのが、浄土宗の開拓開教師・周田順信師でした。以下は、町史と「町史編さん室ニュース 6号」の記述をまとめたものです。

 
浄土宗・方田寺の開教者、周田順信は、幼名「八十一」、元服「弥一」といい、明治2(1896)年4月11日に山形県阿武郡萩市で生まれた。すぐに浄土宗・常念寺に預けられ、第30世、西村赫春により明治11年(1878)に得度。その後、古萩小学校を経て明治19年5月25日、山口大附教校初科を修了した。
 
翌年5月10日、一家挙げて胆振国千歳郡漁村67番地へ移住。周田順信は家族を助けて開拓に従事した。明治22年(1889)4月4日札幌農学校園芸科卒業、さらに同10月19日同校獣医科を卒業。北海道庁第2部農商科に奉職した。
 
しかし、少年のときからの一寺創立の志は消えがたく、道庁を辞めて、1890(明治23)年、空知郡岩見沢村に転籍し、阿弥陀寺の松倉玄順に付き従う。その頃寺は、夕張郡から死亡者の葬儀を託するものが相次ぎ、わずか3カ月間に200余件にも達したという。
 
当時、角田村(栗山町)には、まだ1軒も寺がなく、同年10月、泉麟太郎に会って開教を希望を伝えたところ、2人は意気投合し、泉は「戸数1000戸に達するまでは一村一寺とする」といい、境内地の寄付を約束した。
 
1892(明治25)年4月に角田村に移り、当時の番外地に間口2間奥行4間の平屋の一棟を買い受け、教会所開設の準備をするとともに、自ら開墾耕作を続けて自営自活の生活に入った。1893(明治26)年9月、泉は約束を違えずに寺有地1500坪を寄付。1896(明治29)年8月に堂宇を完成させた。
 
周田住職は開拓当初から銀難辛苦と闘い一生をこの地の開教に投じたばかりなく、泉とともに開拓の業を指導し、また獣医師として家畜の医療に従事、あるいは村の社会教育事業に尽した功績は誠に大きく、信徒はもちろんのこと村民からつねに尊敬されていた。
 
昭和8年(1933)からは、根室郡和田村に説教所を設営、また長男順応を根室町の大徳寺に住職として送るなど、この地方の布教にも尽力した。昭和19年2月惜しまれて他界した。
 

周田順信師、幼名と元服名を持っていることから士族の家柄でしょう。学歴では山口大附教校初科と、ここだけ現代風になっていますが、旧制山口中学のようです。家族を挙げて千歳郡漁村に入植しました。

順信師は大変優秀だったようで、札幌農学校の農芸科に入り、次いで獣医科を卒業しました。道庁に入り、将来を約束されたエリート官僚になります。
 
ところが、順信師は、子どものときに預けられたお寺の記憶が忘れられなかったのです。北海道では劣勢だった浄土宗を広めるために、栄達を約束された道庁を辞めて、開拓開教師として鋸と鍬を握る生活に戻りました。
 
そんな順信師を、泉麟太郎は初対面で、境内地の寄付を約束し、「住宅が1000戸なるまで他の寺は建てさせない」と言ったといいますから、よほど麟太郎は順信師に惚れ込んだのでしょう。なた麟太郎の、ひとつのまちを立ち上げた開拓者ならではの胆力も感じました。
 
順信師は、僧侶として宗教の力で開拓地をまとめ、札幌農学校で学んだ農業の知識と獣医の技術で農業に貢献しました。北海道の歴史で栗山の開拓を成功に導いた泉麟太郎の功績は、よく知られるところですが、実は懐刀としての順信師の存在が大きかったのです。


【参考文献】
『栗山町史』栗山町
栗山町町史編さん室『町史編さん室ニュース』6号http://www.town.kuriyama.hokkaido.jp/docs/2016110800025/

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