北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

戸長役場

 

北海道でまちの歴史の調べているとしばしば「戸長役場」という言葉を目にします。この時代にこんなところにまちができるほど人がいたのだろうか? と疑問に思うことや「○○外○カ村戸長役場」などという謎の役場もあります。北海道の戸長役場とは、どんなものだったのでしょうか?

 

■江戸時代の名主が就いた明治4年の戸長

北海道の「戸長」や「戸長役場」で混乱する第一は、戸長には明治4(1871)年に設けらたものと、明治12(1879)年に設けられたものがあることです。同じ戸長でも性格はまったく異なります。
 
明治4(1871)年の戸長役場は江戸時代の名主制度が明治に移行したものでした。幕藩時代から開けていた道南の大野町(現北斗市)の「大野町史」によると
 
政府は明治4(1871)年戸籍法を公布し、この施行のために、名主・庄屋(同一の職能であるが、関東では名主・関西では庄屋または荘屋といった)に、戸長・副戸長などの名称を与えている。このときの戸長・訓戸長は、単なる戸籍吏に過ぎなく、これによって編成されたものは明治5(1872)年の壬申戸籍と称するものであった。
 
ついで明治5(1872)年4月9日、太政官布告(27号)によって、名主・年寄・百姓代は廃止となり、戸長・副戸長などの名称が再び出てきているが、本道の場合は1年ぐらいおくれており、明治6(1873)年5月に大小区画が施行され、同時に支庁布達によって、在来の名主は副戸長、年寄・小狽・百姓代は、村用掛と改称された。[1]
 
としています。
 
この間の事情を「瀬棚町史」はもう少し詳しく次のように述べています。
 
明治4(1871)年4月4日、政府は太政官布告で戸籍法を制定した。その際、戸籍区を設け、区ごとに戸長及戸籍の編成び副戸長をおいた。1区は4~5町あるいは7~8村をめどとし、戸長・副戸長には旧来の村役人などをあてるはずであった。
 
このかぎりでは、戸籍編成のための特別行政区山を設定し、戸籍吏を設置したにすぎない。しかし、戸籍編成それ自体、「戸口の多寡を知るは人民繁育の基」というように人民統治の前提となる施策にほかならなかった。
 
この戸籍法制定にともなって明治10(1877)年、江戸時代よりつづいてきた宗門人別帳(寺請制度)は廃止され、翌明治5(1872)年2月1日から戸籍法が施行されたが、これによって作成された戸籍法は、この年の干支から俗に「壬申戸籍」とよばれている。これによって国民はすべてその住居地にしたがって戸籍がつくられるようになった。[2]
 
すなわち、最初の戸長は明治政府が近代的な戸籍制度を創設したときに、地域の実情に詳しい名主を戸籍係として任命したものでした。
 
そして江戸時代以来の名主という名称は明治6年に廃止になり、名主はそのまま戸長(または副戸長)になったようです。戸長職は無給で若干の公務も行いましたが、実体的には町内会長のようなものでした。
 

■大小区制から郡町村制へ

戸籍をつくるために設けられた「区」は江戸時代以来の「村」を7~8まとめたもので、明治4(1871)年の戸籍法制定と共に設けれましたが、開拓地である北海道は函館などもそもと村があった地域に設けられた他は、内部は手つかずのままでした。
 
全国的に戸籍区はそのまま一般の行政区となり、県の下に「大区」と「小区」が置かれる「大小区制」が明治5(1872)年に法制化されました。
 
しかし北海道では、函館など部分的に行われていましたが、施行は遅れていました。ようやく明治9(1876)年になって「北海道大小区画」を制定し、北海道を30大区、166小区に区画しました。
 
明治政府は、全国を県→大区→区という系列で統治しようとしましたが、伝統的な村と整合性がとれないことから各地で反発が強まりました。
 
そこで明治12(1879)年、政府は「郡区町村編制法」を制定、「大小区制」を廃止し、現在に近い「郡町村制」が設けられます。このとき町村は行政区画であるとともに自治団体になりました。
 
「郡区町村編制法」にあわせて北海道でも明治12(1879)年7月、「大小区制」を廃止し、90郡区826町村を設定しました。この時、郡に郡長、町村に戸長が置かれました。
 

■道庁吏員が就いた明治12年の戸長

 

明治30年・常呂村外4ヶ村戸長役場吏員(出典①)

 

この戸長と明治4(1871)年の戸長は、名前は同じでも、性格はまったく異なります。戸長が事務を行う戸長役場は郡役所や道庁支庁の出張所であり行政官庁でした。戸長や書記は郡長や支庁長が任命し、戸長、役場費用はすべて公費でした。
 
戸長は、本州では民選─つまり江戸時代以来の地域の名家─から選ばれるのが原則でしたが、北海道では3県や道庁の吏員から選ばれ、定期的に移動しました。
 
明治12(1879)年7月に出された「戸長職務概目」によると、戸長の仕事は次のようなものです。
 
第1 布告、布達を町村内に示すこと
第2 地租及び諸税を取り纏め上納すること
第3 戸籍のこと
第4 徴兵下調のこと
第5 地所、建物、船舶、入書並びに売買に奥書加印のこと
第6 地券台帳のこと
第7 迷子、捨子及び行旅病人、変死人その他事変あるときは警察官に報知のこと
第8 天災又は非常の難に遭い目下窮迫の者を具状すること
第9 孝子、節婦その他篤行の者を具状すること
第10 町村の幼童就学勧誘のこと
第11 町村内の人民印影簿を整置する
第12 諸帳簿保存管守のこと
第13 河港、道路、堤防、橋梁その他修繕、保存すべき物につき利害を具状すること
 
右のほか道路、橋梁、用悪水の修繕、掃除等凡そ協議費をもって支弁する事件はこの限りにあらず。[3]
 
戸長役場は、大規模な公共工事を除き、民生全般を司る役所であったことがわかります。事務遂行のために戸長は郡区長の許可を受けて筆生書記、手伝人員を雇うことができ、今から見れば粗末な家屋ですが役場らしい陣容を備えていました。
 
なお『美幌町百年史』によれば
 
13年当時の戸長の月給は13円、小使が5円50銭。そのほかの役場の支払額は46円ほど、そのすべては官費で網走支庁から支給された。なお戸長自身には13年度の戸数割税として30銭が賦課されていた。[4]
 
とあります。週刊朝日編『値段史年表』掲載の明治13(1880)年の日雇労働者の日当を元にした換算では、戸長の月給は現代の貨幣価値で61万9000円、小使が26万2000円、役場経費は219万円、戸長の住民税は1万4000円と、現代の目から見ても違和感のない金額になります。
 

■警察も兼ねた戸長

この「戸長職務概目」では、事件があったときには警察に通知することとなっていますが、多くの地域で戸長が警察を兼ねることもあったようです。
 
一聚落をなすの地には、必らず郡役所、警察署を設置し、屹然相対して各事務を執り、照合往復に時間と手数を費し、はなはだしきは互に職権の抵触を論じて相拮梗して下らざるの状況は、あまりにも現実を無視した機構であるとなし、郡区長をして警察署長を兼任させたのである。
 
したがって郡区書記は警部・警部補を兼ね、警部および警部補は郡区書記を兼ね、巡査は本務の余暇をもって行政事務の補助をなし、従来の警察分署はこれを廃して各戸長役場をもって分署に定め、戸長をして警部、警部補を兼務させて分署長としたのである。(『新選北海道史』)[5]
 
このように当時の戸長は大変な権力者でした。
 

■役場が作られてからまちができる

さて明治12(1879)年、北海道にも90の郡と826の町村が設置されましたが、実際に郡役所が設けられたのは21、戸長役場が設けられのは136にすぎませんでした。内陸では村を設置したけれども、実際にはほとんど人の住んでいないところが大半だったのです。「村」は紙の上だけの存在でした。
 
先に紹介した美幌戸長役場の設置は、3県時代が終わり、明治19(1886)年に道庁が設置された後の明治20(1887)年7月1日です。制度が設けられて8年後でした。
 
この美幌戸長役場は正式には「美幌外5カ村戸長役場」といい、美幌の他、活汲(かっくみ=津別町)、杵端辺(けねたんべ=美幌町)、古梅(美幌町)、達媚(たっこぶ=津別町)、飜木禽(ぽんききん=津別町)の戸長を兼ねていました。
 
美幌戸長役場は川汲に置かれましたが、初代戸長・野崎政長はすぐに美幌に移しました。この事情を「津別町史」(1954)は次のように伝えています。
 
当時既に活汲は1戸よりなく、達媚、細木禽を合せても(津別地域は)6戸に過ぎなかったが、美幌村は4戸、杵端辺、古梅を加え9戸に達しており、また地形的にも将来美幌が中心となるべきは必然であったから、同年9月6日、道庁令第85号をもって役場位置を美幌村字アシリペックシ(現在の元町)に変更し、9月10日戸長着任、旧救済事務取扱所詮役場庁舎に宛て、10月12日管下の古老を集めて厳かな開庁式を挙行し、役場事務を開始したのである。当時戸長一家3人のほかはすべて旧土人であった。[5]
 
この美幌外5カ村戸長役場を管轄するのは網走の郡役所ですが、この郡役所も網走の外、斜里、常呂、紋別の郡役所を兼ねる「網走外3郡役所」でした。
 
本州では人の住む集落に村が設けられ、役場が置かれるのですが、開拓地である北海道ではわずかにアイヌの人々が住む密林地帯にも地図の上で「村」が設けられ、「役場」が置かれたのでした。「戸長役場」が開設されたからといって必ずしもそこに多くの人間が暮らしていのではありません。ほとんど無人の地域に最初に役場が置かれ、やがて人が増えてまちになったところも多いのです。
 


 

【引用参照出典】
[1]『大野町史』1970・大野町・397p
[2]『瀬棚町史』1991・瀬棚町・219p
[3]『美幌町百年史』1989・美幌町・76~78p
[4]同上・78p
[5]『穂別町史』1971・穂別町・181p
[6]『津別史』1954・津別町・70~71p
その他『新北海道史 第3巻通説2』1971・北海道208~258p
 ① 北見市立図書館(北方資料デジタルライブラリー)
http://www3.library.pref.hokkaido.jp/digitallibrary/
 

 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。