北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

明治10年代 開拓はアイヌを餓死させたのか? (上)

 

明治10年代、北海道開拓によってアイヌは先祖伝来の生業を奪われ餓死者の出る飢饉に陥った──。ほとんどのアイヌ史の本、北海道の歴史書に書かれていることであり、学校で私たちの子どもたちは必ずこのように教わります。しかし、北海道史の勉強し始めてから、この〝通説〟に疑問を抱くようになりました。これは大きなテーマであり、これからゆっくりと解き明かして参りたいと思います。まずは明治10年代の十勝での餓死事件について。

 

■餓死するアイヌが続出!?

このアイヌの飢饉はアイヌ史の概説本には必ずと言っていいほど登場します。まずは全道の中学生に配布されている副読本『アイヌ民族:歴史と文化』(中学生版)、次のように書かれています。
 
サケやシカの加工品を北海道の産品にするため、アイヌ民族が行ってきたサケ漁やシカ猟を禁止した。そのため、アイヌの人たちの生活は困難なものとなった。1880年代には飢饉もおこり、広い地域で食料不足から餓死者や栄養失調で病死する人が続出した。[1]
 
次に、一番新しいアイヌ史の概説本、平山裕人氏の『アイヌの歴史_日本の先住民を理解するための160話』(2014・明石書店)を見てみましょう。
 
1875年(明治8)、北海道シカ猟規則がつくられました。シカ猟をするには、「免許鑑札」が必要なこと、猟者は年間600名まで、毒矢は禁止、となりました。当時のほとんどのアイヌに「免許」の意識があったとは思えないし、猟者が600名までならば、和人ばかりが殺到しそうです。
 
毒矢の禁止は、アイヌに狩猟をやめろということになります。アイヌの人たちにとって、シカは大切な食料ですが、これではどうやって生きていけばいいのでしょうか。
 
さらに、1879年(明治12)、日高地方のサケ漁が禁止になりました(『函館新聞』)。札幌県十勝地方の河川でサケ漁を禁止しました。ここでは、アイヌの人たちに餓死者が出るほどでした。和人の街ができると、アイヌの人たちを強制移住させる事例も出てくるようになりました。小樽、釧路、旭川など、いくつかの街で、強制移住がありました。[2]
 
以上は一般向けの入門書の記述ですが、最も権威があるとされるアイヌ史の専門書、榎森進氏の『アイヌ民族の歴史』(2007・草風館)を読んでみます。
 
先にも触れたように、アイヌ民族は長い間、鮭や鹿の肉を主食としてきたが、鹿は狩猟区域の制限や許可制等によって、以前のように自由に捕れなくなったばかりか、鉄砲を持った和人の猟師が従来のアイヌ民族の狩猟地域に自由に入り込んでは濫獲に濫獲を重ねたため、1875(明治8)年に7万6500枚の産高を見た鹿皮が、3年後の1878(明治11)年には僅かに1万枚となり、1877(明治10)年頃には早くも資源の枯渇を招くに至った。
 
しかも翌1878(明治11)年から1879(明治12)年にかけて大雪にみまわれ、全道の鹿がことごとく死亡し、絶滅寸前の状態になるや、食糧の欠乏はその極に達し、餓死するアイヌが続出し、遂に1884(明治17)年、時の札幌県令調所広丈をして「今ニシテ之レガ救済ノ方法ヲ設ケザレバ、他日実ニ凍餓餓死数万ノ人民絶滅ニ至ルモ亦知ル可ラズ」(同前)と言わしめる程の悲惨な状態を招くにいたった。[3]
 
明治12年の大雪によって万単位(!)のアイヌが餓死の淵に追い込まれたように読めます。
 
こう紹介していくと、本格的に北海道開拓が始まり、アイヌが狩猟採集という先祖伝来の生業を奪われたことで死者も出る著しい飢餓状態に陥ったかのように思われてしまいます。
 

■果して餓死なりや否やは保し難し?

私がこのことに疑問を持ったのは、以前「[標茶町]明治17年 根室管内旧土人救済方法」として紹介した1985年の『標茶町史考』に引用された明治17年の梅野四男吉の『復命書』を読んでからです。そこにはこう書かれていました。
 
飢餓の甚しかりしは、昨年末より今春野草の生する迄なりき、土人の言によれば、此際死去せしもの現に十余名ありと(果して餓死なりや否やは保し難し)飢餓の如何に甚しかりしや、其例証を挙ぐれば、一度棄捨したる鹿骨を煮て其汁を啜り、鮭、鹿皮の切れ等をも食し、凍寒中池沼へ入り貝類を探り、積雪中寄生木(やどりき)を求めてこれを食したるののみならず、父子兄弟の間にも食物を争ふに至れりと言う」(明治17(1884)年・梅野四男吉『復命書』)[4]
 
重要なのは「果して餓死なりや否やは保し難し」という一文です。
 
死亡のあったことを梅野自身が確かめたわけではなく、「土人の言によれば」という伝聞あって、話を聞いた梅野も首をかしげているのです。
 
この文は有名らしく、小笠原信之氏の『アイヌ近現代史読本』(2001・緑風出版)でも次のように紹介されています。
 
其最惨状を呈するは大津川上流のものにして、其支流のものこれに次ぐ。土人の言に由れば十余名の餓者ありたといふ。其飢餓の状態は一度棄捨したる鹿骨を煮て其汁を啜り、鮭鹿皮の切れ等も食し尽し、東寒中やどりぎ沼地に入りて貝類を採り、或いは寄生木を求めて其緑葉を食せり。又父子兄弟の間に食を争ふものあり。(阿部正己編「十勝国旧土人沿革調査」同)
 
沙流では、宝物までも持ち出し、山を越えて助けを求めに行った先も、飢餓に苦しんでいた。ふだんは食べないものにも手を出し、やっと命をつなぐ。十勝では一○人以上の餓死者を出し、厳寒の沼地で貝類を採り、肉親の間でも食べ物をめぐって争いが起きたというのだ。[5]
 
ここでもアイヌの惨状が強調されていますが、「果して餓死なりや否やは保し難し」は省かれています。
 
小笠原氏が引用した阿部正己編「十勝国旧土人沿革調査」は、戦前の道庁の北海道史編纂係に勤務した阿部正己が編集したものを昭和58(1983)年に復刻されたものです。
 
原文を読んでいないので申し訳ありませんが、順番で言えば『標茶町史考』の梅野四男吉の『復命書』が先で、この復命書を元に阿部正己が「十勝国旧土人沿革調査」を書いたものと思われます。
 
引用の引用を重ねるうちに「果して餓死なりや否やは保し難し」が抜け落ちたことによって、餓死が〝史実〟として固定し、さらに北海道開拓を否定したい、またはアイヌの惨状を強調したい立場によって〝続出〟〝数万ノ人民〟へとエスカレーションさせていったように思われます。
 

上ホロカメットク山から望む十勝岳(出典①)

 

■『新得町史』第1章第2節「先住民族の生活」

さて実際はどうだったのでしょうか? 昭和30(1955)年の『新得町史』にこの状況を説明する興味深い記述を見つけましたので、まずは予断を持たずにお読みください。
 
アイヌは元来漁猟を主として生計をたてている民族であるから、代々河川山野に鳥獣を追い、遠く海域に魚類を漁っていたのである。
 
ところが、明治初年まだこの地方が静岡、鹿児島等の支配に属していたころ、これら場所の経営を請負わせられていた者の中に、杉浦という者がいて十勝の総漁場請負人となり、これらアイヌの上にあって盛んに暴利をむさぼっていた。
 
そこで明治2(1869)年7月、十勝場所を十勝国とし7郡に分轄したとき、杉浦は請負入を免ぜられて単なる魚場持ちとされた。しかし、それでも彼の独占はおとろえをみせず、その後もつづけられていたが、年々の状況によってアイヌの生活にも上下があり、不漁の年には特に飢餓に落ち入り、見逃すことのできない状態になるので、明治8(1875)年8月、時の札幌本庁主任判官・松本十郎は、嘉七を諭して漁場を返還させ、改めてこれを嘉七の配下若松忠次郎に貸与して経営にあたらせることとした。
 
そこで忠次郎は、7郡のアイヌから1人づつ7人を選び、これに漁場の幹部である和人を加えた13人で十勝漁業組合を組織した。この組合に属する者、和人42戸、アイヌ280戸であったが、5年を1期として十勝漁場の経管にあたり、アイヌの生活安定を図ることになったのである。
 
当初漁場は主産物である鮭場が大津川に6カ所、十勝川に1カ所、その他沿海漁場にすぎなかったものが、期限の明治13(1880)年には46カ所を数えるにいたり、総利益金5万3819円5厘、この金は各1戸当り167円13銭の割合で配当されたのである。ただ十勝外4郡旧土人224戸の3万7439円13銭6厘は、その後開拓使庁で保管し、現金は郵船株式会社、その他の株を購入し、利殖を図ることとなった。
 
この十勝漁業組合で非常な利益を収めたアイヌはこれに味を覚え、十勝外4郡の土人相共同し、明治13(1880)年から引き続き大津海岸で漁場の許可を受けて漁業に乗り出したが、以前のごとく利益も思わしくなかった。
 
一方、明治2(1869)年、北海道開拓の中心が札幌に移り、函館と札幌をつなぐ国道が通すると、付近の地が急激に開拓され、胆振、千歳等の鹿の楽土も脅かされてきたので、鹿の中心地もしだいに十勝原野に移りつつあった。
 
このため猟師たちもアイヌの1隊を率いて日高山脈を越えはじめた。やがて毛皮商人たちまでが現地にやってきてアイヌに鹿を狩らせ、酒その他の物資と交換しはじめた。これらの人々によって十勝の鹿は急激に狩られていった。旧幕時代に年産706枚にすぎなかった十勝の鹿皮が実に1万2500枚にも達した。
 
アイヌたちは鹿の群を追って十勝の原野を駈けまわり、その後をメノコの群が鹿を処理しながら続く。1日の狩が終ると一同は仮小屋を作って野宿し、仮小屋には鹿皮と肉が山と積れる。それをさがして行商人が酒樽を背負って訪れ、酒盛をはじめる。翌朝彼らが目が覚めるころには、山と積まれた鹿皮はもちろん、仮小屋に敷いてあった皮までが酒の代償として持ち去られ、消え去っているのである。
 
このように十勝の鹿が乱獲される状況を酒井忠郁の『北地雁行記』(明治12(1879)年)では
 
昨年一箇年十勝一国にして旧土人の鹿を穫るもの四万頭に及ぶ。
 
と表現していたが、しかし、アイヌたちに天はいつまでもこの恵を与えてはいなかった。
 
明治12(1879)年2月、十勝地方一帯は大雪とみぞれに見舞われ、鹿が草を堀って食うことができず、むなしく猟師にとられ、あるいは餓死して、その屍は利別川畔に山を作り、夏になるとその死臭で、川水も使えなかったといわれる。
 
明治9(1876)年開拓使は「鹿狩仮規則」を設け、みだりに鹿を狩ることを禁じていたが、この新しい事態を重視し、さらに禁猟区を設けて十勝国一円をこれに加えたので、やがて鹿皮に望みを失った人々は、その落角に目をつけるようになった。そこでこれをたやすく拾いやすくするため山野に火を放ち、その焼跡をめぐって鹿角をかき集めたが、その実数に7~8万頭におよんだという。
 
この鹿の減少とともに鮭もまた減少した。明治13(1880)年3月、十勝漁業組合が解散されると十勝は全く自由な天地となった。人々は鮭漁場を求めて殺到し、出願する者が多かったが、また無願で漁業を行う者もでて、明治初年605石の鮭の産額も5000石から8000石にもなる状況であった。
 
このような乱獲、乱漁は、必然的に漁猟を業とするアイヌたちの生活の資を得る途をせばめてゆき、明治17(1884)年にはクッタルシのアイヌ部落で数名餓死者を出すほどの飢きんを招いた。
 
この事態を重視した札幌県では7000円の別途下付金を支出。梅野四方吉を総支配人にして、宮崎、荒井等を派遣し、明治18(1885)年8月、伏古別に土人開墾事務所を置き、此処を根拠として十勝川並に利別川沿岸12個所の土地を選んでアイヌを集め、1戸に1町歩を配当し、農具種子を与え、蝶多、止若、本別、帯広、人舞の5カ所に勧業係を常勤させ、農作法指導にあたらせた。
 
しかし、その後さらにアイヌ指導方針を変更し、同年10月には十勝管内のアイヌ全部をメムロブトに集結させることになったので、クッタルシ、サウロ居住のアイヌもともにメムロに移住させられることになったのである。[6]
 
いかがですか? 確かに「数名餓死者を出すほどの飢きんを招いた」とありますが、前半で紹介したアイヌ史本の解説とはずいぶん印象が違って読めたのではないでしょうか?
 

 


【引用参照文献】
 [1]小・中学生向け副読本編集委員会『アイヌ民族:歴史と現在─未来を共に生きるために─』2018・公益財団法人アイヌ民族文化財団・23p
[2]平山裕人『アイヌの歴史_日本の先住民を理解するための160話』2014・明石書店・244p
[3]榎森進『アイヌ民族の歴史』2007・草風館・398-399p
[4]『標茶町史考』1985・531ー532p
[5]小笠原信之『アイヌ近現代史読本』2001・緑風出版・90p
[6]『新得町史』1955・新得町・14-17p
【写真出典】
①https://ja.wikipedia.org/wiki/新得町 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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