北海道開拓の先駆者 2019/11/28
鹿追コタン アイヌと入植者の助け合い
侵略する和人入植者と迫害されたアイヌ──という残念な対立構造がつくられてしまっています。ゆえに開拓はアイヌ差別の元兇であるから賛美などまかりならんと。しかし、実際にはアイヌは開拓に積極的に協力し、また入植者もアイヌと親しく交わり、北海道で生きる術を彼らから学んだのです。開拓期の北海道でアイヌと入植者はまさに「助け合いの世界」でした。その具体例を『鹿追町史』からご紹介します。
■鹿追に残った4人のアイヌ
本町も大正の初期まではアイヌの人たちの生活圏で、狩猟を業としていたことは開拓者達によって確認されているが、和人入殖前のアイヌの人達の歴史については詳細を知ることができない。
しかも本町に大正の初期まで住んでいたという、アイヌの人達の使用した器具類は出土品から見て和人の製品であったから、アイヌの人特有のものと思われるものは全く無かったといってよい。しかし近年アイヌの人達の研究が盛んに行われ、多くの著書も出されており、アイヌの人の生活は広く紹介されてはいるが、本町の場合は概ね次のとおりである。
本町に居住したアイヌの人は、主として然別川に沿うて住居を構え、昔ながらの狩猟によって生活を支えていた。明治政府の本道拓殖政策により土地を与え農業を教えたので、粗略ながら農耕に従事するようになったとはいえ、大昔からの狩猟生活は一朝にして転換することができず、さればとて、政府の施策に追随していく決意にもなれなかった。
こうして漁猟をあきらめ切れないまま、芽室町の芽室太や音更町方面へ土地を与えられて去ったが、そのうち大正の末頃まで残った者が四人いた。ひとりは上然別西十線附近のエモンコ翁だが、独身で美事な白ひげをもつ、しゅう長らしい老人で、また一人は、上幌内西区に住んでいた久木田作蔵の家族、この老人もまた見事な白髭を蓄えていた。

チセの前で洋装で写真に写るアイヌのエカシ(出典①)
※鹿追にも多数のアイヌが住んでいましたが、明治政府が旧土人保護法によって土地を給付すると、そちらに移っていった様子が語られています。すでに北海道開拓が始まってから50年以上が経過しています。私たちが聞かされているところに従えば、給付地を与えられたにもかかわらず従わなかった4人のアイヌは、先祖伝来の土地を奪われ、生業の基盤を破壊されたことに激しい憎しみ抱いていたに違いありません。アイヌは和人入植者にどのように対応したのでしょうか?
■アイヌの長老、10ヘクタール、馬2頭を所有
上幌内西区に居住していたアイヌの人、久木田作蔵について、当時隣りあわせに住んでいたという古老谷信一の話は次のとおりである。
私がまだ少年の頃、久木田は土地十町歩(約十ヘクタール)を所有し、馬二頭を飼育。主人は作蔵といった。長男は作太郎、二男は次郎、女の子も二人居て、妹の方はヨシ子と呼んでなかなかの美人だった。芽室へ嫁いでいったようだが若死したらしい。
何でも(久木田作蔵の家族が)上幌内に入地したのは大正四年頃と記憶しているが、よく芽室方面から同族の者が来て宿泊していた。狩猟者達の宿泊所であったのかもしれない。熊祭りも二度ほど記憶しているが、そのつど芽室から同族の者が集まって来た。
おばあちゃんは口に入墨をしており、おぢいちゃんは三人ほど妻をもっていたようだ。この人は芽室の「毛根系統」のものらしく、芽室方面の同族の出入りが多かった。死者もあったが、どこか遠くへはこんでいったようだ。住宅の東に下屋をつくり、ここに祭壇を設けて木を削った。弊そくを立ててあったことを思い出すが、昭和八年頃転居していった。
※アイヌの長老である久木田作蔵さんは、10ヘクタールの土地を持ち、当時は大変に貴重な馬も2頭飼っていたそうです。これだけの財産があれば給付地に移る必要もないでしょう。北海道開拓はアイヌの生活基盤を破壊し、アイヌを貧困のどん底に陥れたと教わりますが、久木田作蔵さんは標準的な和人入植者よりもずっと豊かでした。
■和人少年、アイヌのオショロコマ漁を手伝う
瓜幕市街の古老菊地政喜は、瓜幕・笹川方面のアイヌの人について次のように語った。
私は明治四十四年に笹川の東郷農場に父母ととも入植。小学校一年に入学した。その頃私の家では豆腐の製造販売をしており、西瓜藤方面まで売り歩いたものだが、瓜幕橋と、今の道道との中間あたりに、アイヌの人の通る小路があった。当時のアイヌの人の通路としては国道級のもので、アイヌの人達はこの道をとおって然別湖や然別峡方面に出かけ漁猟に親しんでいたようだ。この小路は今でもその跡を見ることができる。
私の家の隣にアイヌの人の、いわゆる「チセ」(家)が二軒あった。これらの家は漁猟に出かける同族者達の宿泊所になっており、一戸は夫婦者、一戸は独身の男世帯であった。
彼等は非常に温厚で疑うことをせず、栽理がたく、物物交換のときなど、獣や鳥の肉や毛皮、あるいは獣や鳥の肉、毛皮、あるいはロープなど、必ず多少にかかわらず約束の数よりも多く「オマケ」をしていったものだった。
オショロコマ採取の網引きにも顔まれて行ったことがあるが、賃金は現物(オシロロコマ)だった。一週間も泊りがけになってしまい、父親が心配して然別湖まで迎えに来たことがあった。
また彼等の鹿を捕る方法がおもしろい。ふた又のついている木の先端を削って尖らし、これを沢幅いっぱいに立て並べ、これに鹿を追い込むと、このふた又の矢来を飛び越えようとして、矢来の頂上にかかり、もがいているところを捕獲するという方法だった。
そもそも「鹿追」の語源はクテクウシといい、クテクウシとは矢来をめぐらしてこれに鹿を追いこんで捕かくするの意と伝えられてはいるが、具体的な説明はこれがはじめてであった。
※菊地政喜さんは、アイヌのオショロコマ漁を手伝ったばかりか、現物ではありますが、賃金まで貰っています。1週間も家を空けたそうですから、今ならば連日ニュース、ワイドショーで大騒ぎですが、家族同然の交友が伺えます。
明治末期から大正期の話の話ですが、ここに語られるアイヌに、侵略者とされる和人入植者に対する憎しみが感じられるでしょうか。また和人入植者に、アングロサクソンが新大陸で先住者に示したような著しい差別意識が感じられるでしょうか。

鹿追のアイヌコタン(出典②)
■アイヌのエモンコ、和人宅の上座に座る
政喜の家は、クテクウシ北十三線をまっすぐ西へ然別川を越えたところ、上幌内高台のすぐ麓にあたるところで、当時アイヌの人の住んでいたらしい状況を次のように語った。
本郷農場(笹川西区)一で小作農を営んでいた頃、畠の中から長さ三○センチほどの刀のようなものが出てきたが、これはアイヌの人の住居跡であろう、当時すでにアイヌの人達は、和人の数の数えかた(ヒトッ・フタッ・)で数えていた。また北十三線の然別川東側、元の伊藤米蔵さん宅の近くに動物の骨塚がのこされていたことを思い出す。
また上然別中央区に住む春日井準一(明治四十五年入殖、明治四十五年生れ)は少年の頃の思い出を次のように語った。
私の家の裏の然別川の東岸に一人の年とったアイヌの人が住んでいた。大正十年頃まで住んでいたが、老齢のため身の自由がきかなくなり、音更の息子に連れられて去ったが、鮭や鱒、兎や小鳥などを猟して生活していたようだ。
奥地へ狩猟にいく同族の者の宿舎にもなっていたが、白い豊かなひげをもった貫禄のある老人だった。兎は針金のワナで、鮭や鱒は川の流れの上に屋根をつくり、床板を差し出し、この床の上に一日中坐り込んで魚の上ってくるのを待ち、「ヤス」で突いてとっていた。
「テン」を捕るには「テンオトシ」をかけた。犬は、家の裏の一段高いところに飼っており、鮭や鱒の頭は干物にして保存していたが、通いアイヌの人が去ったあとでは見られなくなっていた、おそらく犬の餌にして持っていったのであろう。
この老人の名はエモンコといった。ある年和人の流送した丸太でエモンコの領域を荒らされ、流送人夫と論争になったことがある。結果はどうなったかわからない。
エモンコの家は木の皮で葺いた立派なもので、炉かぎやシャクシなどには見事な彫りものが施されていた。気嫌のよい日には昔の戦争の話をよく聞かしてくれた。
私の家へはいつも物々交換に来た。魚を持って来て塩や砂糖と交換するのである。ここで不思議なことにエモンコはいつも坐るところを自分で決めるのである。つまり正面の一番上座に坐るのだ。おそらく酋長の位をもっていたのかもしれない。
エモンコの話によると、塩や砂糖を食べるようになってから秋冬の水が手足に冷たく感ずるようになったという。
エモンコの勢力施囲は、ペンケビバウシ川とバンケビバウシ川および基川の三川を「この川は俺の川だ」といっていた。
数は一から十までをトン、タン、デンガラ、モッケ、ター、ゾラ、エッケ、ヤッケ、ダカ、ショーといった。位置は上然別西十線二十号然別川東岸であった。
※明治四五年に入植した春日井家にはアイヌのエモンコがよく訪ねてきたそうです。この話で面白いのは、エモンコが必ず上座に座ったというところでしょう。初期の入植者は北海道という苛酷な環境で生きる術をアイヌに教わりました。この話には、そうした指導者であるアイヌと指導を受けている和人入植者との関係がよく示されています。
【引用出典】
『鹿追町史』1977・鹿追町・45-56p
【写真出典】
①『鹿追町史』1977・鹿追町・50p
①『鹿追町史』1977・鹿追町・47p