北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【馬追原野 第0回 プロローグ】

北海道開拓ドリームの体現者──辻村直四郎

 
 

辻村直四郎

 

■北海道狂──いてもたっても北海道

『馬追原野』の主人公・秋月軍平のモデルは作者辻村もと子の父、辻村直四郎です。明治中盤から大正・昭和初期にかけて、全国から大志を抱いた多くの若者が北海道に渡りますが、みな夢を見たのは第2の辻村直四郎になることではなかったでしょうか。
 
直四郎は、岩見沢市志文の〝草分けの人〟であり、アメリカンドリームならぬ北海道開拓ドリームの体現者でした。若林功著『北海道開拓秘録』(1949・月寒学院)を元に辻村直四郎の生涯、人となりを紹介しましょう。
 
直四郎は、明治2(1869)年、神奈川県足柄上郡吉田島村の自作農、辻村定次郎の4男に生まれました。13歳の時に父が亡くなり、15歳で長男が亡くなる中で、20歳まで次男とともに農業に従事しました。
 
向学心が強く、中学校に行くことが叶わないかわりに村の漢学者が開く夜学に通い漢籍を学びました。こうした直四郎の姿を見た親戚が学費の援助を行い、東京農林学校(現在の東京大学農学部の前身)予備校に入学。学友を通じて北海道への関心を高めます。
 
当時は政治熱が下火になり、実業尊重論が台頭しつつあった。その後学友で札幌に行く者もあって、北海道の事情がだんだん判り、北海道の開拓は日本の最も喫緊事業であることを確信したので渡道を決意した。[1]
 
直四郎の生まれた村は、二宮尊徳が生まれた村の隣で、直四郎は早くから二宮尊徳を尊敬していました。直四郎の北海道へのあこがれは、すぐれた手腕で寒村を蘇らせた尊徳の影響もあったようです。
 
それよりは北海道狂となり、新聞を見るも北海道記事を発見することを目的とし、紙面に現れた北という文字がいかに小さくても発見された程だった。[2]
 

■直四郎、岩見沢志文に入植

明治24(1891)年、直四郎は大志を遂げるため22歳で北海道に渡ります。入植者が開墾を始めようとすれば、道庁から植民区画の借り受けを受けなければなりませんが、直四郎が何度申請しても後ろ盾のない22歳の青年を道庁は相手にしませんでした。
 
そんなとき、直四郎を可愛がっていた亀谷卯之助が馬追原野(長沼町)に貸下げを受けます。身体が弱い亀谷は、直四郎に代わりに開墾作業してくれるよう頼むのです。直四郎は1年間、原生林と戦いました。
 
もっとも困難な作業の続く1年目を終えると、亀谷は岩見沢に植民区画の売りものがあるので、どうかと直四郎にすすめます。植民区画は道庁=国のもので5年間の貸下げ期間に開墾を終え、成功検査に合格してはじめて自分の土地となります。それまで売買や又貸しは堅く禁じられていました。
 
これは道庁某役人が他人名義で取って置いたものだったことが判り、先に道庁にお百度を踏んだことを思い合わせて憤慨に堪えなかったが、他に策がないので兜を脱いで盗泉の水を飲むことを決意した。[3]
 
こうして明治25(1892)年5月28日、直四郎は岩見沢志文に入植します。
 

■修分別川から「志文」を名付ける

「志文」は岩見沢と栗沢の間に広がる豊かな農業地帯ですが、名付け親は辻村直四郎でした。
 
私の入地以前からこの地方にこれという地名がないので、私は手紙を出すと時、自分の肩書きを岩見澤村幌向川端としておいたところが、私に来る手紙が幌向駅の方へ回ったり、初めて私の所へ来る人が幌向駅でまごついたりすることが度々あった。
 
不便が多いので、戸長に地名を付けるよう願ったところ「それは貴下が付けたらよかろう。ただし在来のアイヌ語の名前があればそれを失はないようにしたい」といった。
 
この付近の小川の名を修分別川と言っていたのを思い出したが、修分では不便が多いと考え、「別」を削除し、「修分」というと書きやすくまた字義も意味のあるようにとの点から「志文」とすることにした。戸長も賛成して決定し、北海道庁もこれを用いる様になり大に喜んだ。
 
すこし横道に入りますが、この頃、もともとあったアイヌ語の地名を大切にするように北海道が配慮していたことを伺わせるエピソードです。北海道開拓が先住民の文化を尊重するしたものであることが伺えます。
 

直四郎入植当時の家屋(出典①)

 

■直四郎、学校を建てる

直四郎は130町歩という面積を親戚から資金を借りて手に入れました。その後は、再び馬追原野での苦労を繰り返すわけですが、直四郎はどこかその苦労を楽しんでいたようです。
 
早速開墾に着手し、草原地の鋤起にかかった。はじめは人も馬も不慣でうまく行かなかったが、慣れるにつれ、幅八、九寸、深さ五、六寸ずつ草根を切断して起こし、表土を二頭曳きで一日三反歩の工程を示すやうになり、愉快極りなかった。[4]
 
明治27(1894)年に、郷里から弟の高蔵が入り兄を手伝います。この年から小作人を入れ、農場としての体裁が整い始めます。
 
明治二十七年の春から私は無資本の移住者を小作人として収容し、一反步の起こし料初め二円五十銭、後二円と鍬下年期三年を与えて樹林地の開墾に着手したが、この頃からこの方面は戸口俄に増殖し、粗末な草小屋などれど、活気に満ちた村落を形成するにいたった。[5]
 
そうすると最初に手を付けるのが学校づくりです。直四郎は現在の岩見沢市立志文小学校の原型を建てます。
 
そこで私は移住者の子弟教育の必要を思い、二、三の人と相談して、二、三〇戸の人々より応分の資金と労力を集めて粗末ないわゆるバラック式の十五坪あまりの校舎をある場所に造ったが、立派な先生をもらうことはできないから、移住者で岩見沢の明了寺の門徒である二、三の人から頼んでもらって明了寺住職藤波道船師に一人の僧侶を先生として派遣してもらい、教場の一方に仏壇を設けて純然たる寺小屋式の学校ができた。[5]
 
明治28(1895)年に幌向村ができ、明治30(1897)年に栗沢村が分村、32年には岩見沢村に自治制が引かれました。この頃になると辻村の志文開拓はおおかた終了します。
 

■直四郎 アメリカに渡る

普通、辻村直四郎のような草分けの人は地域の開拓功労者として新村の行政の中心として活躍する道に入りますが、直四郎は違いました。
 
日本の真相を本当に見詰めたいために、それは地球の円いのは地球を離れて見ねば判らぬと同様だ[6]
 
といって明治32(1899)年、農園を弟の高蔵に任せ、アメリカに単身わたるのです。
 
日本を離れて明治三十二年に米国に行ってカリフォルニア州サリナス、キャストロビル地方で甜菜その他請負耕作、日雇労働に従事して農業を覗察研究し三十七年に帰朝した。[6]
 

カリフォルニア時代の直四郎(右端)(出典②)

 

■直四郎 キリスト教に改宗

5年に渡るアメリカ生活を終え、明治37(1904)年、さまざまな洋式農機具を船に積み込み、直四郎は志文に戻ってきました。しかし、この体験は直四郎の性格を大きく変えたようです。
 
そして米国に数へられたものは、文化的生活を享楽するには、その費用を産み出す丈の努力をせねばならぬ。惰農はついに文化生活を営み得ぬ。
 
米国農夫の労働は能率的で、畑の除草でも始めると終るまで隣りどうし話もせず、煙草も吸はず、専念に働く。これに反し日本の農夫は畑へ来るとホーを体を寄せかけて、まず大あくびをひとつやって煙草一服。仕事にかかると間もなく雑談が始まる。遊んでるのか、働いてるのか判らぬ。
 
これを米国風に改むれば全国農家五千万人とすれば、一日で一時間の差としても五千万時間、一年の総働日数二百日とすれば五十億時間で、一日を十時間とすれば五億日となる。[7]
 
人種差別が激しい19世紀後半のアメリカの農園で農夫として働いたことで、厳しい差別も経験したのではないでしょうか。直四郎は精神修養のために能登の善寺、總持寺で修行生活をしたり、それでも満たされずにキリスト教に帰依したりします。
 

■もと子の母、梅路と結婚する

直四郎は、帰国直後に故郷小田原で女学校教師をしていた堀内梅路と結婚します。直四郎34歳、梅路22歳。翌年、長女として生まれたのが辻村元子でした。
 

3歳の辻村もと子(出典③)

帰国後の直四郎は、この言葉に示すように大変厳しい態度で農場経営に当たりますが、梅路は「生来の明朗で天真爛漫な、そして垢抜けた交際術と温情主義とで小作人の人気を一心に集め」ました。農場は常に和気あいあいたるものがある。実に内助の功が多い」と『北海道開拓秘録』は評しています。
 
厳しい姿勢で農場経営に当たる直四郎とフォローする妻梅路の両輪で辻村農場はますます発展していきました。
 

■巨万の富を擁する素封家に

岩見沢市志文の開祖として、また成功した大農場主として、直四郎はこの地方の政治経済の重鎮として活躍しました。その功績は多方面から賞賛されました。
 

空知外三郡農会長時代の直四郎
(出典④)

社会もその功労を認めて大正十三年に陸軍大臣から軍用燕麦の功労者として銀盃を授けられ、昭和5(1930)年に大日本農会より農村施設経営農事改良の功績により表彰され、昭和7(1932)年に軍事功労賞を陸軍大臣より授けられ、同11年、特別大演習の際農事功労者として単独拝謁仰付けられ、昭和12(1937)年に北海道長官より開拓功労者として恩賜開拓奨励金による銀盃を授けられた。
 
その後多数の表彰を賜った。すなわち君は実に自己の事業に努力したばかりではなく農会、土功組合、産業組合、町会等国家、郷土の為に奉仕したことは枚挙の暇がない。[9]
 
小田原の農家の四男として生まれた直四郎は、北海道で大農家になる夢を抱いて入植し、その夢を完全なかたちで実現したのです。最後に『北海道開拓秘録』は、農園主として大成し富豪と言われるようになっても、開拓時代の自分を終生忘れなかった直四郎の姿を伝えています。
 
彼は実に北海道の開拓者で志文の開祖、志文の殿様で、今は記念に残した原生樹社の内に堂々たる住宅を構え、巨万の富を擁する素封家である。
 
しかし、身を持するにはあくまで倹で、蓄膿症に悩む彼は鼻汁を拭った古新聞を炉端やストーブの傍らに干す常法も、琴琶相和する夫婦で名所旧跡を遍歴するにも赤切符であることも、また弁当が常に握り飯であることも、みな友人間に著しい桂話である。[10]
 
辻村直四郎は、昭和16(1941)年4月2日に72歳で生涯を閉じました。
父の死を契機に長女辻村もと子は『馬追原野』を書き始めます。次回より本編をお楽しみください。
 
 


【引用出典】
[1]若林功『北海道開拓秘録 第1編』1949・月寒学院・170p
[2]若林功『北海道開拓秘録 第1編』1949・月寒学院・171p
[3]若林功『北海道開拓秘録 第1編』1949・月寒学院・172p
[4]若林功『北海道開拓秘録 第1編』1949・月寒学院・173p
[5]若林功『北海道開拓秘録 第1編』1949・月寒学院・179p
[6]若林功『北海道開拓秘録 第1編』1949・月寒学院・187p
[7]若林功『北海道開拓秘録 第1編』1949・月寒学院・187-188p
[8]若林功『北海道開拓秘録 第1編』1949・月寒学院・188p
[9]若林功『北海道開拓秘録 第1編』1949・月寒学院・189p
[10]若林功『北海道開拓秘録 第1編』1949・月寒学院・190p
 
【写真出典】
①加藤愛夫『辻村直四郎─人と文学─』1979・いわみざわ文学叢書刊行会・15p
②加藤愛夫『辻村直四郎─人と文学─』1979・いわみざわ文学叢書刊行会・28p
③加藤愛夫『辻村直四郎─人と文学─』1979・いわみざわ文学叢書刊行会・21p
④加藤愛夫『辻村直四郎─人と文学─』1979・いわみざわ文学叢書刊行会・41p

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