当別原野に伊逹の名を刻む
仙台藩岩出山支藩の藩主伊達邦夷(史実では邦直)は、戊辰戦争で負った逆賊の汚名を雪ごうと、当時、明治日本の最優先課題であった北海道開拓に名乗りを上げました。後送の荷物が行方不明になる。与えられた土地が不毛の地であった———などさまざまな難題がありましたが、家老の阿賀妻謙(史実では吾妻謙)を中心に団結し、苦節の末、現在の当別の地が開拓地として与えられました。
邦夷主従が拠点とした厚田村聚富(しっぷ)と当別までは、今では車で30分ほどの距離ですが、当時は、昼なお暗い大原生林。拠点までの道をつくらなければ開拓は始まりません。
当別原野への仮道の工事は史実では、明治4年7月20日に工事を始めて8月1日に竣工しています。『当別町史』(S47)には次のように記されています。
石狩普請工事は毎日、着実に進捗していた。6月22日、人数を分けて当別道の測量に従事した。その先頭に吾妻、横尾、安陪、湯山らの面々がいた。「測量係は火煙を揚げて方位を定め、其路線を実測し」(村史28頁)幅6尺(約1.8米)内外に伐開して進んだ。
そして7月3日、その作業を終えてシップに帰着した。つづいて7月20日、石狩普請の竣功をみたので、この日より17才以上の男女総人数が道路開さく工事に従事した。石狩物揚場を工事起点にして、23日高岡に26日シリアツカリ沢に、29日材木沢に仮宿しながら進んだ。
当時の事情を記録から拾えば「此年七月先ず石狩より当別に至るの小径を開かんことを議す。一同誓って曰く、路若し成らざれば山沢に露宿する幾日なるも敢へて帰らずと」。
そうして測量係、小屋係、道路係、炊事係、運搬係といったように各自分担を励んで工事に従事し、「着手以来十有一日にして行程五里七町余の小径を開き、ついに当別に達することを得たり、邦直氏これを喜び全線の視察をなし、其終点たる阿蘇神社附近、水松樹の元に至り一同と祝宴を催し、其の開通を祝したるは明治四年八月朔日なり。今其路線を按ずるに厚田郡聚富より知津狩沢に入り、地蔵沢より高岡分水嶺を越えて材木沢に入り、更に同沢を下り山麓に沿うて門次の沢に至り、西小川に出て該地に至りしなり」とある。
しかし、この道路を開通させたとはいえ、石狩まで遠距離にあり、猛獣に襲われる危険を防ぐため、高岡の沿道に人家を配置するよう計画してほしいと、8月10日に届書を提出した『当別町史』S47・78-79p
誰のためかくも労苦に立ち向うのだ。誰のためでもない、すべては自分自身のためだ、——と、そう云うならそれも間違っている。自分だけのためならば、今になっても、取るべき手段は幾らでもあった。思うにこれは、父祖代々の恩義を彼が代って主君に報じているのだろう。
だが、大義を取るべきが彼らの面目であるならば、土かつぎの疲労のみが報恩の方法とはうけがわれない。あれこれの特定な人間や事象を対置するだけではちぐはぐな気持であった。つまりそのときは、慾も得も無くなっていたのだ。おのれが無になっていた。何か無限なもののなかにかぽッと篏(はま)り、または、おのれのなかにその無限なものが隙間なくおさまっていたのだ。
道路係りの一隊はものを云うこともやめてしまった。幾人かは鍬をふるって、笹の刈り株を削り取ることに専念していた。他の幾人かはモッコをかついでいた。木の根や草株の取りのけなど比較的軽いものは天秤に、泥運びは中荷を両端で担いあげていた。雨水を除く溝も平行して掘り進められているのだ。盛り土は胴搗(どうづ)きの連中によって、ヨッショ、ヨッショと固められていた。
今のところこれは、どこまで続くか判らない距離を、それをどこまででも追いつめて行こうとしているのであった。生きて、呼吸の根のつづいている間、溝を掘り、モッコを担ぎ、胴搗きをくり返して悔いない静かな澄みきった表情になっていた。
隊長の関重之進は鉢巻きをねじあげて、汗に洗われたその赭ら顔が、鍬をふりあげるごとにぎらぎら輝いていた。六尺幅のところ横に散らばって、一鍬々々、踏みにじるように進んでいる彼らの身体は、流れるような汗に濡れ、照りつける陽にむんむんとむれていた。臭気をかぎつけた虻が頭上を舞っていた。そのうまそうな餌食は絶えず動いて、虻は吸いつくことが出来ずに、やかましく羽ばたきしていた。
午食を運んだ帰りの運搬係りが通りかかった。
「ご苦労さま」
「おッ?——」と関重之進は顔をあげた。
「どういう具合じゃな?」
先になったあちらの方は捗っているであろうかと訊ねるのである。
「シラッカリの沢には第一の小屋が出来かけています。今晩はあそこまでの予定らしく、小屋が出来れば下から路ならしをして来ますそうで——もっとも、測量係りだけは前に進みました」
「それで?——」と重之進は若いものを見つめて、「そなたは戻られるか?」
「次の用が控えていますので」
「では、な」
彼は脇差をぬき取った。肩脱ぎのうす衣に肩を一度は入れて、そしてするすると帯を解きほごした。武士のいでたちを脱ぎ捨てるのである。シャツと腿引きだけの姿になった。脱いだ衣類に脇差を挾んだ。ぬッと突きつけて彼は云った。
「しばらく拙者は人足でござる、さればこの品々、身どもが妻女のもとまで届けておいて下さらぬか」
「はあ?」
「よいよい、これで身軽になりました、どうじゃ?」
そう問いかけられたものは、骨と皮の老体に目をつぶった。
「これで二倍に働けようぞ」
彼は掌に唾して鍬をふりかぶった。
下帯ひとつになったモッコかつぎが威勢よく往来した。
沢で燃す目あての煙はもくもくと立ちあがった。笹の根のはじける音や葉の焼ける音や、何ものか動いているものの立てる賑かな気配も伝わって来た。焔の勢いに巻きあげられた笹の葉の燃え殻が天から降って来た。焼けてもくずれず、葉脈のあとを白いすじにして、黒い葉形をそのままに、枯葉のように落ちて来た。
屯所の小屋はテントがわりに、文字通り一夜の露を凌げば足りた。鍬や鋸やホソなどを外気にさらさせないためのものであった。そのそこに当座の糧食を運び入れて、難所と過労に疲れはてた彼らに、何はともあれ食事を供する場所でもあった。
山はひる過ぎから、きまって風に揉まれるのであった。それは、西北の海からおしよせて来て、広大な平原を限りも無く吹き抜けて行く。近くの樹々はごうごうとゆすぶれた。彼方の峰はうおンうおンとうなりつづけた。
やがて、日足のはやい秋の日暮れは、低いところから、樹林のなかや山峡やから、湧いて来た。草や木や、彼ら人間にとって持て余す邪まものを、豪奢に、全力をもって焚くのだが、燃えあがるその焔さえ、際涯のない夜のなかでは気の毒なほど沈んでいた。ふくろうが間近かでほウほウと、この火を嗤っているような鳴き声を立てた。
翌日は左に曲った。流れを溯って、方角は寅と卯の境あたりに取った。その先にある某地点、この谷川の水が丑寅の方向に転ずるところ、そこが第二の屯営であろう。ひそかに大野順平は自分の胸にそう期していた。即ち、そこに立ちどまって右手を望めば、北は高く、南はややなだらかに、二つの尾根の出会う凹みが発見出来ることになっていた。さきの日帰りの途を戍亥にとって、彼の記憶に彫っておいた山の容貌である。そこが堺であった。地の勢いはあちらとこちらに区分され、その分水嶺を超えたらもうこちらのものである。磁石の虫は掌でぶるぶる顫(ふる)えていた。
「辰巳でしたな」と大野は云った。
「さよう——辰巳」と戸田老人があえぐように答えた。
彼もまた丁度そのときそのことを考えていたにちがいない。考えることも深かった上に突兀(とっこつ)した谿谷は相当な登りにかかっていた。おいおいと肩の荷が骨にこたえて来た。
六十間ごとに付ける目印しは、こう屈曲の多い渓流では無理であった。見通しも不可能であった。曲る角々の木を伐り倒し、崖をけずって新しい土を掘り返すのが精一ぱいであった。すると道路係りは、いよいよ手間取る難所に導かれていることになる———それも止むを得ないのだ。路は組みあげたり夷げたりしなければならないだろう。測量係りが水を蹴立てて、その岸この崖と歩いたところは、桁を渡して橋を架けねばならぬ場所でもあろう。
そういう作業をつづけ、一つ一つ片づけてから彼らは進んだ。長い時間を歩いたのだ。途中で一ぺん握り飯をかじって谷川の水を掬って飲んだ。富内、大滝、千葉、早坂、それに若い高倉が混っていた。彼らは一切を隊長にまかせて自分を虚にしていた。
大野の心と彼らの気持は同じであった。少くとも彼のあとに従ってそれと行動を共にしているうちに、隊長大野の考えは自分の動作にひとりでに現われて来る。考えたことをのろのろと口に出すときには、部下は仕事にかかっている。だから彼は一層無口にならざるを得ないのかも知れない。
行くとこまで行かねば停らぬのであろう——大人たちは漠然とそれを知っていた。そして矛盾なくそう覚悟していた。
「くたびれたと見えるな」と誰かが云った。
その声が渓谷にばりばりと谺した。或いは彼らの耳にがんがんと響くのであった。それほど人間の声を聞かなかったのだ。隊長の目的に向ってひたむきに率いられていた。
それを云われた高倉祐吉は赤くなって外ッぽを向いた。すると大野順平は気がついて立ちどまった。彼はふりかえってその重い口をきいた。
「運搬係りをわずらわすも気の毒なこと故、おぬしにわれらの弁当運びを頼もうか。これから炊事係りのところに出向いて貰えば時刻も丁度になりましょう」
「うん——」と、さきほどの、それを云いだした声がうなずいた。
「それがよい」
そう云った男の口調には隊長大野の気持が沁みわたっていた。
「それがよい」「それがよい——」と谺のように他の声が応じていた。年歯も行かないものに大人の労苦は重すぎると思うのだ。自分が背負わされる分には、重ければ重いほど力んでも見せよう。しかし、この苦しみは、憎しみないものには近よって貰いたくなかった。まして家中の若ものであった。彼らがこの艱難のとき大人であったというのは、これは天の与えた宿命とあきらめる。けれども彼らのあとに来る少年や幼童については、自分らの労苦の上に立って貰って、とにかく平担な道を安楽に歩かせたいと冀うのだ。
小屋係りは、先導の測量隊が印した標木の前で足を停めた。立木を削って、木目に墨をにじませて書いてあった。
「此ノ所、シラッカリ沢入口ヲ距ル一里」
彼らはそのあたりの崖を平にして第二の草盧を営んだ。
高倉祐吉は、草の香のむんむんするその出来たての小屋のなかで、測量隊の帰りを待っていた。ほとんど一晩中、まんじりともしないであらゆる物音に耳をすましていた。しかし遂に彼らは帰って来なかった。しんしんと冷えて来た夜半の巒気のなかで、勢いのおとろえた焚火を見つめながら、彼は何ということなしに、泣きたくなった。かなしいことが次々に思いだされた。彼の悲劇はあたらしかった。
自害した父親の心境が判るような気がした。そこまで思い到ると彼にはもう怖しいものは何も無かった。血に染ってのたうっていた父親の呻きが哀しみになって切なく胸もとにこみあげるのだ。だらだらとなま温く涙が流れて来た。
彼のうるんだ視野に何か動くものがはいって来た。焚火を掻き立てて、その焔に照しだされた峡谷の闇をぼんやり眺めていた。待っている彼らでは無かった。彼らの代りに音も無く、その火の前を黄ばんだものが横ぎって行った。房々とした尻尾がひどくゆたかな穂のようにぴんと立って、それがついと闇に消えた。野の狐がまよいだしていたのであろう。
彼は銃を取ろうとした。すると、傍らにごろ寝していた小屋係りの一人がぎりぎりと歯を軋らせた。帛をさくような険しい音が闇を貫いた。高倉祐吉は片膝ついた中途はんぱな恰好で歯ぎしりする男をのぞき込んだ。表情のない仮面のような顔であった。歯と歯の間からとび出す凄惨な音を聞きながら、「金作——」と彼は口のなかで云った。
想像のなかで弟を呼んでみたのである。稚い金作は読みかけの「外史」から上気した瞳をあげた。「こっちに来なさい」と彼は呼びつけた、「今の世の読み方を身共が教えて進ぜよう、父上やこの兄や、もったいなくもわが殿が考えておられるお心の底を、その外史の筆法で云うならば——」
そこまで考えた彼はぶるッと身ぶるいを感じた。考えたことの恐しさであり、同時に深夜の夜気の冷たさでもあった。彼は急いで焚火をかき立てた。そして彼は眼をみはった。ここには、まごう方ない現実があったのだ。一きわ伸びあがった炎のあかるみに、ぽかりと生きものの顔を見いだした。見境もなく逆上した女のような顔であった。
釣りあがった妖しげな眼を据えて———それは先程の野狐であったかも知れない———首をねじ向けてこちらを見ながらとっくりと坐っていたのだ。ものを云えば奇怪な返事をしそうに、取り澄した顔が闇に浮いていた。紺青の夜空を、天の川が白くにじんで二つに画っていた。
翌朝彼らは、東南にあたる尾根の凹みに煙のあがるのを見た。身肌のひき緊る夜明けの静かな凪ぎのなかであった。その煙は青々と末ひろがりに天にのぼって薄れて行った。そのまた彼方の地平線には、のしあがって来る大きな太陽が、白っぽい煙のふちを金色に彩った。
測量隊はその夜のうちに、目ざす峠を征服していたのである。
道路係りは岨路にかかっていた。葉末にかかった尺取り虫のようにうろうろした。測量係りが刻した印しを目あてにして山を削り谷を埋めて来た。そうは云うものの、原野に路をひらく普請は、彼らが一またぎで跳び越えたほど簡単には進まないのだ。しかしとにかく、一つのコースをならしてしまって、さて次のコースを取るために、彼らは首をもたげてきょろきょろと、まったく、尺取り虫のように、次の鍬をおろすところを探さなければならない。けれども部隊の力は充実していた。
無事落成をつげた税庫係りの連中が援隊にはいって来た。一つの仕事を成就した彼らは鼻いきあらく進んで行った。運搬連絡の係りはお館の状勢を伝えて来た。阿賀妻は再びオダルに立ち向った———と。間もなく彼らのお館は、米の俵で足の踏みばも無くなるであろう———と。
先が見えて来たというべきであろう。目ざすトウベツの地まで———そのあこがれのオンコ樹の根もとまで、彼らの測量隊はとうとう、しゃにむに行ってしまった。そこから引きかえして来た連絡係りは、これを告げるだけで充分、昂ふんすることが出来た。彼は叫んで歩いた。屯所になっている小屋々々は云うまでもなく、人の姿さえ見えると叫ばずにはいられなかった。
「おーい、着いたぞオ、決ったぞオ、この路の実測五里と七町、五里と七町——」
うん?——と人々は顔をあげた。漠然とした空の一角をにらみながら考えた。その道程は、あそこからあそこまでと頭に描くことが出来た。仕事に丹念な大野順平が繩をあてて測ったであろう五里と七町とに、間違はないであろう。それ程の距離に旬日を費している彼らの労役の遅さに焦立つのだ。焦立つと同時に、刻々に接近することにはきおい立つものもあったのだ。高い土は削り取り、低い場所は盛りあげられ、両側には排水の溝を備えて日毎に延びて行った。
工を起して十三日目。平地にはいったこの開鑿路は、盛り土の最後のモッコを、遂にぶっつけた———終点の、ひろげた傘のようなオンコ樹の根もとに。傍らには、「旧仙台藩伊達邦夷貸付地」と書いた標木が、草の海に浮んでいた。取りあえず四辺の草は刈り取られた。先ず、目路をさまたげる立木も伐り倒した。期せずして彼らは待った。待っていた。
「ご家老どのは見えられんじゃろうか」それを云ったのは大野順平であった。
「あやにく——」と傍らで答えた。
相田清祐であった。口をすぼめて、滾れでる微笑をおし殺して彼は云うのだ。
「さすがの阿賀妻どのも、おん身らの努力のほどは計算出来ざったと見えてのう、惜しいことに、今日はまたしても兵粮の買いだしに出向いておる」
「それもお役目」と大野は短かく云った。
彼にしてみれば、その阿賀妻がこの場にい合せてくれることは無論嬉しいのだが、その気持の底では「殿——」の邦夷を待っていた。路は遂に穿たれた。この身うちの感激がこのままに消えるのが物足りなかった。
「これでございますが」と彼は標木の一面を指さした。先ごろの踏査に、今日のために、故意に書き残しておいたものであった。
「ご祐筆がおられるのはもっけの倖い、一筆書き入れて頂きましょうか?」
「何を?」
「われらがこの地のあるじとなった抑々の日の日附け」
相田清祐は白い眉毛をびくり動かして、そして断ずる口調で云った。
「それは貴殿が書かねばならぬ——さア」
矢立をひらいて筆とともにつきつけた。
大野順平は黙礼してそれを受け取った。筆の穂を墨つぼにたっぷりひたして、幾らか毳ばだった標木の前に突き膝をした。淋漓たる思いをこめて彼は書いたのだ。
「明治四辛未歳五月二十八日建之」
空には秋の風が鳴っていた。その日は陰暦の八月一日であった。彼らの先導者がこの土地を得た五月の日から、野山をきりひらいてこの土地に辿りつくまで、いかに険阻未踏とは云え、里程にすれば五里と七町を歩くのにざッと三カ月を費していた。これは、郷里サブザワの港を立って西蝦夷のシップに着いた日数よりももっと長かったのだ。痩せた土地に絶望した、その絶望の延長にあった。いかにも遠かった。いかにも重かった、それにも拘らず彼らは来てしまった。すると新たな希望がむくむくと湧いた。
「連絡係りのものは居らんか」
その隊長である相田清祐は赭ら顔をかがやかして叫んだ。声に応じて身近かに駈けよるものがあった。
「はッ!」
「このこと、直ぐに、その、何だ」と彼はどもるのだ。
「はい、はい」
「わ、わからんか、殿へ、とのへ——」
注進しろ——と、そう云われるまでもなく彼は走りだした。彼らの仲間によって築かれたま新しい路の上を——草鞋のあしうらにぽこぽこと感ずるまだ軟かい盛土の上を——その男は足ばやに立ち去った。