日共の影響下に落ちた教師たち 10・21ストライキを決行する
昭和37(1962)年、米ソ対立が核戦争直前まで発展したキューバ危機の前年にソ連が核実験再開を宣言すると日教組は社会党総評系と共産党系に分裂。非主流派に転じた日本共産党は教育現場での影響力を確保すべく道歴教協の乗っ取りを画策します。そして教師たちを歴史的な10・21ストライキへと駆り立てるのです。
■マルクス主義学者・浜林正夫の登場
昭和35(1960)年1月、第7回道歴教協全員総会で、執行部が新たな活動方針として突如マルクス主義・唯物史観を意味する「生産と労働の科学的認識」を持ち出すと、多くの会員に戸惑いが広がりました。
転機となったのは昭和40(1965)年7月、江別で開かれた第10回集会でした。基調講演に京都大学教授で歴史学者・井上清が登壇、「現代の課題と歴史教育」と題して講演を行いました。
井上清は『日本帝国主義の形成』(1968・岩波書店)『部落の歴史と解放理論』(1969・田畑書店)などの著作があり、岩波書店の『日本の歴史』の編集に関わった当代随一の歴史学者です。このような歴史学界の大物が一地方の歴史教師の集まりに突然現れるところに背後の大きな存在を感じさせます。
この第10回集会では、当時の小樽商科大学教授、後の一橋大学名誉教授、浜林正夫が登壇し、これから道歴教協が目指すべき「学習内容の科学化の具体的方策」として次の提案をしました。
子どもの政治や社会の矛盾に対する疑問の芽を大事にしなくてはならないし、その基礎は、子どもの生活における権利意識の自覚、憲法感覚の育成が前提となる。
同時に、社会発展の法則(ブルジョアジーから人民民主主義への発展)の必然性が国民主権や普通選挙の欺瞞性、つまりブルジョアジーの階級独裁と人民の抵抗とたたかいを教える中で明らかにされるべきである(中略)。
体制認識の前提として社会の矛盾を意識し、ふかめようとする姿勢と、生産労働こそがあらゆる社会を支えるものであるとする働く者の立場に立つことが必要で、資本主義のしくみをとらえる基本概念として、商品・賃労働・価値・貨幣・資本・利潤・恐慌・独占・帝国主義が挙げられた。[1]
ここで浜林は、マルクス主義・唯物史観から一歩も二歩も進んで共産主義思想そのものを子どもたちに教えるよう教師たちに求めるのです。
浜林正夫は大正14(1925)年に小樽に生まれ、東京商大(現一橋大学)を卒業した後、小樽に戻り、小樽商大の教員を務めていました。昭和42(1967)年から東京教育大学に移り、昭和53(1978)年には一橋大学の教授となっています。『現代と史的唯物論』(1984・大月書店)『物語労働者階級の誕生』(2007・学習の友社)『カール・マルクス-人間的開放をめざして』(2010・学習の友社)などの著書を持ち、全国革新懇代表世話人を務めた代表的な共産党系歴史学者です。
この浜林は、昭和37(1962)年7月の「第7回会員総学習会」に「現実を解釈するのではなく、現実を変革するのが社会科学」であるという提起を行うことで、道歴教協にはじめて姿を表し、すぐに道歴教協副会長に納まりました。
道歴教協は小中高教師の活動で、大学研究者・教員も加入していましたが、活動は側面的なものであることが通例でした。大学教員の立場で活動の中心に立ったこの時の浜林の活動は異様なものでした。
■階級、民族、国家、体制、革命
浜林正夫による〝上〟からの思想統制がはじまると、札幌の高校教師が呼応しました。
札幌の高校グループから、社会科の基礎的概念として「階級、民族、国家、体制(のちに革命が加えられる)」を一応おさえ、これを小・中・高の子どもの認識の発達の順次性にそってどう育てうるか検討してみようという「試案」が出された。[2]
ここまで来ると学校を共産主義者の養成所にするかのような勢いです。
この高校グループを率いたのが札幌東高校の井上司であったと思われます。井上は昭和42(1967)年に浜林が東京に転出すると、入れ代わるように道歴教協の副会長に選出、後に会長となりました。山下国幸と共同で『はたらくものの北海道百年史』を執筆、道歴教協の最重要人物として後に詳しく見ていきます。
昭和37(1962)年は、核戦争の寸前まで行ったキューバ危機の起こった年で、米ソ対立の激化をうけ前年の8月30日にソ連が核実験を再開すると、「いかなる国の核実験にも反対」という社会党・総評系と「帝国主義の核政策と社会主義国のそれを同一視すべきではない」とする共産党系で原水禁運動が分裂した年です。
原水爆禁止運動に始まった両者の対立は労働戦線全般に及びました。日教組・北教組においても、社会党系の主流派と共産党系の非主流派の対立が深まりました。おそらく昭和37(1962)年の浜林の登場は、こうした社共対立の激化を背景に、道歴教協を自陣勢力下に置こうとする日本共産党の政略であったと思われます。
こうして道歴教協は、浜林正夫を通して昭和40(1965)年の第10回大会を節目に日本共産党の強い影響下にある団体となっていくのです。
■活動テーマ「愛国主義=国際主義の人間形成」
道歴教協にとって転換点となった昭和40(1965)年、7月の第12回全道研究集会で「愛国主義=国際主義の人間形成」という活動方針を採択しました。このテーマは昭和49(1974)年まで実に10年に渡って同会の活動方針となります。
愛国主義? この団体には不釣り合いな言葉です。『北海道歴史教室79号』に浜林正夫による「テーマ解説」が掲載されています。この時の浜林の肩書きは「テーマ仮説小委員会代表」であり、浜林自身が案出したテーマと推察されます。
「愛国主義=国際主義の人間形成」の「愛国」とは浜林によれば
『プロレタリア階級は、まずはじめに政治的支配を獲得し、国民的階級にまでのぼり、みずから国民とならなければならないのであるから決してブルジア階級の意味においてではないが、なおそれ自身国民的である』(マルクス)。労働者を中心とする勤労人民こそが国民であるといわなければならないということである[3]
すなわち、「国民」とはプロレタリア階級=労働者階級のことであり、愛国主義とは労働者階級を愛するということです。
また「国際主義」とは
国際主義はまた愛国主義と一つのものである。ほんとうに祖国を愛し、祖国の人民の生活と権利、平和と独立をもとめるたたかいを支持するものは、他国の人民の同じ目的のたたかいを心から支持し、連帯を表明するであろうし、事実、日中戦争の時の日本人民の反戦平和の闘いと、中国人民の闘いとが結合していったように、直接的にか、間接的にこのたたかいは結合している[4]
すなわち、「国際主義」とは労働者階級の国際連帯=社会主義インターナショナルを示したものでした。さらには〝社会主義諸国の核は別である〟という共産党のソ連核実験容認を下支えするものでもあったでしょう。
この時、ベトナム戦争が激しさを増し、世界的にベトナム反戦運動が大きな高まりを見せていました。浜林はそれをとらまえて次のように道歴教協の教師を煽り立てました。
「ベトナムに平和を」とたいていの人々は言う。しかし、ベトナムに戦争と虐殺をもたらしているのは誰であるのか、わたしちはこところをあいまいにしてはらなないのだ。教師自身がそのことろを明確にしないかぎり、子どもたちの中に、愛国主義も国際主義も育っていくはずがない。日本のおかれている現状も同様であって、教師自身が平和と独立をもとめるたたかいに参加し、主体的にとりくんでいるのかを、わたしたちはまず自分自身に問いかける必要がある[5]
教師自身がたたかいに参加──昭和41(1966)年10月21日、浜林の言葉の通りに教師たちは教室を出て実力行動に踏み切るのです。
■「10・21国際反戦デー」ストライキ
昭和41(1966)年6月、アメリカは、ハノイに対して無差別絨毯爆撃による北爆を開始し、世界的に強い批判を浴びます。9月20日、総評は敵対していた共産党とも連携し「10・21国際反戦デー」を設定し、アメリカ軍に協力していた日本政府に抗議するためゼネラル・ストライキを呼びかけました。

【10・21スト】警官隊とにらみあうピケ隊(出典①)
総評傘下の北教組もすぐに呼応し、9月に開かれた第49期北教組定期大会で10月21日に教職員の賃上げ要求と絡めて、半日の休暇をいっせいに取ることでストライキを決行することを決めました。
10月21日、北教組の33支部中23支部、1万826人がストに参加。北海道全体では全道労協と中立系の組合計34組合、約30万人が参加しました。北教組と歩調を合わせた自治労、高教組、大学教組にとっては組織発足以来初めてのストライキでした。[6]
しかし、この時の北教組組合員のスト参加率は35%にすぎません。『北教組史』は
日教組臨時大会で10.21統一実力行使の決行が決定された後、北教祖中央執行委員会は総力を挙げて4次にわたる全道オルグ、それに呼応して各支部・各支会は夏休み明けから連日のオルグ活動、支会代表者会議及び分会長会議、分会全員集会を精力的に行う中で、半日休暇闘争の推進を確認し、困難点の克服と線線の整備に務めながら、道教委の攻撃、反動的校長・教頭、教委地、地域反動による体制崩し、脅迫、挑発、分裂攻撃を排除しつつ、組織の闘争力を発揮して実力講師突入の体制を強化していった。[7]
と述べています。ストに参加することを思いとどまるよう各方面から強い働きかけがあったことがうかがえます。
半日とは言え、ベトナム戦争反対と賃金値上げという子どもたちには関わりのない理由でのストライキは強い批判を受けました。町村知事は記者会見を開いて「厳重処分」を表明。賃金カット9516名、停職174名、戒告2164名、訓告6658名という大量処分を断行しました。
「10・21国際反戦デー」で行政処分の対象となったのは日教組組合員は全国的には約7万人ですから、北海道の1万人近い処分者は町村知事の強い姿勢を示すものにほかなりません。
なかでも道歴教協に所属する教師たちは10・21ストライキで指導的立場にあっただけに、厳しい処分を受けました。町村知事が主導した2年後の「北海道100年」に道歴教協が強く反発したのは彼らに厳しい処分を下した町村知事への反発でもあったのでしょう。
■人民の歴史をほりおこす運動
10・21ストライキは、道歴教協の活動にも大きな影響を与えました。道歴教協「30年史」は次のように振り返っています。
六六年一○月二一日、北教組・道高教組に結集する教師たちは、ベトナム侵略戦争に反対し、賃金の大幅な引き上げを求めて、組合結成以来のストライキを決行した。さまざまな弾圧、妨害、中傷をはねのけ、徹底的な討議によって団結を固め、地域に入って訴え、共闘するという努力によって決行されたこのストライキは、両教組の運動にとって画期的なものであった。

【10・21スト】不当弾圧反対総決起集会(出典②)
と同時に、一人ひとりの教師がこのストライキによってきたえられた。教師の生まれてはじめてのストは、いやおうなしに教師を地域にひきずり出し、地域の労働者、農民、市民と教育労働者の結合をあらためて問題にした。
そして、自分たちの地域認識の浅さをさとらせられ、これまでの教育が地域に深く根ざしたものであったかどうか反省させられた。道歴教協にとっても、初期「郷土」へ目を向けた時とは違った意味での「地域」の発見であった。
このような教組運動の発展、教育労働者の自覚の深まり、たたかう教師への転化が、民教運動に与えた影響ははかりしれない。道歴教協が地域に根をおろして人民の歴史をほりおこす運動にするどく迫っていったのも、こうしたたたかいの中でのことだった。[8]
彼らなりの表現を読み解けば、学校と生徒を放り出してストライキに参加した教師に対し、地域から激しい反発、非難があったことが伺えます。
おそらく道歴教協の教師たちには、正しいことをしている自分たちを当然地域も支援してくれるはず──という思いがあったのでしょう。しかし、そうならなかったことで、教師たちは自分たちの活動の正当性を学校を支える地域社会に対して説明しなければならなくなったのです。これが「道歴教協30年史」にいう「『地域』の発見」です。
歴史教師の集まりですから、『地域』の発見は、歴史を通して自分たちの活動(教室での共産主義の普及)の正当性をアピールする「人民の歴史をほりおこす運動」の端緒となります。この運動が「民衆史運動」へと発展していくのです。
そして道歴教協の教師たちは、町村知事が賛美した地域の開拓功労者や屯田兵、二宮尊親などの北海道開拓に大きな影響を与えた偉人に攻撃を刃を向けました。
■予想外の惨敗
思いがけない地域からの反発をうけ、教師たちは地域対策の必要性を痛感させられました。加えて次のことも彼らが地域と向きあわざるをえない要因となりました。
昭和42(1967)年4月の北海道知事選で、社会党と共産党は対立姿勢を鞘に収めて統一候補として道議会副議長であった社会党の塚田庄平を擁立し、町村金五知事と一騎打ちに臨みました。塚田は浦河町から東大法学部を卒業して北炭に入社、全日本石炭労働組合の副委員長を務めるなど炭労のエースとして活躍しました。
塚田は北海道出身で東大法学部卒の労組幹部という考えうる最強の候補でしたが、142万票を獲得した町村に対して89万票の惨敗。『自治労北海道運動史』が「日常的な地域活動の不足により、五三万票という予想もしなかった大差で敗れた」[9]と述べているように、時代は労組の組織力だけでは勝利は難しく、地域住民を巻き込まなければ戦えない状況になっていたことを示しています。
大敗を喫した知事選の屈辱感は、道歴教協教師たちの町村知事への敵愾心を一層強いものとしました。反発、反感、怨嗟──その集大成が昭和43(1968)年の『はたらくものの北海道百年史』でした。
【引用参照文献】
[1]道歴教協『民族の課題にこたえる歴史教育の創造を目指して─道歴教協の20年─』1973・96p
[2]道歴教協『地域に根ざす社会科教育を目指して─北海道歴教協の30年─』1987・14p
[3]浜林正夫(テーマ解説小委員会代表)「<テーマ解説>帝国主義─国際主義の人間形成」『北海道歴史教室 NO79』1965/7・道歴教協・3p
[4]同上7p
[5]同上
[6][7]『北教組史 第5集』北海道教職員組合・1990・65p
[8]道歴教協『地域に根ざす社会科教育を目指して─北海道歴教協の30年─』1987・16p
[9]自治労北海道本部運動史編纂委員会『自治労北海道運動史 第1巻』全日本自治体労働組合北海道本部・1985・65p
【図版出典】
①『自治労全道庁25年史』自治労全北海道庁労働組合・1971・口絵
②『北教組史 第5集』北海道教職員組合・1990・口絵