[鹿追]天理教団体
この団体の成功は、実に宗教の力にあったというべきであろう
開拓の想像を絶する困難を乗り越えるのに宗教は大きな力を発揮しました。キリスト教、仏教教団の開拓は知られるところですが、天理教団の北海道開拓に果たした役割はあまり知られていません。天理教団は発祥地である関西と首都東京を除くと最大の教会を北海道に持っています。天理教は北海道の開拓に大きく貢献しましましたが、北海道の開拓もまた天理教団の復興に貢献したのです。『鹿追町史』(1977)よりお届けします。

■950を数える天理教の教会数
先に、幕末三大新宗教の一つ金光教団の滝上開拓を紹介しましたが、同じ幕末三大新宗教である天理教の鹿追開拓を紹介します。
天理教は天保9(1838)年、教祖・中山みきが世界と人間を創造した神様である親神・天理王命の啓示(おつげ)を受け、その教えを人々に伝えたのが始まりとされています。現在、国内で120万人の信徒を持ち、教会数は1万667を数えます。奈良県天理市に本拠を置き、市全体がバチカンのような宗教都市になっています。
この天理教ですが、北海道には950の教会があり、大阪、兵庫、東京につづく数となっています。天理大学の天理教史研究家、早田一郎氏は
『天理教教会所在地録』(立教173年版)の北海道教区を見ると、北海道に部内教会を持つ「大教会」の数が多いことに気づく。現在、全教の大教会は159カ所である。その内、北海道には95もの大教会が『天理教教会所在地録』の直属教会欄に記されている。すなわち北海道に1カ所以上の教会を有している大教会が95カ所もあることになる。これは全大教会の6割に及び、他の県(教区)でこんなに多い所は見当たらない。[1]
と北海道の教会数の多さを指摘し、「しかし、北海道にこれほどの教会が出来たのはなぜだろう」と首をかしげています。
今回、十勝におけるアイヌの飢餓事件を調べる中で、鹿追を開拓した天理教団の記述を見つけました。大正時代に財政危機に陥った天理教団を、信者の北海道開拓によって救ったという記録です。
天理教団体は、大正5(1916)年4月の入殖で、入殖地は字クテクウシの北鹿追と中鹿追東区、および笹川の一部を含んでおり、その総面積は710町歩(710ヘクタール)、33戸と38戸の2団体から成る。
天理教団体は、開墾成功の上この土地の付与を待って、これを売却し、その得たる土地代金を、天理教湖東大教会に寄附して大目的を果した。
成功後、ある者はその土地の小作人となって営農を続け、ある者は帰郷するなどさまざまであったが、現在なお数10戸の信者が残留、そのほとんどは2代3代と時代を代えた。
当時まだ少年であった井関民次郎とすでに成人になっていた伊藤福太郎の2名はなお生存(昭和50(1975)年現在)中であるが、この団体の成功は、実に宗教の力にあったというべきであろう。[2]
■教団の危機を救う難関切抜策
『鹿追町史』は天理教団入植の概要を示した後、昭和42(1967)年3月発行の初代湖東大教会長を記念した『佐治登喜治良』から天理団体入植経過を次のように紹介しています。佐治登喜治良は開祖亡き後に教会を引っぱった当時の大幹部です。
大正の初期に天理教の信者で林紋三郎という者がおり、ある年たまたま親戚回りを兼ねて本部参りをしたとき、十勝平野の肥沃と広大さについて時の大教会長佐治登喜治良に話した。
時あたかも湖東大教会は大きな赤字を抱えて解決に困っていたので、これが動機となり、会長はこの北海道開拓を「ひのきしん」によって所有権を狸得し、売却した土地代金を教会に寄付してもらい難関切抜策としたのが、天理教団体移住の動機であった。
大正4(1915)年5月、早速調査員森井治三郎と大久保紋助の2人が渡道し、十勝のクテクウシ原野を調査後、全国の信者から開拓希望者を幕ったところ、150人ほどの申し出であった。
現地の役所へ申し込んだところ、71戸の回答が来たので、人選にかかり、上松駒三郎以下、滋賀4戸、山形7戸、新潟14戸、福島2戸、宮城3戸、長野3戸の計33戸、これを「東北団体」と呼んだ。
一方、池戸信吉の岐阜1戸、福岡22戸、熊本2戸、長崎1戸、佐賀7戸、大分4戸の主として築紫郡内の者38戸を「九州団体」と呼び、上松駒三郎と池戸信吉がそれぞれの団体長に指名された。
大正5(1916)年3月「東北団体」が出発したが、列車には目じるしの旗が窓から出されていた。服装もさまざまで、中には簑を着ているもあれば、五ツ紋の羽織を着ている者もいた。いずれも信仰のために挺身する覚悟であった。
かくて上松駒三郎を団長とする「東北団体」が、3月30日、残雪のクテクウシ原野に第一歩を踏み入れたのであった。[3]
■8年の計画に4年
こうして天理団体は十勝に入植しました。この後、大変な苦労を強いられるのですが、天理教の強い信仰心で乗り切りました。
翌日から森井、大久保等先発隊の指揮により、1号宿舎の設営を急いだ。
一方、池戸信吉を団長とする九州団体38名が出発、4月末日に現地に到着した。
当時1戸分5町のところ、クテクウシ原野は寒冷地でもあり10町歩と決定、総面識710町歩が開墾予定地として存置されていた。
最初の計画は成功まで8カ月だったが、予想と実際とは大きな違いで(内地の雑木林と北海道の大山林との差)、結果は4カ年を要した。
札幌の藻岩宜教所の信者で、道庁の開拓指導員の経験ある佐藤芳吉を招き、原野開拓の指導を受けた。
二つの団体は東北人と九州人との異った地方の寄り集りだったので診談・奇談の続出ではあったが、みな同じ信仰の同志であり、たちまちに親しみを深めた。やがて3号宿舎も完成、事務所は3号宿舎に侭いた。
馬に馴れない団員は荒い土産子馬に泣かされた。3頭曳きの馬がなかなか合わず、新しい馬具をつけたまま噛み合い蹴り合い、3頭の馬の激しい格闘でせっかくの馬具がばらばらになるという有様。さては耕具を曳いて木の株の間を縫って暴走する光景もあり、苦労は続いた。中にはおとなしい牝馬もいた。団員は「乙姫様」と呼んで可愛いがった。
最初は南京米を食べたが、副食物に困り、蕗(ふき)は内地でも食べて知っていたの5、6月は蕗ばかり食べていた。それも塩汁ばかりだから、これには団員も閉口したそうだ。
尾張大根の切干しは到着までそのほとんどは青くかびていたが、これも選んで良いものを塩味で食べた。
そのうちに西瓜・南瓜・甘瓜ができ、大きいこと、うまいこと。やがてトウキビが食べられるようになって喜んだ。
東北団体と、九州団体とは互いに負けまいと競って開拓に精を出した、中でも九州団体員の気力は大きな力となった。[4]

鹿追町の農業地帯(出典①)
■団員のUの暴動
強い信仰心に支えられているとは言え、開拓は苛酷です。日々の苦しさに堪えきれなくなった団員のこんなエピソードを伝えています。文中の森井氏は入植団の幹部です。森井氏が本部からの送金を受け取りに帯広の銀行から帰ってきたところから話は始まります。
こんなこともあった。大正8(1919)年11月11日、それは発狂的暴動であったが、その名はUとしている。
ある日の朝、Uはある団員に向って
「森井さんが帰って来たそうだが、帯広から金持って来たか、貰ってきてくれ」
これが事のはじまり。森井は
「あの人には困ったものや、今までどれだけ出してあるか分らん。金は出来なかったと言っておいてくれ」
この返事を伝えると、Uは自分の懐中時計と算盤を叩きつけて、
「この時計と算盤の計算でこの俺たちを苦しめやがって。金ができなければ判こを貸せ」
と激昂。
仕方なしに森井という認印を渡したが、Uはその手に乗らず
「そんなものが何になる」と暖炉にくくてしまった。そして恐ろしい顔をして
「実印をとって来い」という。
この旨を知らされた森井は危険を感じてその場を逃がれた。Uは
「逃げたな」
と叫んで刃広のよきを振り上げて脅かし、神様を宿舎へ移させて、棚の書類などを破って炉に投げ込んだ。そのあと前年認可を得て設けた子供たちの私立教育所を破壊した。
森井が霧の中を九州団体の方へ逃れるとき、トンビマントが木の枝にひっかかった。森井はこれを捨てて逃げた。追いかけたUは、マントを見つけると刃広でズタズタに切り刻んだ。
この後Uはさらに他の団員2人を従えて、池戸の家に現れ、池戸の首に手拭いを巻いて絞めたので、居あわせた弟の半次郎がUをつき飛ばして助けた。
そのすきに池戸は、Uの刃広とついて来た団員の兇器を取り上げた。すかさず妻のまさが兇器を床下へ投げ込んだ。
Uの凶行は刑事問題となったが、結局気ちがいということで事件は納まり、高級警察であった伯父に迎えられて郷里へ帰った。団体は平静をとり戻したが、一部の者は煽動に乗ってしまったことを悔いた。[5]
■藤田商店の温情
開拓期の北海道の商人と言えば悪徳なイメージが強いですが、清水町の藤田商店の温情によって運営費に窮した天理団体が救われたというエピソードが『佐治登喜治良』からの引用として小説風に語られています。
団員1人40円づつの生活費の送金も本部からは遅れがちで困った。
大正7(1918)年は豊作で団員はよろこんだが、事務所としては、本部からの費用の送金の少ない今、収穫物を藤田商店に引き取られてしまっては今後の経費に困るということで、背に腹はかえられず、収穫物の大半を買いに来た商人に現金で売ってしまった。
手にした現金は、他の方に使ってしまって、藤田へ払う金がない。
年末が来た。金はない。
森井は病気のため寒気の中、清水まで出張することはとてもできない。今度も池戸が出掛けることになった。
不義理を重ねているので気は重かったが、出掛けぬわけにいかぬので、池戸の妻は、鶏を団員に買ってもらって、清水への旅費と宿代をつくった。
吹雪の中を清水に着いて1泊、翌朝、藤田商店に出かけた。年末の商家は忙しい、藤田の主人は
「池戸さん金持って来たか」と怒嘱った。
「ない」と答えた。
「そこに待っておれ」と命じた。
そのま室土間の隅で半日待たされた。昼飯も食べていない。藤田の主人も来客の応接で、これまた食事をする様子もない。
午後2時すぎになって、藤田の主人は
「帯広へ来てくれ」と言って、
オーバーを着て先に立った。
どうされるのだろう、汽車賃もない──。
池戸は国を発つとき、金山支教会の友人で洋服屋であった名古屋の中村政吉から祝いで貰った洋服を着ていたが、下着を重ねているので窮屈であり、靴も沓下を重ねていて足が痛かった。
藤田は「帯広2枚」と切符を買って、1枚をつっと突き出した。次に「やまめずし二つ」と言って、一つを黙って突き出した。
帯広では、藤田は拓殖銀行支店へ若き、そのまま支店長室へ消えた。暖かい処で待たれている内に池戸は疲れが出て居眠ってしまった。
「池戸はさん、こっちへ来てくれ」と藤田が呼んだ。
藤田も本部からの入金を見込んでいた。その手形の書き換えをすることになり、褒番きを求められた。
「印鑑を出してくれ」
「印鑑なら持っている」
と答えて、鞄の中の袋に入った団員全員の判を机のにあけた。大小さまざまあまり値打のなさそうな判子70個あまりが、ざらざらと出て山になった。
いあわせた銀行員も、満員のお客もどっと声をあげて笑った。
藤田は、翌年も食料、肥料を貸してくれた。
「藤田の主人は侠気のある男だった」と後年、池戸は述懐していた。
後に大正14(1925)年、その地に鹿追宣教所が設けられたとき、藤田は大時計を一個寄贈した。今も「献納、藤田商店」と書いた時計が鹿追の会長室に架かっている。十勝清水の藤田商店は今も栄えている。[6]
■北海道の伝道の初期は「開拓」と切り離せない
さまざまな困難はありましたが、天理団体は無事に貸与地の開墾に成功し、土地を教会のものにしました。時は第1次世界大戦による空前の穀物景気の最中です。教会はこの土地をすぐに売り、教会の再建を果たしました。
このような問題もあって本部では成墾地を教会へ献納する手続きを急ぎ、一括して北海道製糖株式会社へ譲渡することに決し、土地売却代金5町歩平均2350円で700ヘクタールの収入は大きかった。この金で湖東大教会は大正9(1920)年8月26日の負債を支払い、未納金を完納している。
ところがその翌年の3月15日株価は大暴落、北海道の地価は二束三文になった。もしあの事件が無かったら翌年の雪解けを待って、ということになり、4年間の苦労は水泡に帰したかもしれない。のみならず30年来の負債にさらに事業経営の負債を背負い込んだであろう──と同誌は記述している。
天理教団体成功の裏にはこのような秘話があったことを思うときまことに感慨無量のものがある。[7]
開墾地の売渡が1年遅れたらすべての苦労は無になってしまっただろうという『鹿追町史』の感想です。
冒頭の早田一郎氏は
北海道各地に開拓村ができ、町が形成されると内地の布教師が先住の知人を頼って布教に訪れた。北海道は日本のどこから見ても海を隔てた遠隔地である。内地での伝道の場合もそうだが、遠隔地布教では縁故を頼って布教地へ赴くことが多い。
明治20(1887)年代から30年代の北海道民は多かれ少なかれ開拓と所縁のある人であった。開拓のため入植した人が布教師になったり、開拓の先住者を頼って布教師が北海道にやってきたり、北海道の伝道の初期は「開拓」と切り離せない。[8]
として天理教の北海道開拓に果たした存在の大きさを指摘しています。天理教は北海道開拓に大きなはたらきをしましたが、それによって天理教も助けられたのです。
【引用参照文献】
[1]早田 一郎(天理大学附属天理図書館 天理教文献室)『北海道の天理教①』https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000fgpfp-att/q3tncs00000fgppt.pdf
[2]『鹿追町史』1977・321p
[3]同上325-326p
[4]同上327-328p
[5]同上332-323p
[6]同上328-330p
[7]同上333p
[8]早田 一郎(天理大学附属天理図書館 天理教文献室)『北海道の天理教①』https://www.tenri-u.ac.jp/topics/oyaken/q3tncs00000fgpfp-att/q3tncs00000fgppt.pdf
【画像出典】
①JA鹿追公式サイトホーム > 鹿追町の農業http://www.ja-shikaoi.com/contents/shikaoi/