北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

関矢孫左衛門と北越植民社(5)

 

関矢孫左衛門

 

明治天皇の忠臣・関矢孫左衛門、大橋一蔵と出会う

 新潟魚沼の大庄屋・関矢孫左衛門は生涯を通じて明治天皇の忠臣でした。明治10(1877)年、西南戦争が起こると義勇軍を組織して賊軍と戦おうとします。戻っては現在の北越銀行と明訓校を創設します。こうした活動のなかで大橋一蔵と出会うのです。

 

■岩下校の設立

時代は明治になりました。魚沼地方の名望家であり、維新では官軍に付いた関矢孫左衛門は、地方の要職を歴任します。明治5(1872)年には並柳10カ村の戸長になったかと思えば、8月には柏崎県下第4大区副長、明治6(1873)年7月には新潟県の第13大区の小区戸長と、地方制度が未整備な時代で自治体制度が猫の目のように変わりましたが、その都度、並柳地方の責任者に任命されています。
 
こうした中で関矢孫左衛門は、子弟の教育こそが大切であるとして、学制が敷かれる1年も前、明治5(1872)年6月にこの地方では最初の学校である「岩下校」を私財を投じて設立しています。教育に寄せる想いは、やがて明訓校を通じて大橋一蔵との交流を生み、さらには北海道開拓につながるのです。
 

■西南戦争に出陣

戊辰戦争の混乱から立ち上がろうとした郷里のまちづくりに尽力していた関矢孫左衛門ですが、明治10(1877)年、九州で西郷隆盛が明治政府に反旗を翻す西南戦争が起こると、戊辰戦争で「方義隊」を組織したように、義勇兵を集めて九州に出征しようとします。
 

西南戦争「鹿児島決戦の図」①

 
幕末と違い、関矢孫左衛門は明治政府にとって魚沼地方を治めるのに不可欠な人物でしたから、県令は孫左衛門に思いとどまるように説得しますが、孫左衛門は志願兵の募集を始めました。このときの檄文が『情熱の人 関矢孫左衛門』に引用されています。一部漢字を平仮名に改めましたが、関矢孫左衛門の人物、明治初期に志士と呼ばれた人たちの思想がとてもくよく現れているので引用します。
 

第一条 中世以降、王綱紐を解き(おうこうをとき=の政治の大綱がゆるむこと)政権将門(平将門=平安時代の武将)に帰せしは、志士のかつて歴史に慷慨(こうがい=激しく嘆くこと)するところ、今、幸い皇威挽回の世運に逢遇せり。これ千歳得難きの期を維持して、決して失うべからざるなり。
 
第二条 大義名分はすでに燦然たる事にして、西郷たとえ令政府の短所得失を摘発するも、兵馬をもって朝廷に迫り、政府に抵抗する、もとより臣子の分に非ず。いわんや天皇、彼が官等を奪い、征討の詔下るの日、人民の向背疑うべからざるなり。
 
第三条 利害得失について考ふるに、方今(ほうこん=ただいま)政府租税を改革するの際、その収斂(しゅうれん=縮めること)を疑うものあり。これ天下の人民、政府保護に報いる義務を平均にするものにして、決して重税にあらず。百の西郷あって租税を薄うするを説くも、外国交際の今日決してためすあたわはざるところにして、かえって民権を圧制し、旧の御用金の方法を施し、人民家産を全うするあたわはざる場合にいたらん。これ利害得失もまた如何ぞや。
 
第四条 封建の世、藩士その村内を守るはその分なり。今郡県の制にして士、常識を解する以上は、天下を守るは天下人民の職分にして、すでに徴兵を出せり。しかれどもその兵、未だ満たず。ゆえに警備巡査を召集す。これ士族独りそのの責を負はんや。吾輩平民、また義務を尽すべきなり。
 
第五条 政府人民の権利を保護し、世人も民権を主張せり。この如き時節に政府を保護し、人民の義務を尽してこそ、他日政府の行政上に参与する権利も生まるべし。ただ租税を納むるのみにては政府の費用を弁ずるまでにて、民権の拡張は期すべからざるなり。
 
第六条 天下平民の無気力をもって、常に誹(ひ)を受く。この誹、甘んずべからず。これまで警備兵召集の平民におよばざるはこれ是非なし。今日にいたりて平民の募りに応ぜざるは、真に恥づべきの至りにあらずや。
 
第七条 それ人々栄枯盛衰あり。必ず栄と盛とを得べきものにあらず。男児世に処して力を国家に致すべし。方今、斯活歴史上古人のなすところ、何ぞ為さざる可けんや。真に感憤激励、誓って大義に赴くべきの秋(とき)なり。
 
以上七件、熟思止むべからざるものを吐露して諸君に告ぐ。諸君もって如何となす。
 
明治十年六月十日 第十四大区長 関矢孫左衛門 [1]

 

■北海道開拓の精神

関矢孫左衛門の檄文を要約します。
 
明治維新によって平将門以来武門に政治を独占されていた日本は、「皇威挽回の世運」を迎えました。
 
それにもかかわらず、西郷隆盛は明治新政府を激しく非難して兵を起こしました。しかし、それは「人民の向背疑うべからざるなり」。
 
西郷は明治新政府の重税を非難し、減税を主張しましたが、「天下の人民、政府保護に報いる義務を平均にするものにして、決して重税にあらず」。
 
武家が政治を独占していた封建時代が終わり、天下万民の時代になった今だからこそ「天下を守るは天下人民の職分にして、吾輩平民、また義務を尽すべきなり」。
 
権利ばかりを主張する者も増えましたが、「人民の義務を尽してこそ、政上に参与する権利も生まるべし」。
 
われわれ平時の一般平民は、その無気力を非難されている。まことに恥ずべきことで、いまこそ「男児世に処して力を国家に致すべし」。
 
真に感憤激励、誓って大義に赴くべきの秋なり──。関矢孫左衛門はこう檄を飛ばして西南戦争に向かいますが、10年後、北海道開拓の尽力したのも、まさにこの精神でした。
 
関矢孫左衛門の呼びかけに応えた者は総勢76名。孫左衛門はただ1人で76人も集めたことで世間に大いに注目されました。
 
義勇兵は8月に東京に上り、麻生鎮台の兵舎に入りました。21日、西郷が自害したことで戦争は終結。孫左衛門の義勇兵は「吹上禁苑拝見仰せ付けられ同所に於て各隊整列、天覧仰せつけられ候」。
 
翌明治11(1878)年、明治天皇が北陸を巡行されたとき、関矢は随行を許され、案内を行っています。明治天皇は特に北海道開拓に意を注いでいましたが、このことが後に関矢が北海道開拓に尽力する直接の動機になったのでしょう。
 

■北越銀行の創設

このように幸か不幸か九州の戦場に立つことのなかった関矢孫左衛門ですが、東京から戻ると直ちに北越銀行の前身・第六十九国立銀行の創設に尽力します。
 
廃藩置県によって士族は藩籍を失いましたが、明治政府は藩が保証していた家禄を肩代わりし、米の代わりに現金を支給していました。できたばかりの明治政府にとって大変な負担で、明治9(1876)年に禄を廃止する代わりに、金禄公債証書を発行しました。これは30年後の償還を約束する政府が士族に与えた国債で、士族は利子を受け取ることができました。
 

六十九銀行本店
(大正5年(1916年)10月15日竣②


元長岡藩士の三島億二郎は、明治政府から柏崎県大参事に命じられ、旧長岡藩士の救済にあたっていました。そして、三島は金禄公債証書の制度ができると、これを原資とした銀行の設立を思いつきます。銀行を設立することで旧長岡藩士が事業を行う資金を供給しようとしたのです。
 
しかし、三島億二郎には銀行設立の後ろ盾となる財力がありません。そこで、協力を呼びかけたのが関矢孫左衛門でした。
 
明治11(1878)年10月1日、第六十九国立銀行創設の株主総会が開かれ、関矢孫左衛門は頭取に推されます。三島億二郎は取締役となりました。資本金10万円のうち関矢孫左衛門が3000円を出資しています。
 
頼まれて就任した銀行頭取ですが、関矢孫左衛門は一旦頭取の役を引き受けると業務に邁進しました。関矢孫左衛門が銀行をつくったことは、北陸地方では長く語られ、『情熱の人 関矢孫左衛門』の著者磯部定治氏は、同書でこう書いています。
 
戊辰戦争で家を焼かれ、打ちのめされた長岡の人々にとって、とりわけささやかな小売商を営むあきんどにとって、一時的に回転資金を融通してくれるところができたことは、とても有難いことであったはずである。
伝承というほどでもないが「関矢様が金を貸して下さるそうだ」という風な、伝えられ方がされていたようすも窺われる。
 
もちろんそれは孫左衛門が貸すのではなく銀行が貸すのであったが、銀行という言葉にも実態にもまだな じみの薄かった庶民には、関矢様が貸して下さるというのが実感であったかも知れない。[2]
 
この第六十九国立銀行の存在が北越植民社の北海道開拓を金融面で後押しするものでした。
 

■大橋一蔵との出会い

関矢孫左衛門が北海道開拓に取り組むようになったきっかけは、大橋一蔵との出会いであることはすでにお話ましたが、ここでは関矢孫左衛門の側から大橋との出会いを紹介しましょう。
 
『野幌部落史』の「関矢孫左衛門伝」によれば
 
明治10(1877)年、洋風盛んにして自由主義拡張し、民権を唱え君臣の大義、父子孝道を偏軽に説破し、この時に当たり我等有志者杞憂奮ならず。学校を興して大道を以て青年の生を教育せん事を志し、越後国弥彦神社地に中学校を創設 [3]
 
とあり、同書の「大橋一蔵伝」では
 
明治13(1880)年頃、北魚沼郡小千命の郡役所を中心に、時流民権論の矯檄軽佻の風を憂い、国体を宣明し、忠孝を鼓舞せんとする運動が起り、「之を救うは學校を建てて子弟訓育するにあり」(北征日乗) として永山県知事、松方伯などの他多数の助力を得、弥彦に明訓校が創設された。

明訓校記念碑除幕式・中央が関矢孫左衛門(昭和13年)

 

弥彦の明訓校之址を訪ねる
明訓高校の生徒③

ちょうどその頃、故国に謹慎中の大橋、推されて校長となり、生来の熱意を以て子弟教育に当たり、遠く九州より来たり学に就く者あり、天聴に達して破格の恩賜金を拝受するなど、明訓校の名声は大橋校長の名と共に喧伝された。[4]
 
とあります。
 
西南戦争のために義勇兵を立ち上げた関矢孫左衛門は東京で、明治天皇に拝謁を賜る栄を受けますが、一方で鹿鳴館を代表される文明開化の流行、民権論の隆盛を目撃したのでしょう。
 
このことに危機感を抱き、次世代への教育こそが必要と明訓校(
現: 新潟明訓中学校・高等学校)を設立し、萩の乱に連座して故郷で謹慎処分となっていた大橋一蔵に白羽の矢を立てて校長に据えたのでした。
 

■明治天皇の志を継いだ関矢孫左衛門

さて、大橋一蔵は「萩の乱」を起こした前原一誠に心酔した人物。西南戦争では明治政府と敵対した西郷隆盛サイドの人間です。一方、関矢孫左衛門は紹介したような人物。そうした大橋をなぜ関矢は明訓校の校長に取り立てたのでしょうか?
 
二人に共有するものは、北海道開拓の理想ではなかったか思われます。
 
戊辰戦争で義勇軍を立ち上げ、有栖川宮熾仁親王から錦の御旗を下されました。このことを契機に明治天皇は関矢孫左衛門を覚えられたのでしょう。明治10(1877)年の西南戦争のおりには、やはり義勇軍を組織した関矢孫左衛門に拝謁を許しています。さらに、翌11(1878)年の明治天皇の北陸巡行で関矢孫左衛門は天皇の随行員に指名されているのです。
 
戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いの後、明治天皇は、蝦夷地の開拓について家臣にご諮問になり、箱館戦争が終結するとすぐに、
 

「箱館平定の上は速に(北海道の)開拓教導等の方法を施設し、人民繁殖の域となさしめるべき」 [5]

 
と仰せになり、北海道開拓を急がせたのです。
 
明治政府の強力な北海道開拓の推進は明治天皇の強い意向に従ったものでした。そしてその意志は明治天皇を強く崇敬する関矢孫左衛門に受け継がれたのです。
 

■北海道開拓の志を共有

一方、大橋一蔵も北海道開拓を強く志向する人物でした。
 

大橋一蔵④


大橋一蔵が北海道開拓事業に情熱を傾けた動機は、前原一誠の建白書であったと言われている。山口藩藩士前原一誠は、吉田松陰の高弟で、勤皇の志士であった。
 
維新後は参議などの要職についたが下野し、明治9(1876)年政府に不満を抱き山口県萩で挙兵、県庁を襲うなどし山陰道から中央をめざした。しかしやがて政府軍に鎮圧され斬罪に処せられた。いわゆる「萩の乱」である。
 
大橋一蔵は前原一誠に傾倒、萩に前原を3回も訪ねた。薩摩の西郷隆盛を訪ねたり桐野利秋とも会った。大橋は萩と越後の同時蜂起を図ったが、結局事は成らず、県庁に自訴した。29歳であった。
 
この事件に連座した彼はいったん斬罪判決を受けたが、のち終身懲役刑に減刑され、石川島の獄舎につながれた のちに市ヶ谷に移される。
 
その中でたまたま樺戸集治監設置のことを耳にし、みずから囚人の一人として渡道し開拓に従事したいと申し出た。その願いが認められ、出発を待つ間に、山岡鉄舟らの赦免運動によって明治14(1881)年6月、村に留まり親を養うという約束で特赦を得て郷里へ帰った。[6]
 
そして郷里に帰った大橋に「校長になってくれ」と声を掛けたのが、関矢孫左衛門でした。
 
すなわち大橋は、反政府の罪を問われ、獄に繋がれても、樺戸監獄で開拓に従事したいと申し出たほど、北海道開拓に強い意欲を持つ人物でした。
 
関矢孫左衛門と大橋一蔵、西南戦争では敵対者となりますが、もともとは共に尊皇攘夷派の志士です。明治政府が急速に文明開化に傾く姿を憂慮していたのは同じでしょう。一人は武力に訴えようとし、一人は教育によって世の中を正そうとした。その違いです。
 
明訓校の創設を通して二人は出会い、盟友の契りを結ぶのです。
 
 
 

 


【引用参照出典】
[1]磯部定治『情熱の人 関矢孫左衛門』2007・新潟日報事業社・33-35p
[2]同上60p
[3]『野幌部落史』1947・野幌部落会・305p
[4]同上291p
[5][5]北海道神宮編『北海道神宮研究論叢』2014・弘文堂・165p「明治天皇紀」126p
[6]磯部定治『情熱の人 関矢孫左衛門』2007・新潟日報事業社・66p
①国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1304844
②https://ja.wikipedia.org/wiki/第六十九国立銀行
③新潟明訓中学校・高等学校公式サイトhttps://www.niigata-meikun.ed.jp
④『北海道開拓 原生林保存の功労者・関矢孫左衛門』柏崎ふるさと人物館・2p
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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