北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

「長沼」 吉川鉄之助(上)

 

 

長沼町の開祖 吉川鉄之助をご紹介します。仙台支藩水沢伊達家の家臣の家に生まれた吉川が長沼の開拓に従事するまでの物語は、そのまま北海道の創設物語です。その生涯には後藤新平、クラーク博士、内田静などの著名人が登場し、鉄之助の生涯を見ることで、北海道がどのように作られていったがわかります。今回は父に連れられて北海道に渡り、平岸に入ったところまで。吉川鉄之助の父は平岸の「草分けの人」でもありました。長沼町史『長沼町の歴史』(1962)によりご紹介します。

  

■馬追原野の草分け

奥州市水沢

本町の草分けで、初代戸長になった吉川鉄之助は、岩手県の出身。明治2(1869)年、北海道庁の前身である開拓史が札幌に置かれ、本府の近郊に、防衛も兼ねて農村の配置が計画された。その時の募移民として、今の札幌市豊平平岸村に両親と一緒に来た。
 
鉄之助の父は太左衛門といい、岩手県水沢市旧藩伊達将監の従者吉川太平の子であった。鉄之助はひとり息子で、明治4(1871)年3月、他の移民団とともに水沢を出発し、舟で北上川を下り川口石巻港から渡道した。
 
平岸村に入った太左衛門は、募移民の指導者として活躍、のちに伊藤博文や黒田清隆から表彰され、定川渓下の湯(黄金湯温泉)を発見し、明治23(1890)年この地で亡くなった。
 
鉄之助は安政6(1859)年生まれで平岸へきた時は12歳であったが、体格が良く父の開拓を援けながら成長した。明治8(1875)年開拓使に入り学務局雇となり、さらに札幌農学校の職員となってクラークの温容に接し、キリスト教を信奉するようになった。
 
その後、開拓使や札幌県に勤めた。明治19(1886)年北海道庁の開庁を機に殖民地選定事業を起した際、札幌農学校第1期卒業生である知人の内田瀞らが測量官として馬追原野を踏査していたので、彼も同年10月の視察に加わった。この時のことを大正5(1916)年発行の長沼村史は次のように述べている。
 

明治19(1886)年10月、岩手県人吉川鉄之助は、単騎軽装札幌を発し、途中千歳にて愛奴(アイヌ)を雇い案内人として馬追山麓を北進し、夕張川畔に達す、果して土地肥沃なるを知り、翌明治20(1887)年5月、長野県人渡辺伝2と共にこの地に入る。これ本村の噛矢なり[1]

 
水沢市旧藩伊達将監とは人名ではなく、代々伝わる役職名、通称です。仙台藩は家格によって家臣に序列を設け、最も位の高い「一門」には大名並みの待遇がありました。「水沢市旧藩伊達将監」は仙台藩の一問で現在の岩手県奥州市の胆沢地方に拠点を置いていた「水沢伊達家」です。
 
ここで述べられている伊達将監は水沢伊達家13代伊達邦寧ですが、留守邦寧とも呼ばれました。そのことについては『長沼町史」がこの後に解説しています。吉川鉄之助はこの水沢伊達家の家臣でした。
 

■水沢藩伊達将監

北海道庁も、画期的な政策としてすでに明治19(1886)年末、夕張川畔一帯の馬追原野を第1次殖民選定地として指定していたが、ここでそれまでの北海道の開拓状況や、その背景となる日本の歴史を少し述べて見たい。
 
悲劇の英雄といわれ、北海道の歴史と縁の深い、かの義経が藤原泰衡のため衣川の戦で殺されたのは、今から770年ばかり前の文治5(1189)年であった。しかし義経を討って兄頼朝の機嫌をとろうとした泰衡も、明日は我が身の運命となり、逆に頼朝の遠征に滅ぼされ、自身は蝦夷に逃がれようとして北へ走ったがついに南部地方の糠平で屍をさらす結果となった。
 
奥州はここに平定され、建久3(1192)年、源頼朝は征夷大将軍に任じられ、鎌倉に幕府を創設した。いわゆる武家政治の発端である。
 
頼朝は、文治、武治の両面政策を樹て、武を葛西清屯(奥州総奉行)に、文を京都の公卿出身といわれる伊沢家景を留守職としてこの地方に派遣した(のちに職名留守を氏とする)。これが水沢藩伊達将監の祖先である。[2]
 
平安末の武将、伊沢家景が鎌倉幕府成立によって、源頼朝が留守の代わりに代官を務める留守職に就きました。やがて留守職が家名になり、伊沢家は留守家と呼ばれるようになりました。
 

■半農半士の屯田兵的性格

奥州市の農村景観(出典②)

この家景から14代目の伊沢正承の時代に当時18万石もあった所領を没収されるという事態に遭遇した。すなわち天正18(1590)年、天下統一の旗印を掲げた豊臣秀吉が関東小田原城の北条家を攻略しようとした。従軍命令はみちのくの草深い地にも伝えられた。しかしなぜか正景は鳴りをひそめて加しようとしなかったため(一説には間に合わなかったともいう)、秀吉は激怒して前記のような制裁処置に出たといわれる。
 
正景はやむなく、甥の伊達正宗にすがってわずか1万石(のちに1万6千石となる)の領地を与えられ、辛うじて瓦解を免かれたという。
 
ところが昨日に変わる主家の没落にもかかわらず、名君であったと見え、家臣の多くは正景を慕ってついてきたため、大世帯はたちまち苦しい生活に陥ち入った。家老職で150石ぐらいの明ので、他の者は押しなべて微禄の境遇となったのは当然のことであった。
 
したがって武士といえども野良に出て鍬を振い、あるいは山林を伐り倒して流送を行なうなど、半農半士的ないわば屯田的な性格がつくられていったのである。
 
だが貧しいながらも胆沢平野の人々は水沢城を中心に徳川治世264年の春秋を平和におくり迎えたのである。水沢藩主を伊達将監とよぶのは、このような理由からである。[3]
 
戦国時代の末期に留守家は豊臣秀吉と対立し、領地を没収されました。そこで留守家は伊達政宗に頼って領地を回復。この時に伊達家の家臣となり、留守家は伊達と名乗るようになりました。
 
この時の留守家当主、留守政景は伊達氏15代伊達晴宗の三男で留守家に養子に出されていました。有名な伊達正宗の叔父になります。そして伊達家家臣団のなかで最高位の「一門」に加えられました。以降、水沢伊達家と呼ばれるようになります。
 

■祖父太平は研ぎ師

慶応3(1867)年(1867年)明治天皇が即位され、薩長二藩に対し討幕の密勅が下り、即日徳川慶喜は大政を奉還したが、朝廷軍は錦旗をひるがえして江戸へ向かった。さきに鳥羽伏見の戦で破れた会津容保は国に帰り、謹慎の態度を示したが、薩長軍はこれを許さず、会津征伐の軍を起こした。
 
これに同情した東北列藩は同盟を結んで会津を援けようとし、しかもその盟主は仙台藩と見られたため東北乱平定後、親藩はもちろん支藩にいたるまで反朝廷のらく印を押された。
 
官軍に従った各地の大小名は華族、士族の称号を与えられて優遇されたが、水沢藩は将監だけ士族を名乗ることを許されたが家臣には許されず、そのためにながい間復禄連動に苦労せねばならなかった。
 
したがって、仙台藩の人々は北海道に新しい郷土を築こうとして願い出るとともに、水沢藩主、伊達将監(留守邦典)の子、伊達将一郎(留守将一郎)も明治3(1870)年渡道して札幌付近を視察した。吉川太左衛門の父、すなわち鉄之助の祖父太平は、留守家大番頭支配のうち御名掛士を勤め、刀剣その他の研ぎ師をしていたといわれる。
 
仙台亘理藩、伊達邦成の統率する胆振国の有珠郡(現伊達町)や、仙台岩出山藩、伊達邦直の石狩当別町、仙台角田藩、石川光親の栗山町および長沼町(北長沼)などは、北海道開拓のためそれぞれ士族団体が移住して新しい郷里をつくりあげたものである。[4]
 
伊達家「一門」の家格では、筆頭が角田石川家。家臣団が室蘭に入りました。[室蘭市] 添田 龍吉参照。続いて亘理伊達家、主従が北海道に移住し、伊達市を築きます。そして三番目の水沢伊達氏は主君こそ移住しませんでしたが、吉川ら家臣団が北海道に渡っています。
 
 

奥州市 江刺鹿踊り(出典③)

 

■平岸を開いた水沢旧藩士

水沢藩では前記明治3(1870)年伊達将一郎が家臣数名とともに札幌付近を視察して移住の決意を固めたのであるが、帰藩して家臣に相談したが賛成者が少なく、これは実行にいたらなかった。
 
しかし同3年、北海道開拓便、坊城按祭使か水沢にきて留守家の家臣を立町の本陣に集めて、北海道移住を勧奨した時、こんどはこの家臣の中でこれに応ずる者かあったので、この人々を中心にさらに付近の移住希望者を合わせて36戸が明治4(1871)年3月にこの水沢に集合して北海道へ出発した。
 
太左衛門は一行の指導者として妻と長男を連れてこれに加わった。一行は3組に分かれ太左衛門は2番手であった。この一行は士族の団体移住ではなく、前記のように開拓使が札幌本府創建に当たり、付近に農村を配置するための直接保護募移民であった。[5]
 
札幌市豊平区平岸は水沢伊達氏旧家臣団によって拓かれました。『札幌市史』はこういいます。
 

平岸の開拓(出典④)

戊辰戦争で窮乏した仙台藩の諸士族や家臣団が、競って蝦夷地・北海道へ移住するようになることは次項で述べることにするが、平岸村に移住した士族たちも同様の理由であった。彼らは仙台藩水沢領主の伊達邦寧(くにやす)の家臣であった。邦寧は将監、将一郎とも通称し、水沢の伊達氏は留守氏(るすし)ともいった。[6] 
 
水沢家臣団も主君の渡道を求めましたが拒絶されました。そのため開拓使の保護を受けられず、苦労を重ねました。
 
移住許可の指令を得た坂本平九郎らは、白石の片倉、亘理・岩出山の両伊達の領主と家臣が主従ともに「北地跋渉(ばっしよう)」することにならい、伊達邦寧にも同行を求めた。ところが邦寧の拒絶にあい、彼らの「北地跋渉」は第一歩で大きくつまづき挫折した。(中略)
 
旧主の同意を得られなかったものの、彼らは独自に移住の準備を進めた。まず三年三月に高橋陸郎、藤田源四郎、行方丹治の三人が函館に到着している(諸届留 道文二〇七)。函館では開拓使と種々折衝をもったようであるが、その際問題となったのは彼らの身分であった。彼らは伊達将一郎(邦寧)旧家臣という肩書ではあるが、邦寧が「開墾ノ主宰」とならないために、「何レノ藩名モ無之、天下浮浪之徒ニ等シク名分判然不仕」(諸願伺留 道文二〇五)る状態であった。[7]
 
平岸開拓で伊達家のことがあまり語られないのはこうした歴史が関わっていると思われます。
 

■後藤新平と鉄之助

吉川鉄之助の幼な友達といわれる東京市長として有名な後藤新平の生家は、この水沢市の吉小路にいまも保存されている。後藤家も禄高10石ほどで貧農貧士であった。
 

後藤新平(出典⑤)

この後藤家に近い河原小路に住んでいた鉄之助は年ごろも相似ていた(新平は安政4(1857)年生まれ、鉄之助は安政6(1859)年生まれ)。また亡くなったのも新平昭和4(1929)年、鉄之助昭和6(1931)年で同じ年齢であった。新平の父は後藤十右衛門実崇(重衛門惣助ともいう)といい、住まいを寺小屋として付近の子弟を教育し、鉄之助もここに学んだ。
 
ただ新平の父は考えるところがあって子を藩校立生館に通わせたと伝えられているが、いずれにしても鉄之助が生前、子や妻に新平と一緒に寺小屋や学校に通ったと語っていたところからみて、かなり親しい間がらのようであった。
 
鉄之助が北海道に渡ってからも新平と交流が続き、三女貞を東京の後藤邸に手伝わせたこともある。また鉄之助がのちに長沼を去って大正7.8年ごろ沿海洲に農事視察に赴いた際の世話人はこの新平であった。新平の死後、吉川家ではその息子の一蔵とも交流が続き、現札幌市南1条西24丁目にいる鉄之助四男吉川栄との間に交流が行なわれていた。[8]
 
後藤新平は大正期の大物政治家です。明治16年に内務省に入った後、台湾総督民生局長時代に頭角を現し、桂内閣で逓信大臣、鉄道院総裁、寺内内閣で内務大臣、外務大臣を歴任しました。
 
大正9年に腐敗した東京市の建て直しのため自ら市長として乗り込み、大正12年の関東大震災後、内務大臣兼復興院総裁として帝都復興に尽力しました。日本で初めて都市計画を導入し、現在の東京の骨格は後藤新平により作られました。
 

■平岸の草分け

さて、平岸に入地した吉川一家のその後の消息はどうなったであろうか。『平岸村開拓史』の中に当時岩手県人、黒喜平川太左衛門ほか58名の人々が開拓使の奨励によって当地に移住し、荒地を拓き、製綱原料の大麻を耕作したと記されている。現に平岸を一名「麻畑」と称するのは、この麻の裁培が行なわれていたからである。
 
その後、麻の栽培は成績不良となり、移住者は他に転じ、耕地は再び荒廃地と化した。その後、明治14(1881)年になり、青森、岩手、石川、福井、広島、熊本などの諸県から移住者があり、豆などの畑作を主としてさらに開墾を進めた。明治20(1887)年前後に水田を試作する者があり、さらにリンゴを裁培して「平岸りんご」の名が出るほどになった。吉川太左衛門は、この平岸の草分けとして、また指導者として活離した。
 
彼はいろいろな点でも農業経営の才がうかがわれる。開拓使の手厚い保護政策に慣れて、他の移民がこの助成がなくなるとともに他へ離散する中にあって、奉還金を返上してよく自力奮闘した跡が残されている。[9]
 
吉川太左衛門がいつころまで平岸にいたかは明らかでないが、定山渓鉄道沿線の豊滝にある黄金湯は太左衞門が明治20(1887)年に発見し、土地の人は発見者の名をとって「吉川の湯」とよんでいた。
 

小金湯温泉昭和30年代(出典⑥)

札幌市豊羽鉱山水松沢に住む竹永サノ(明治元年生)の語るところによると、明治23(1890)年の春、豊滝に移住した時、吉川という老人が1人で板囲いの小さな風呂を湧かしていたので、笹やぶを分けながら行って入浴したという。
 
このようにして吉川鉄之助は平岸村開拓の指導者の1人息子として、明治4(1871)年以来父の農業をたすけながら成長していった。[10]
 
札幌市南区定山渓の小金湯温泉を吉川鉄之助の父が発見したとする記述は興味深いです。現在の小金湯温泉の公式サイト「小金湯の歴史」には次の記述があります。
 
古くから、風光明媚な湯治場として有名な小金湯温泉。その歴史は明治16年頃、熊本からの入植者により、桂の木の下から湧出している温泉が発見されたことに始まります。明治20年には、すでに開湯されていたという記録があります。[11]
 
ちなみに小金湯温泉はもともと黄金湯温泉と呼んでいましたが、昭和37年の豊平町と札幌市の合併に伴い「小金湯」と表記が変わりました。
 

 
 


 
【引用出典】
[1]『長沼町史の歴史 上巻』長沼町・1962・93p
[2]『長沼町史の歴史 上巻』長沼町・1962・94p
[3]『長沼町史の歴史 上巻』長沼町・1962・94−95p
[4]『長沼町史の歴史 上巻』長沼町・1962・95p
[5]『長沼町史の歴史 上巻』長沼町・1962・95−96p
[6]『新札幌市史 第2巻 通史2』札幌市・1991・99p
[7]『新札幌市史 第2巻 通史2』札幌市・1991・99〜100p
[8]『長沼町史の歴史 上巻』長沼町・1962・96−97p
[9]『長沼町史の歴史 上巻』長沼町・1962・106p
[10]『長沼町史の歴史 上巻』長沼町・1962・108-109p
[11]公式サイト『湯元小金湯』>小金湯の歴史 http://koganeyu.jp/sitemap/
 

【写真出典】

①北海道立文書館
②奥州市公式サイト https://www.city.oshu.iwate.jp
③公益財団法人 岩手県観光協会「いわての旅 岩手県観光ポータルサイト」>観光写真ダウンロード https://iwatetabi.jp/downloadimage/?title=奥州市&large_area%5B0%5D=0&large_area%5B1%5D=0&orientation=&size=&eps
④札幌市公文書館公式サイト http://www.city.sapporo.jp/kobunshokan/
⑤国立国会図書館公式サイト>近代日本人の肖像 https://www.ndl.go.jp/portrait/contents/
⑥湯元小金湯公式サイト>小金湯の歴史 http://koganeyu.jp/history/

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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