北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【北檜山】 会津白虎隊の魂とともに 丹羽五郎 ⑨(最終回)

 

  
 

五郎 北海道開拓のモデルとなる

 

警察官僚を辞めた丹羽五朗は明治24(1891)年、いよいよ開拓事業に乗り出します。北海道に移り住んで陣頭指揮を取り事業は大きく成功。北海道開拓のモデルと言われるようになりました。丹羽村成功の背景には会津の武士道精神がありました。

 
 

■警察退官・移住出願

明治23(1890)年、瀬棚に有望地を見つけた丹羽五朗は、思い切って警察を辞め、開拓事業に専念することを選びます。明治24(1891)年に北海道に渡って檜山郡役所で国有未開地の貸し下げ申請を行いますが、通常は相当待たされる貸下げ申請がその日におります。西南戦争の英雄の威光ですが、明治らしい恣意的な制度の運用で多くの開拓者がなかされたのも事実です。
 

五郎も退官して20年来帯びたる「サーベル」を放ち、自由の身となりしかは、ただちに北海開拓渡航の準備に着手し、明治24(1891)年4月17日東京を出立し、まず久遠に行きて、十倉綱紀氏を訪はんとしたるに、ついに君に会いたるをもって、共々江差に到り。
 
檜山郡役所に出頭し、郡長林悅郎氏に来意を告げ、出願貸付の許可を乞い、その29日に貸付の許可を得、林郡長・十倉氏に別れ、帰京せり。[1]

 

■会津猪苗代で移民募集

 
貸下げ許可を得た五郎は会津の猪苗代で移民団を組織します。そこは五郎の曾祖父織之丞が創設した村でした。そうした恩顧のある五郎のことなら村民は聞いてくれるだろうという思いでした。
 

大関栄作①

 

帰京後、熟考のうえ5月に猪苗代元南土田(はにた)村の子弟に対し、北海道移住の募集を同村の大関栄作氏に依頼したり。
 
従来、本道において殖民事業に着手して失敗したる者少なからず。その重なる原因は士族または無賴の遊民を移植したるにあるを鑑み、岩代国猪苗代千里村の一部落、元南土田村は曾祖父織之丞(会津藩の家老なり)の創設したるところにあるをもって、同村をより農民を募集せんと欲し、募集方を同村大関栄作氏に一任したり。
 
大関氏、熱心に勧募の結果、12戸を得たるの報に接し、五郎は10月に猪苗代に行き、志願者に面会し、明治25(1892)年3月1日に出立のことを約し、郷里若松を廻り、実家の婚丹羽彌介を取締として移住せしむることを約し、帰京せり。翌25年3月1日。五郎は東京を出立せり。[2]

 
このことを検索していると、福島県苗代町のこばやし農園のウエブサイトの「富永地区の歴史」のなかで地区の「彰徳碑」の紹介文としてこんな記述を見つけました。
 

彰徳碑(碑文現代訳)
 
退素霊社は会津藩家老丹羽織之丞君の諡(おくりな)である。土津神社とその御廟のための祭田は以前よりあったものの、織之丞君は更に私財を投じて南土田に御廟維持の為の新村を拓き、これを藩に献上した。もともと南土田は嘉堂観村の谷地であったが、排水路を開削し客土を行った末、ようやく開拓となった土地である。(中略)
 
その後、明治二十五年(1895年)織之丞君の曾孫にあたる丹羽五郎君は北海道に赴き丹羽村を開いたが、南土田より多くの人がその事業に参加し、開拓は二千二百町歩、戸数二百を数えるに至った。この人にしてこの子孫ありといえよう。ゆえに併せて叙す。[3]
 
http://hyakusyou-5.world.coocan.jp/rekisi.html

 

福島県猪苗代町富永地区に立つ「彰徳碑」海軍大佐正五位勲三等功五旧 子爵 松平保男 大正13年建立②

 

■「荷卸し松」

こうして丹羽村の移民団12戸49戸は明治25(1892)年3月1日に猪苗代を出発します。塩釜より移民船に乗り、3月4日に函館着。さらにそこから舟に乗って12日に江差に上陸。海が静まるのを待ち、18日に瀬棚に到着します。かなり無理して上陸したのでしょう。先に乗員は降りましたが、荷物を下ろす段になって再び海が荒れ始め、船は港を離れました。荷物が着いたのは10日後。大半の荷物が揺れで壊れていたといます。
 
五朗に率いられた福島移民団はいよいよ目的地を目指します。先に若者20名ほどが先遣隊として出発。目的について最初に荷を下ろした松はその後「荷卸松」として村の名物となりました。瀬棚だけではなく、かつては入植者が最初に荷を下ろした場所は記念の場所として長く住民に大切にされていたものです。
 

荷卸しの松③

 

■開拓始まる

いよいよ福島移民団による「丹羽村」の建設が始まります。拝み小屋からの原野開拓。ひとしきりあたりが拓けると最初に建てたのはやはり神社でした。その神社を「玉川神社」と言います。丹羽村の場所は後志川の上流「なめ川」のほとりで、清澄透明なことから古歌に詠まれた「六玉川」から「なめ玉川」、そして「玉川」がこの地に地名い採用されたのです。
 

小屋掛は掘立にして、ブドウ、コクワのツルをもって縄にかえ、これを纏結し、間口3間、奥行12間となし、中央に8間の囲炉裏を設け、屋根は熊笹の棄をもってこれをふきたり。
 
29日にいたり、この小屋ほぼ出来せしをもって、会津町に残し置きたる婦女子を移転せしめたり。
 
移民に渡すべき地所は、道路なき定線をもって基線と定め、その左右を区画して5町歩を1戸分となし、抽選をもってこれを配当せり。これを「本村」と称す。これ最初の移住地なるをもって以降誰云うことなくかく呼ぶに至るものなり。
 
また敬神の観念を涵養せしめんため、小祠を作り、華表を設け、「玉川神社」と称す。4月1日の吉日を選び、各自割渡しを受けたる地内の伐木に着手し、同日正午より業を休み、玉川神社の祭典を施行し、山鳥5羽、兎2羽および赤飯、神酒を供へ、男女一同詣し、社前において埋骨の精神をもって開墾に従い、かつ村規約を確守することを誓い、しかしてのち、笹小屋に団らんし、赤飯神酒をわかちて観を竭せり。[4]

 

玉川神社と玉川公園④

 

■五郎 北海道移住

神社の創建で村づくりの基盤が出来たことを確認した五郎は東京に戻ります。実は五郎が発刊した「いろは辞典」は大ヒットとなり、続編も売れ、出版ビジネスが立ち上がっていたのです。ここで五郎は瀬棚開拓を腹心に任せて、出版社の社長になることもできました。しかし、五郎は東京のビジネスの方を腹心に任せて永住のため北海道に渡りました。出発の日、上野駅を百人超す人々が万歳三唱しながら五郎を見送ったといいます。
 

これにおいて五郎は事業の端緒に就きたる見、4月2日移民の監督、指揮を彌介、栄作二氏に委し、帰京の途に就けり。
 
五郎は東京に在りて、もっぱら拓殖資金の造成に力を尽し、日本橋北鞘町の金原銀行の一部を借りて「いろは辞典発行部」を置き、每日自転車にて通勤し、辞典のほか「明治法典」「警察法典」「市町村一覚」その他数種を著作出版し、相当の利益を得たり。
 
しかるに丹羽村の拓殖事楽もおいおい進捗し、また彌介妻(五郎の姉)病気のため、五郎も親らを移住せざるを得ざる埸合となり、明治28(1895)年3月30日を出立と定め、準備中の3月4日、臨時七師団の召集に応じて出征し、7月10日、復員解隊帰京し、再び移住の準備をいたし、9月1日、旧藩主容大公の代理英夫公南摩先生、山川健次郞氏および警察時代の友人百余名に送られ、万歳三唱にて上野駅を出発したり。[5]

 
この間、明治26(1893)年には14戸43人の2回目の移住。27年には利別川が大洪水となり、「せっかく収穫したる麦を流し、蕎麦その他損害多く、移民の落胆一方ならず、会津町の商人そのほか有志者より白米、筵等のいたくの見舞いを受けたり」という事態もありました。
 
 

■進む丹羽村の建設

五郎が移住した後、明治30(1897)年には戸数87戸となったので、玉川尋常小学校を創設。初期入植者の開墾が一段落すると未開地の開発を行い、新たに入植団を自ら募集し、だんだんと村を広げていきました。
 

33年に五郎は植民適地を調査し、「めな玉川」上流に平坦にして、農耕に適する土地を発見し、これを道に報吿せしに、道庁は34年5月小倉技手を派遣して、区画地を設定せしめたり。
 
丹羽は部落人とともに当該区画地地3000間の道路を開き、人馬の通行を得せしめ、大関栄作、永山重道は故郷に帰り、会津団体20戸を募集せり。丹羽は宮城県にいたり、宮城団体70戸を募集し、35年1月道庁に出願して、会津団体25万5000坪、宮城団体11万坪の貸付予定地の存置の許可を受け、丹羽は同年3月会津団体7戸、宮城団体25戸を引接移住せしめたり。[6]

 
村づくりにおいても五郎の人脈が活きました。園田安賢第8代北海道長官は、五郎が西南戦争の巡査抜刀隊で、五郎とは田原坂の戦いの右翼と左翼の隊長という仲でした。
 

後年、園田が道庁長官となりし時、五郎は面会を求めしに撻を排して出て來り。
「ヤー、久し振りですネー。大層御盛ソーですネー」と猶戀々として故人の情ありき、園田長官在職中五郎の依頼に対し、毎によく世話してくれたり。[7]

 
五郎と長官は田原坂で生き残った警察抜刀隊50名中38名の二人。明治半ばの身分制度で道庁官は雲の上、一介の入植団長が気安く会える存在ではなかったが、五郎は、気安く声をかけることができました。
 

玉川公園から眺める「丹羽村」⑤

 

■組織的開拓

丹羽村の成功は五郎の統制力と村民の組織化にありました。北海道の過酷な大自然に立ち向かうのに到底一人の力では無理です。そこで団結して開拓にあたらせるように組織しました。その基本となるのは「組合」です。
 

本道は各地より移住したる、雑駁の人種よりなるをもって、人情たがいに投合せす。ややもすれは隣保相助を欠如するの観あり。ゆえに丹羽村はこれに鑑み、建村時代より組合を設け、親睦を旨とし、吉凶相慶弔し、因厄相救護せり。[8]
 
この組合を基礎にして、村の各行事を総員で行う体制を整えました。
 
部落を分けて15班となし、各組に組長一人づつを置きて、組内の庶務に従事せしめ、取締役は部落内の要務を執り、しかしてこれを統括するは部落長なり。上下順次統括して、整然乱れず。部落民は丹羽を「旦那」と呼びてあえてその姓名を言はず。
 
部落に関する重要事件は組長会を開き、取締役の意見を聞きてこれを決し、その議事は速やかに進行し、また遷延決着せざるが如きなし。
 
公共の工事ある際はあらかじめ各組員に伝え、当日未明大太鼓を鳴らして一定の埸所に集り、旗を真っ先にに立てて現場に至り、ただちに部署につき、部落長、取締役、組長、順次指揮監督し、人々黙々と労働し、工事終れはこれを一場に集め、人名を点呼したる後、部落長は各人の心得となるべきことを講話し、工事の成績を講評して勤勉者を褒め、不勤勉者を戒しむ。[9]

 
 

■青少年の教化

青年の教化を重んじ、明治37(1904)年には早くも会員110名による「丹羽青年会」を設立しています。大正2(1913)年には図書館を建設して、本雑誌の貸し出しや閲覧を行っています。会津藩伝統の士族教育法が開拓地に導入されました。
 

会員の修養機関として、冬季壮丁検査前のものは、就学の義務あるものとし、3部に分ちて義務を受けしむ。青年図書館は大正2(1913)年5月金120円を以て、6坪を建設し、図書を購入し、新聞雜誌の縱覽、貸付、同閲覧の便を図り、農事講習会、部、講話会、総会、例会等により、人格の修養に努め、あわせて会員の親睦をはかりつつあり。会員の訓練方針としては質実剛健を旨とし、勤労を尊び、遊情を戒め、公事を先にして私事を後にし、もって一致協同、公共のことに努めしむ。[9]

 

五郎が会津白虎隊19名の霊を祀るために建立した「会津白虎隊玉川遥拝所」③

 

■持続可能な村づくり

この時代の移民団は組織者の小作人になるかたちが多かったのです。通常は「半分け」と言って原野を開墾すると、半分は入植者の土地に、半分は組織者の土地にして小作料を払うかたちが一般的でした。
 
ところが五郎はそうした方法だと「土着心」が生まれないだろうとして、8割を入植者としました。小作料も平均よりかなり低廉にしています。
 

思ふに移住民の墳墓の地を離れ、速く北海道に来たり。農業に従事するものは、みな相当の地所を所有し、子孫永久の基礎を確立せんと欲するにほかならず。しかるに本道における大農経営の方法を見るに、多くは小作法を用いまれに地所を分与するものあるも、その町步寡少にして、土着心を強固ならしむるに足らず。
 
ここにおいて丹羽は移民に五町步以上を貸し付し、 成功の上、ただちにその八分(四町步以上)の所有権を登記し、その二分(一町步)は永小作地となし。
 
明治四十五年までは小作料反当たり受40銭となし、ともに後は反当たり40銭と定め、容易に増加せざる方針なり。現に今地方普通の小作料は反反当たり3円以上5円、はなはだしくは7円を徴収するあり。大正13(1924)年の不況の作柄にても一人の減免または延期の申し出をなしたるものなし。[10]

 
こうして開拓の第一段階がおおむね成功裏に完了した明治43(1910)年2月、五郎は財団法人「丹羽部落基本財団」を設立し、丹羽家の個人財産であった丹羽村の諸権利を財団法人に移すのです。北海道移住は個人の営利ではなく公益のためだったことを示すためです。
 
また明治41(1908)年には後の「産業組合運動」の先駆けである「無限責任組合丹羽信用販売購買組合」を設立し、営農事業の強化をはかりました。こうして五郎は今の言葉で言う部落の持続可能性を図ったのです。
 
 

■北海道開拓のモデルに

丹羽村は北海道開拓のモデルとなり、後年、五郎は多くの表彰を受けました。これは大正7(1918)年の開道50周年大博覧会で拓殖功労者として北海道長官から表彰されたときの祝辞です。
 

貴下夙に木道拓殖に志し、官暇著述をなして資金を備へ、明治24(1891)年地を瀬棚郡利別に卜し、曾祖父織之丞会津藩家老たりし時、創設したる猪苗代地方千里村字南土より民を募り、開墾に就かしめ、愛無督導至らざるはなく奏功の後、土地を分与して各其の堵に安んせしめ、道路を開き、敎育を盛にし、牧畜養蚕を獎励し、刻苦十年、新に丹羽部落を成し、畝畦相連ること1000余町炊煙相望むもの200余戸、財団法人により部落財產を管理する等、模範村の名殊に著はるその労功洵に称すべき、玆に開道50年記念式を挙げる当たり、その功績を表旌し、ために記念銀杯一箇を贈呈す[11]

 
こうして会津の精神に基づいた村づくりを進め、昭和3(1928)年9月6日、丹羽五朗は77歳で亡くなりました。墓所は今も北檜山にあります。当時としては大往生でした。
 
丹羽五朗が北海道開拓のモデルを示したことで、北海道開拓は大きく前進しました。北海道史の偉人を挙げるとすると第一番に挙げなければならないヒーローです。
 

玉川公園に立つ丹羽五朗像④

 

 


【引用出典】
 1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]丹羽五朗『我が丹羽村の経営』1924・丹羽部落基本財団

①「東瀬棚町史」1953
②会津の百姓/富永地区の歴史 http://hyakusyou-5.world.coocan.jp/index.html
http://hyakusyou-5.world.coocan.jp/rekisi.html
③檜山振興局公式サイト/ひやまを旅しよう https://www.hiyama.pref.hokkaido.lg.jp/ss/srk/tabi/03s_kita/03_rks.html
④瀬棚観光協会公式サイト/ホーム 目的別で選ぶ 玉川公園/http://setanavi.jp/search/sightseeing/01.html
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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