北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

 

 

標津・中標津

乾 定太郎 

 

 
乾定太郎

乾定太郎 (出典①)

 
 
今回の「草分けの人々」は東に飛んで、現在の中標津、標津の一帯を拓いた乾定太郎です。いろいろと北海道開拓者の話を見聞きしますが、この人ほど頭の下がる思いをした人は他にいません。根釧台地の北半分は事実上、この人一人の奮闘努力で拓かれたんじゃないでしょうか。
 
嘆かわしいのは、この人がいなければ標津も、中標津も生まれなかったのではないかと、と思われるほどの功労者なのに、現在、両町のホームページを検索しても、年表の一項目に名前が記されている程度なのです。そうした有り様なので、ほとんどの方はご存じないと思います。まずは『中標津町史』(1981)から引用しますので、乾定太郎がどんな功績があったのか、読んでください。
 
乾定太郎は一八五七(安政四)年一月十七日、徳島雌加茂谷村(現徳島県阿南市)で生まれた。明治二十二年町村制施行とともに若冠三十二歳で村長に就任した。在任八カ年のあと郡会議員となるが、長男の慈夫が現在の士別市で医院を開業していた関係もあって北海道の開拓を志して渡道した。
 
乾の渡道と前後して北海道の移民政策は「国有未開地処分法」が改正され、特定地制度が新しく設けられた。この制度は団体移住が優先することは前述のとおりだが、乾は早速同志を糾合、徳静団体をつくり移住の手統きをとり、十三戸の移民を引きつれ、俵橋十一線に入地した。
 
団長としての乾は、寝食を忘れて飛び回った。十二線と十四線に仮小屋を建てて同志を収容、開拓の鍬を打ちおろしたが、天は恵みを与えなかった。移住してはじめて作付した大正元年は冷害凶作で一粒の農作物も稔らない。しかも、夢を託した翌年も大凶作。移民は糊口に窮する状態に陥ってしまい、春に播いた馬鈴薯を掘り返して食するありさまだった。
 
大正二年一月、北海道庁移民勧誘調査員に嘱託されて移民指導に当たる乾は、根室支庁から離農防止の命令を受け、離農しようとする人びとの慰留に努めた。食糧を確保して配分したり、支庁を動かし救済事業を起こして離農防止に当たった。
 
乾定太郎は33歳で村長になっていますから、徳島では郷士や名主という立場であったのでしょう。恵まれた家柄ですから、いくら息子が士別で医者をやっているからと言って、55歳になってから北海道に渡る必要はありません。
 
北海道開拓も、明治末~大正ともなると、農耕に向いた土地はあらかた入植が済んでいますので、道東や道北の農耕には不向きな場所となるわけです。今となっては常識ですが、当時はそうしたことも分からずに入植して、大変な苦労をしました。
 
乾の功績については『「開拓功労者乾定太郎之碑」を建立したとき発行した「建立の経過」に次のように書き記されている』として、町史は箇条書きで乾の功績を具体的に挙げています。少々長いですが、じっくり読んでいただきたいです。
 

中標津の豊かな大地_その基盤をつくるため乾定太郎は孤軍奮闘した
(出典②)

 
一、明治四十四年九月移住民四十人を引き連れ、その団体総代となって標津郡標津村に移住し、支庁の命によって同村内各所にこれを配置。もっぱら農業に従事す。先人未踏太古の根室原野は翁等の手によって逞しい開拓の第一鍬が打ちおろされ、根室原野の農業はここに創設されるに至った。
 
一、大正元年、翌二年の二ケ年は気候不順にして、未曾有の冷害を現出。一粒の農作物すら実らぬ大凶作に、移住民は糊口に窮し、飢餓に頻するもの続出す。
 
翁は支庁から離散防止の命を受け、慰留に努める一方、食糧を給与し、支庁にも陳情、引き続き救済事業を起して薪炭、山稼ぎなどに努働させたが、薪流送のおり沈下あるいは流失、また資金もままならず、ついに投資全額すら損失するに至った。
 
翁はこの損失を自ら負担し、かくて三年の開墾作付を辛うじて遂行させた。同年は幸い豊作に惠まれ、食糧も充実、その後も大きな凶作はなかったため、移住民はやや心構えを持つようになった。
 
一、大正三年、中標津十四線一号から北標津原野字武佐に至る道路一里半、同四年二十四線一号から北開陽に向け二里あまりの私設道路二本を開墾。移住民を勧奨労働させた。この工事で標津川に大橋二ケ所、その他大小六橋の仮橋を架設(十四線大橋は時の俵長官初めて渡橋これを記念して俵橋と命名した)。
 
翁は労働賃金を除く必要品購入費金物など全部私費で賄った。また標津ー標茶間、厚床ー中標津間道路の新設にも努力し、土木現業所に数度にわたり請願陳情、路線探険踏査などの経費は自費負担し、交通道路の開設整備に尽力した。
 
当時の標津村は、海から船で根室半島岸を迂回して釧路港まで出なければ他管内に通ずる道路なく、冬期間はその海路交通も流氷結氷のため途絶し、想像外の不便であったことが知られている。
 
一、翁はまた移住民児童の教育にも意を傾け、中標津十四線に一ケ所、同二十四線(現在の市街)に一ケ所の教授場を建設した。
 
十四線教授場は立木伐採の利益金を充当して建築。二十四線教育所は関係者の寄付金をもって建築したが、翁は学校関係者の組合を組織し、自ら長となって移住民を勧奨、十四線教授場は大正三年、二十四線は大正八年それぞれ創設された。
 
当時の教員給料その他の諸経費はともに移住部落民が分担負担。翁は収入支出自ら無報酬で引き受け、その他の面でも自費で賄う点が少くなかった。とくに二十四線教授場は一千十五円で竣工させただけに、資材に窮し、国有林を無断で伐採。監督官庁の詰問を禅問答式の対応であっさり片付けたなどの珍話もある。
 
一、大正元年団体総代に選ばれたのを初めとし、第九、十、十一、十二の東六線から俣落に至る四区部長を兼任。同十一年まで十ヶ年間事務経費その他給料旅費に至るまで、一銭の補助も受けず、献身的に開発と部落民の福利増進に尽くした。
 
一、大正十二年、厚床ー斜里間鉄道速成問題の先駆をなし、この請願陳情に上京。一月から四月まで関係官庁に熱意をもって陳情。現地の実情を訴え、厚床線敷設の途を拓いた。この運動の費用なども自費自弁であった。
 
一、その他殖民地発展、交通運輸機関の開設、教育公共事業に進んで私費を投じ、自ら縦横奔走すること枚挙にいとまなく、現在の原野発展の基礎を築いた功績は実に大きいといわねばならない。
 
乾定太郎は、入植者がこの地に定住するために、食糧を支給し、救済事業を起こし、道路をつくり、橋をつくり、学校をつくり、鉄道を誘致しました。ほかにも駅逓所の経営、開拓民のための物資供給のための商店の経営、酪農転換のための乳牛の導入、産業組合の創設など、彼の果たした役割はまさに「枚挙にいとま」がありません。
 
頭が下がるのは、これらにかかる費用のほとんどを自費で賄ったということです。徳島では相当な資産家だったのでしょうが、ここに挙げられている事情を考えると、よほどの資産家でも全財産を注ぎ込むほどの貢献だったと思います。
 
上記の中で、学校を建てるための建設費に窮し、やむなく国有林を無断伐採した話しが載っています。警察への投書によって事件化されたようですが、定太郎の努力は誰しも認めるところで、「告発は一個人の中傷ということで不起訴になった」と町史にあります。これで定太郎が逮捕されようものなら神も仏もいない世の中です。
 
根釧地方の大恩人ですが、あまり資料がありません。まずは町史に基づいて簡単にご案内しましたが、いずれ、もっと調べてご報告したいと思います。とはいえ、どうしてこれ程の北海道の大恩人が、今ほとんど忘れられており、偉人として尊敬されていないのでしょうか? 子どもたちが故郷の偉人として学べないのは、やはり乾が〝侵略者〟だからなのでしょうか? 何か間違っていませんか?

 

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【出典】
『中標津町史』1981・中標津町役場
 
【写真出典】
①『中標津町史』1981・中標津町役場
②幌延町HP >イベント・観光 > 観光情報 > 開陽台
http://www.nakashibetsu.jp/kankou/kankou_jouhou/kaiyoudai/
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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