岩見沢市 北村
北村 雄治
北村雄治(出典①)
北海道では〝草分けの人〟の名前がそのまま、まちの名前になったところがあります。岩見沢市と合併しましたが、空知管内「北村」もそうです。かつて「北村が町に昇格したらどうなるの?」というなぞなぞがありました。北町なのか、北村町なのか・・・。北村はそのままで村の呼称名であるとともに地方自治体名であり、人名でもありました。草分けの人──北村雄治の名字を取ったもので、村の名付け親は吉田松陰門下の長州藩士、内務大臣の品川弥次郎です。以下は『北村村史』(1960)からの引用です。
■名門の跡取り、二度の火災で人生観を変える
北村雄治は明治4年10月8日、山梨県中巨摩郡鏡中条村(現・南アルプス市)の酒造家北村茂丘衛の第1子に生まれた。釡無川の清流の畔りで朝夕霊峰富士を眺めて、すくすくと育って何不足なかった。
小学校を出て東京の中学校に学び、在学中17歳の時、父茂兵衛はコレラに罹り、47歳の若さで急死したので、学業半ばで帰郷、業務を継ぐことになった。父がまだ若くて急死したので、家業のことを聞いていなかったから、醸造事業を叔父に委任した。しかるにその叔父が数千円を使い込んだので、雄治は止むなく家業を引き継いだ。
一冬、灘の本場に赴いて研究し、大いに得るところがあって種々の改良を計画し、名古屋から道具一式と原料米を取り寄せ、大いに将来に希望を持って熱心に家業に励んだ。
しかるに好事魔多しのたとえの如く、不幸に火災にかかり、一抹の不安を感じたが、屈することなく努力を続けた。しかし天の試練というか、悪魔に魅せられたというか、翌年また屋根を焼き抜くだけであったが、火災に遇った。
この再度の災厄は強く雄治の心事を刺激し、その夜、大いに煩悶のすえ、突然ひとつの悟りを会得した。すなわち、現世の財産は浮雲の如し、さらさら当てにならぬ。いやしくも生を天に受けたのだから、生き甲斐ある人生を送り、有意義な事業をして、世に益し、国にご奉行すべし。家業を検討して、何物かを見出さねばならぬ──と一大発願を決意した。
東京の道学者吉野世経に相談すると、彼は大いにその意気と着目に賛意を表したので、時の東京府知事富田鉄之助に謀ったところ
「今、我が国では北門の宝庫開発が急務中の急務である。人と金とを待ちわびているのだ。ちょうど北垣国道が新たに北海道庁長官に任ぜられ、すぐに赴任するはずだ。彼を紹介するから、同道して便宜を乞い、しかるべき土地を得て、北海道開拓の大業に与するが何よりだ」
と諭された。雄治も大いにわが意を得たり。決然としてここに渡道の決心をした。
北村雄治は山梨でも相当な名家の出身であったようです。それは、叔父が使い込んだという数千円(今の貨幣価値では億単位)の金額、鎌倉の別邸、名士との交遊で伺えます。
ちなみに吉野世経(1849-1927)は江戸の漢学者であり、維新後は東京府議長から教育会長や衆議院銀議員などを務めた教育者であり、政治家。富田鉄之助(1835-1916)は元仙台藩士、勝海舟の門下生で、維新後はここにあるように東京府知事を務めたほか、二代目日銀総裁など経済分野でも活躍しました。
北村雄治は富田鉄之助より「北門の宝庫開発が急務中の急務」と言われたことが、「有意義な事業をして、世に益し、国にご奉行すべし」という思いを刺激し、北海道に渡ることになりますが、こうした大志が明治期の青年を北海道開拓に駆り立てた原動力であったことはぜひ覚えてください。これを踏まえないと北海道史は見えません。今の北海道史ではまったく語られないことですが・・・・。
■移住の決意を支えた母の信頼
すべての事業には必ず困難が伴なうものであるが、彼は渡道前すでにひとつの大障壁にぶつかった。それは親戚全部の大反対であった。祖先伝来の家屋敷を空にするのは、祖先に対するこの上もない大不幸だ──との非難攻撃で、ことに他家から嫁に入って来た母に対する父方の猛烈なぶつかりに、母は一言も弁疎の辞もなし得なかったほどであった。
しかし雄治を深く信頼している母は唯々諾々として非難を甘受した。そして雄治の勇敢なる所断を鈍らせないめに、家族に率先して渡道の決意を示したので、事業計画は着々と進んだ。明治25年、雄治弱冠22歳の時のことである。
雄治は年齢の割に相当に頭が進んでいて、東京の吉野世経が経営する蓬原堂塾の塾頭を招聘し、私塾自強館を経営したほどであった。たしかに傑物であった。
また大阪に醸造研究に行った時なども、短月日の研究にもかかわらず、その結果の報告演説は実に堂々たるもので、専門大家をもって任ずる天狗連を驚嘆させた。
こうして決心した雄治は、明治25年7月に北垣長官に随行して渡道し、先ず半年を費して道内をくまなく踏査し、翌26年には3回にわたり渡道して各地を巡回し、11月にいたり、石狩の生振と当地北村とを候補地と定め、ついに北村に決定した。
当時北村は岩見沢に属し、すでに区画地となっていたが、長官の好意で明治26年11月に予定存地に変更の上、150万坪を予約し、翌27年に改めて貸付された。
雄治は前年11月、すでに郷里から藤原大工ほか人夫たちを引き連れて仮事務所を建設して、移民収容の準備をした。そして翌27年の春、山梨からの移民130余名を収容し、同年秋農場の中央部に当る石狩河畔に広大な事務所ならびに倉庫を建設した。
明治28年、29年には山梨、富山外各県から300余名の移住者を収容した。こうして雄治が先ず、移住し、2年後の28年に弟黽、29年に母と子供を連れて移住した。
北村雄治は商人というよりも学究肌の人物であったようです。東京の遊学は道半ばで終わったようですが、相当優秀だったのでしょう、当時の大学者吉野世経の可愛がられたようです。このことが、富田鉄之助、北垣国道という人脈になり、北海道開拓に結実します。それを支えたのは母の、高齢にもかかわず、自ら開拓の試練に飛び込むという強い意思表示でした。
北垣国道は兵庫出身の維新の志士で、維新後は京都府知事として琵琶湖疎水を完成さています。この人は北海道開拓史では大変重要な人物なので、改めて紹介したいと思います。志士として幕末の動乱を駆け巡った国道は北村雄治に若き日の自分を見たのかもしれません。
■志半ば──32歳で北天に昇る
当時は移住に関しての政策は極めて消極的であったので、移住、開墾、小屋掛などに対して1銭の補助も支援もなく、ただ単に移住旅費に対して汽車賃5割引の特典があっただけだった。村内交通機関の道路すらもなく、原始林または湿原であって、経済的にも、事業経営の上からも非常に困難であった。
その上、石狩川の氾濫に悩まされたが、これら悪条件の下にあって孜々として農場経営に努力した。入植者もまた困苦欠乏によく耐えて開墾に組んで涙ぐましいものがあった。
開拓も進んだ明治33年、岩見沢村から分村独立して自治村北村が誕生した。村名は元内務大臣子爵品川弥次郎が北村雄治の姓を取って命名されたもので、村の呼称名であるとともに自治団体地方名でもある。
雄治は明治27年1月厳寒の際に渡道し、かりそめの病が昂じてついに不治の病魔に冒され、明治36年8月7日、相州腰越(現鎌倉市)の別邸に32歳で永眠した。その病養中、妹婿の北村都八が忠実に農場経営に当ったのであった。
墓碑銘(織田定之作)は次のとおりである。
北村 雄治 之 墓
君は北村茂兵衛の第2子、人となり精敏、年17にして父を喪い嗣を承く。明治26年開墾事業を企て、北海道石狩国空知郡に本県及び富山県等の農民100数10戸を移し、荒漠たる原野を拓く。33年附近の地を合併して北村と称す。君病を以て相州腰越の別壁に歿す。年32実に36年8月7日なり。弟黽後を承ぐ
ここに出てくる弟の北村黽(きたむら あきら)は、「空知ホルスタインの父」と言われた五男北村謹と2人で道半ばで亡くなった兄の事業を完成させた開拓指導者です。この人も北海道開拓史の重要人物なので、いずれご紹介します。
品川弥次郎(1843-1900)は、松下村塾で吉田松陰から薫陶を受けた長州藩士で、高杉晋作らとともに幕末に活躍した維新の志士です。薩長同盟の成立の功労者として知られています。維新後は内務大臣や枢密院顧問などの政府の要職を歴任しました。北村の健村と北村雄治には、明治政府中枢から強い関心が寄せられていことが伺われます。
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【引用出典】
『北村村史』1960・北村役場・541−544p
【図版出典】
①『北村史 上巻』1980・北村役場・256p
②北海道立図書館デジタルライブラリー『北村鳥瞰図』1958・北村