北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[むかわ]泥炭地を蘇らせた報徳仕法

 
二宮尊親特集を掲載しましたが、尊親の祖父である二宮尊徳が打ち立てた「報徳思想」は北海道開拓の精神的な支柱になったと書きましたが、『鵡川町史』で泥炭地を報徳仕法によって豊かな農村に作り替えた事例を見つけました。
 

 

■泥炭地に負け脱落者続出

むかわ町の二宮地区は鵡川駅から北に約7キロ、山間の農村地帯です。二宮尊徳の報徳精神によって村の再生が行われ、豊かな村に蘇ったことから「二宮」と名付けられました。
 
この二宮ははじめ「仁立内(にたちない)」と呼ばれていました。その開拓はなにやら「馬追原野」と関谷宇之助を思わせるような始まりです。
 
明治25(1892)年の春、札幌の大江常三郎が日高で馬を買った。鵡川の宿でその馬に逃げられ、足跡をたどって探すうちに仁立内(今の二宮)へはいった。うっそうとした原始林が農耕に適した肥沃な土地であることを知って、いったん札幌へ戻ったが、さっそく払下げ出願をした。
 
翌26年、厚別から広島、福井両県出身の開拓民2戸を誘って入地した。丸太の掘立小屋に、よし葺き、床板なしの大きな土間に焚火をして暖をとった。
 
1戸当り5町歩、成功期限5カ年で無償給付という道庁の貸付制度であった。さっそく伐木にかかったが、米食などは思いもよらず、芋・稗・野菜類が常食であった。
 
明治31(1898)年の大水害につづいて、翌32年は濃霧と冷害のため凶作、そこで斎藤吉太夫は単身稗種子3石程を買い求めて食糧難を切り抜けたという話である。
 
こんな風で開拓初期の苦労は言語に絶する有様だったため、転出する者、離農するものが続出して、初代入植者は殆んど代わってしまった。[1]
 

■至誠報国、憂国の至情

太平洋岸の鵡川は北海道としては温暖で雪も少なく、道都札幌と日高地方を結ぶ要衝でもあり、開拓には好条件が揃っていたはずでした。最初にこの地に入った大江常三郎も最初そう思ったのでしょう。しかし、そこは農耕に不向きな泥炭地でした。
 
そうした不利な条件であっても克服しようと挑む人が現れます。
 
大正10(1921)年、室蘭の医師佐藤富太郎は自ら入地、広大な泥炭地開発に取り組んだ。二宮・田浦の佐藤農場開発の手記はまことに貴重な記録である。[2]
 
不毛荒蕪の泥炭地といわれた入鹿別原野を、刻苦辛酸20年の歳月と巨額の私財を投じて開発した。昭和3(1928)年に5戸の小作人に15町5反の土地を与えて独立させたが、直営農場時代と同様の保護を加えた。[3]
 
多くの入植者が脱落した厳しい泥炭地に挑んだ医師・佐藤富太郎を『鵡川町史』はこう評しています。
 
「至誠報国、憂国の至情を然して国難に殉ずる精神で造田産米に邁進した」と自らも書き残している人となりであった。今日の田浦部落の水田はこの地主に負うところ大である。[4]
 
町史が伝えるのはこのわずかなの記述ですが、佐藤の開拓は私利私欲のためだけでなかったことが伝わります。北海道史ではまったく無名ですが、こうした人こそ開拓者と呼ぶのでしょう。
 

■深瀬校長の「仁立内仕法」

志を同じくする者と書いて同志と読む。高い志のある者には志を同じくする者が必ず現れます。佐藤富太郎の開拓を報徳精神によって導いたのが、仁立内小学校の校長の深瀬広治でした。
 
今なおその人徳を敬慕されているのが元仁立内小学校(現在二宮小学校)長であった深瀬広治である。先生は二宮尊徳精神をもって部落民の教化にあたり、校庭に設置した板木を毎朝未明にたたいて、全部落民に早起きと堆肥の積み込みを奨励し、あるいは部落内を巡回して、その実施状況を視察督励したといわれている。[4]
 
深瀬広治はこのような取り組みを在職10年に渡って続けました。まさに二宮尊徳その人のような活躍でした。
 

■仁立内部落は二宮部落へ

深瀬の「仁立内仕法」によって泥炭地は少しずつ開け、やがて全道的にも表彰されるむらとなります。
 
住民みな勤勉力行、二宮尊徳の報徳精神を信奉実践した。
 
大正12(1923)年1月、田湯善四郎ら卒先して仁立内納税組合を結成、組合員いずれも報徳精神を守って実績を挙げ、村長及び室蘭税務署長から表彰を受ける。
 
昭和15(1940)年11月、開基50年を祝して記念碑を建て、開拓功労者顕彰を行ない、また沿革誌をまとめた。同18年2月11日、優良部落会として道庁長官表彰を受けた。
 
住民は村を蘇らせたのは報徳の教えにあるとして、このことを未来に遺そうとしました。
 
昭和15(1940)年3月、二宮報徳社を設け、同18年の字名改正にあたって旧名仁立内を二宮と改めたものである。[5]
 
『鵡川町史』は「仁立内部落が二宮部落と改名され、町内外に知られる勤勉実直な模範部落になったのも、先生の遺徳によるところが大きい」としています。
 

生涯学習センター「報徳館」(出典①)

以上は『鵡川町史』が二人について述べたほぼすべてです。正直に言えば佐藤富太郎と深瀬広治の結びつきは、歴史家としての筆者の〝勘〟で、町史に書かれていることではありません。
 
佐藤医師の至誠報国、深瀬校長の仁立内仕法──2人の間に協力関係が無いないはずは無い。同じ場所で同じ時に活動した2人の話を想像を交えて結びつけました。
 
むかわ町では、この二宮に道を通した水野戸長の物語【[むかわ町] 入鹿別道路開削 水野戸長の壮絶な死】もあわせてお読みください。北海道のまちは先人の大変な努力によって開かれたことがわかります。
 
現在むかわ町二宮には生涯学習センター「報徳館」があり、こうした地域の歴史を今に伝えています。いずれ機会があれば、「佐藤農場開発の手記」を読み、この小さな開拓物語を探求してみたいと思います。
 


【引用参照出典】
[1]『鵡川町史』1968・962-963p
[2]同上963p
[4][3]同上298p
[5]同上964-965p(一部割愛)
【画像出典】
①むかわ町公式サイト>くらし・手続き>文化・スポーツ・生涯学習>スポーツ施設(鵡川地区)>生涯学習センター 報徳館 http://www.town.mukawa.lg.jp/2637.htm
 
 

  • [%new:New%][%title%] [%article_date_notime_wa%]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。