[札幌市・新琴似]屯田兵、コサック騎兵に包囲される
日本の植民地化を防いだ日露戦争。その帰趨を分ける戦いで大活躍した屯田兵。札幌の屯田兵についても調べてみました。札幌には琴似屯田(明治7(1874)年)、山鼻屯田(明治9(1876)年)、新琴似(明治20(1887)年)、篠路屯田(明治22(1889)年)の4つの屯田兵村がありました。このうち琴似と山鼻は後備役も満期になっていたので対象から外れましたが、新琴似と篠路(北区屯田町の開基)屯田は出征し、二〇三高地の激戦、奉天の決戦も戦っています。中には屯田兵のモデルであるロシアのコサック部隊と戦うという場面もあったようです。このことを報告している歴史書があるでしょうか? また屯田兵の創始者永山将軍の息子を招いて行われた祝賀会の模様など当時の雰囲気を伝えてくれます。『琴似町史』(1956)よりお届けします。
■新琴似兵村から84名が出征
新琴似屯田兵中隊本部(出典①)
明治35(1902)年の日清戦争は、すでに述べた通り、新琴似の屯田兵も臨時第七師団の編成に加して、東京まで出兵して現地には到らずに帰っているが、日露戦争には明治37(1904)年3月31日に後備満期になった琴似屯田は出征しなかったが、当時後備役であった新琴似兵村には、明治37(1904)年8月6日に充員召集の動員令が下った。
相手国のロシヤは屯田兵設置の仮想敵国であり、一面では屯田制度は多くのコサック兵の制度を見習ったもので、因縁の深いものであり、また当時としては世界最大強国の一つであったので、いわゆる国難的戦争でもあったから、出征する屯田兵にしても送り出す家族にしても、並大抵のものでなかったことは想像に難くない。
とくに当時はこうした非常時に対しては兵員の態勢というものが整ってもいなかったので、召集令状が来ても受取人が他へ行っていたり、転居者があったり、それらに連絡するにも郵便局の電報の方が急に間に合わなかったり、更には兵事掛の役場吏員にも来たために、他へ令状は配布しなければならず、自分の事務も引続がなければならないので、実に混乱と困難があった。
これによって新琴似兵村で応召された者は、次の84名であった。
後備歩兵 第25連隊 第28連隊 応召者 (人名略)
後備野戦補充大隊 (人名略)
内地勤務者 (人名略)
■203高地、奉天の決戦に参加
総攻撃中の黄金山(正面)と
203高地(右奥)(出典②)
入隊の当日は、兵村はもちろん各戸国旗を出し、小学生は手に手に小旗を振って、全村の人々に見送られ、旭川の第28連隊に入隊する2名は汽車で、その他は行して各所属部隊へ配属を終った。
8月に召集されて月寒の第25連隊にあった兵員は、10月上旬になって連隊長渡辺大佐の指揮のもとに札幌を出発、10月18日に大連上陸。
満州の天地に極寒の到来せんとする11月16日、旅順の包囲戦に悪戦苦闘していた乃木大将の指揮する第三軍の増員部隊に編入され、203高地の死闘にも、奉天の決戦にも参加して、寒地の訓練に鍛えた第25連隊は果敢な戦闘を展開したが、それだけに戦死戦傷の犠牲も大きかった。
昌円陣地を視察中の大山巌(出典③)
後備歩兵第25連隊に編成された兵員は、真夏の札幌大通付近に宿営して、思い出深い屯田兵旧練兵場で命令の下るのを待機しながら兵武を練っていたが、ついにその年には命令が下らず、年が改まった1月29日に阪井中将の統率する後備第二師団編入となって、厳冬も去らぬ2月7日に札幌を出発。
大阪に2ヶ月余待機の上、4月26日に運送船「博多丸」に搭乗、29日には元山津に上陸した。ここでさらに韓国に駐剳軍(ちゅうとうぐん)に編入され、5月4日に元山津を出発して、威興、城津を経て6月13日吉洲に着、7月4日と8月12日には樟項付近の戦闘に参加した。
この韓国駐剳軍は北韓軍ともいって第25連隊、第3連隊、第33連隊、第46連隊、第56連隊の後備歩兵によって編成された1個大隊と、それに特科隊を配属させた後備帥団であった。
■コサック騎兵に包囲される
軍使を護衛するロシア軍コサック騎兵(出典④)
なお、これより先、後備歩兵の第26連隊と第27連隊とは解かれて、後備第25連隊の第2大隊は、第3大隊と改め、第2大隊は7月25日に札幌を出発して、先発して青森にあった第3大隊と合体し、8月9日に広島から運送船「安房丸」に上船して、16日清津に上陸し、即日蒼坪に向けて出発。8月30日に蒼坪で第1大隊と合体して、ここで後備第25連隊の態勢が完成した。
元第1大隊長として出征していた家村少佐が中佐に昇進して、第25連隊の連隊長の職につき、息つく隙もなく昌斗嶺付近の露軍と対戦することになった。
この時も第25連隊は前衛を進出していたが、8月31日と9月1日には最も烈しい激戦を交え、第1大隊は昌斗嶺の西にある小鳳儀洞というところで、屯田兵の先輩的存在であるコサック騎兵の精鋭に包囲され、10数名の死傷者を出す悪戦苦闘に遭遇した。
しかし露軍の敗色は全体的に覆うべくもなく、ついに潰走したので進撃にうつり、2月3日は会寧付近に陣をひく露軍と対戦、豆満江を挾んで対陣中の9月7日、ついに休戦を告げる喇叭(ラッパ)は、東洋の上に重苦しく覆いかぶさっていた暗雲を振って、久しぶりに平和の生気を取り戻したのであった。
■熱狂する歓迎を受けて帰札
新琴似出身でこの戦争の犠牲になった人々は、明治20(1887)年熊本県から応募した椎木岩彦、同じく中村保鷹、田中徳三郎の3氏と、大分県出身21年応募の山下跳太郎の4氏は屯田兵戸主であり、屯田兵子弟の戦死者は、輜重兵特務曹長であった小野太吉氏と村上稔の2氏、一般移住者の子弟の小山繁七氏で、共に北満の地に不帰の人となってしまった。これら兵村出身の戦死者に対しては、その都度兵村葬をもって葬儀が行われた。
東亜の戦雲がおさまって、満州軍に属していた歩兵25連隊は清河を挾んで露軍と対陣し、北韓軍にあった後備歩兵第25連隊の各大隊は豆満江に対峙して、この平和の光を見たのである。
かくて平和克復の詔勅があり、最前線の部隊から夢にも忘れ得なかった故山に向って、送還輸送が開始された。北韓軍に属していた後備歩兵第15連隊の各大隊は、休戦後1ケ月半、会寧に滞在。10月23日に会寧を出発して26日に清津に着。その日のうちに運送船「笠戸丸」「東郷丸」外2隻に乗船して懐しい故国に向けて出帆。29日に無事宇品港に着。11月4日に広島を出発して、7月25日以来3月半で熱狂する歓迎をうけて札幌に降り立った。
一方満州第三軍に属していた第七師団第25連隊の精鋭は、極寒の満州の冬を過し、2月18日ようやく思い出も多い奉天を出発、凱旋の途につき、桃の節句の3月3日旅順の山野に満州の野に、弾雨に千切れ飛んだ武勲の連隊族を先頭に、渡辺大佐以下札幌駅頭に下り立った。
■永山将軍の嗣子武敏男爵も参加して祝賀会
後備歩兵第25連隊に多く入隊した新琴似兵村では、わが父、わが子、わが夫を迎える歓迎はひとしおであり、兵村では兵員の除隊する日を待って開く祝賀会の開催の準備に忙しかった。この祝賀会に次のような注意書がくばられた。
今回凱旋祝賀会開催ハ我ガ皇軍連戦連勝ノ結果、実二空前絶後ノ盛時二際シ、我々満腔ノ熱誠ヲ以テコレガ祝意ヲ表スルモノナレドモ、当日来賓ニハ男爵永山武敏等二十五聯隊大隊長閣下始メ、各新聞社員等招待致居候間、式場二於イテハ最モ厳粛ヲ旨トシ、宴会場ニハ各員充分歓祝ノ意ヲ尽サレンコトヲ希望ノ至り二候得共、兵村ノ体面ニハ不都合無之様致度候間右為念申進候也
祝賀会場は練兵場に歓迎門をたてて歓迎事務所を設け、それぞれの委員をあげて遺漏なくし、この祝賀会には屯田兵の育ての親永山将軍の嗣子武敏男爵も席に臨んで武勲を讃えた。その後野戦隊補充の兵員もぞくぞく凱旋帰郷したので、その都度凱旋祝賀会が開かれた。
平和克復と共に明治39(1906)年11月に、武勲の将兵には賞勲局からそれぞれ論功行賞が行われた。新琴似兵村出身の中に永末幾太郎、真嶋忠蔵の2氏と、戦死した田中徳太郎、椎木岩彦の両氏の金鵄勲章、その他、勲6等以下勲8等旭日章が各兵員に授けられ、下川貞喜、柿原伝平、白水掬、内川辰太郎、陳野芳三郎、松木清一郎、松木照雄、吉川貞一郎、飯田三平、八木耕一郎、山内次郎の11氏には恩給が授けられた。[1]
■篠路屯田は11名の殉国の士
『琴似町史』は篠路屯田兵の参戦については詳しく述べていません。わずかに次の記述がある程度ですが、参戦の様子は新琴似屯田と同じなので略したのでしょう。機会を見つけて調べてみます。
篠路屯田兵村の記録的なこととしては、日露戦争に出征した人の中に11名の殉国の士があったことであり、これに対しては明治42(1909)年忠魂碑が建立された。その後戦争毎に農村は軍隊の基鍵である語の通り、篠路屯田兵村からも出征軍人も出し、従って殉国の士も出されたことであるが、その記録は審(ことこま)かにはしない。[2]
【引用出典】
[1]『琴似町史』1956・札幌市・243〜248p
[2]『琴似町史』1956・札幌市・262〜263p
【図版出典】
①札幌市公式サイト『札幌の歴史的建造物を旅する「れきけん×ぽろたび」』
https://www.city.sapporo.jp/keikaku/keikan/rekiken/buildings/building38.html
②③④アジア歴史資料センター『日露戦争特別展ー公文書に見る日露戦争−」
https://www.jacar.go.jp/nichiro/frame1.htm