北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

さよなら札沼線

路線撤去を乗り越えた沿線住民の運動を振り返る

 

4月17日、JR札沼線が突然廃止となりました。当初ゴールデンウィーク最終日の5月6日付限りで廃止とする予定でしたが、新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言を受け、急きょ4月17日で廃線となったものです。予定されていたラストランも中止となり、沿線住民は別れを告げる機会を失いました。
 
歴史をさかのぼれば、この路線が沿線住民のねばり強い運動によって生まれ、太平洋戦争中には一度路線撤去の事態に見舞われながらも、〝農村一揆〟に近い強力な住民運動で蘇ったことが知られます。
 
それだけにJR北海道のこの無情な廃線は残念でなりません。別なかたちでも別れを告げる機会を設けることはできなかったのでしょうか。最近北海道、どこかおかしくなってしまったように感じるのは私だけではありますまい。
 
以下『沼田町史』(昭和45年)よりお届けします。
 

札沼線廃止を告げる北海道新聞電子版

 

■30年近い住民運動によって実現した鉄道であった

札沼線路線図1969(昭和44)(出典①)

札沼線敷設の運動は、石狩川右岸地区一帯の開発が急速に発展しかけた明治末期から始められている。
 
すなわち明治42(1909)年ころ関係町村の有志で「石狩川右岸鉄道期成会」を結成、貴衆両院および政府に対し、年々繰り返し請願・陳情を行なっていたが、既設の函館本線と重複するという理由で容易に認められなかった。
 
そこで期成会では国鉄に対する連動を断念し、私設鉄道の計画を樹てたが、これは資金面において実現をみるにいたらず、会長は辞任して一時この運動は中絶の状態となったのである。
 
しかしその後、大正10(1921)年に会長に就任した東武氏(本道選出代議士)を中心に連動を展開した結果、大正12(1923)年第48帝国議会で陳情が採択され、大正14(1925)年第51議会において事業費651万円、8ヵ年継続事業で施工することに決定されたのである。
 
こうして札沼線の計画は決定し、昭和2(1927)年、石狩沼田~雨竜間(23.6キロメートル)を沼田口より着工することとなったが、その際新十津川方面から強い要望が出て区間が延長され、石狩沼田~中徳富間に変更となった。
 
全通までの経過を辿ってみると、当時札沼北線と南線に区分され、札沼北線は昭和2(1927)年沼田口から着工、同6年10月沼田~中徳富間が、同年9月10日中徳富~浦臼間が開通した。
 
また南線は昭和4(1929)年~桑園口から工事に着手、同9年10月桑園~石狩当別間が開通、翌10年10月当別~浦臼間の開通によって札幌~沼田間が全通した。
 
こうして明治の末期から統けられていた札沼線は、昭和2(1927)年の着工以来9カ年の歳月を費やして、昭和10(1935)年全通したのである。30年に近い地域住民の運動によってようやく実現した鉄道であった。[1]
 

■軍よって大部分が撤去されることとなった

札沼線が石狩川右岸穀倉地帯の産業発展に果たした役割はまことに大きなものがあった。しかし第2次大戦がいよいよ熾烈となるに及び、重複路線と認められたためか、この札沼線は軍の要請によってその大部分が撤去されることとなった。
 
昭和18(1943)年9月30日、当別~石狩沼田間の営業を停止して撤収作業が開始され、翌19年7月にこの作業を終わった。撤収した資材は樺太国境の鉄道敷設に向けられたが、この鉄道は完成しないうちに終戦を迎えたのである。
 
また札沼線の撤収したあとには、昭和19(1944)年から省営自動車が連行されていたが、冬期間は積雪のため全く連行休止の状態で、沿線住民の生活に重大な支障を与えた。[2]
 

■復活を求めて再三にわたる陳情運動

昭和20(1945)年終戦とともに沿線町村には札沼線復元の声が高まり、札沼線復元期成会を結成し、早期着工について猛連動を展開した。
 
その結果、当別~浦臼間の復元が決定し、昭和21(1946)年8月着工、同年12月営業を再開することとなったのである。しかし浦臼以北の復元は、予算および資材の都合で容易に実現の運びにいたらなかった。
 
そこで沼田、北竜、雨竜、新十津川の4カ村では、団結して早期復元のため期成会を結成し、運輸省、連合軍軍政部その他関係先に陳情書を提出するとともに、運輸省および連合軍総司令部等に対しても再三にわたって陳情を行った。
 
昭和21(1946)年8月GHQおよび運輸省施設部より係官が現地視察に来町、つぶさに実情を視察した。同年10月には札幌鉄道局長より期成会宛に、情勢に特別の変化がない限り、昭和23(1948)年度より沼田口より着工の計画で予算を中央に要求中である旨の文書が届けられ、沼田町をはじめ北部町村の関係者を喜ばせたのであった。[3]
 

■着工を巡る南側と北側の対立

札沼線の復元にあたり浦臼・沼田のいずれから着手するかについては、早くから間係町村間で意見が対立し、争奪戦が行なわれた。
 
昭和22(1947)年当初、札鉄局長は浦臼口からの着工を言明し、関係町村代表協議の結果、7月には浦臼口からの着工を根本方針として確認し、確認書に著名した。
 
新十津川側にとっては重大な問題で、さっそく浦臼村、雨竜村、滝川町および札幌市と提携し、初めの基本方針どおり、浦臼から着工するよう中央連動に乗り出したのである。
 
こうした南と北の対立が復元運動に悪影響を及ぼしては一大事であるとし、関係5カ町村ではいくどか会合を持ち調整を図ったが、お互い利害相反するこの争奪戦は容易にやまなかった。
 
その後昭和23(1948)年4月、陳情運動のため上京中の青山沼田町長からは「キボウタッセイシタ」という電報も入り、沼田~和間が初年度に施行されることはほぼ確定的なものと思われたのである。
 
しかしながら、政治は生きものというが、南方町村の猛烈な巻き返し工作が功を奏したためか、どたん場になって急転し、昭和28(1953)年4月、浦臼ロから着工、同年11月3月湘臼~雨竜間が開通したのであった。
 
その後、雨竜以北の沼田~雨竜間が開通したのは昭和31(1956)年11月16日で、これによって戦時中撤去されていた札沼線はようやく全線復元の念願が達成されたのである。[4]
 

■猛吹雪のなか、国鉄総裁臨席の全通式

喜びのこの日、北空知地方は30センチメートル以上もの雪がドカンと降った。しかも処女列車が沼田駅に回送されてくる時刻の午前10時頃は烈風をまじえた猛吹雪、約7分遅れて深川機関区から改装されてきた処女列車ディーゼルカーは、この深雪にあえぎあえぎ午前10時30分沼田駅着。
 
今日のよき日にと関係者が花飾りで埋めつくしたせっかくの処女列車の晴れ姿も乱れがちであった。それでも猛吹雪をついて沼田を始発駅として新雪をかきわけて出発した。
 
こうして喜びの処女列車は、昭和31(1956)年11月16日午前10時30分石狩沼田駅を発車、あいにくの猛吹雪をついて各駅の歓迎を受けながら雨竜駅を折り返し、無事に沼田に到着。
 
この処女列車の遅れを気にしながらも、駅ホームで沼田町役場の西森助役は『協賛行事の自転車ロードレースをスキーレースに変更しようか』と冗談をとばすなど関係者は喜色満面、昔あった鉄道がふたたびよみがえって北空知沿線住民の足となれば、全通式が雪に見舞われたところで大したことはないといった表情である。
 
こんなローカル線の全通式に十河国鉄総裁がわざわざ臨席したことに地元では大変な感激の様子。その総裁も11月中旬だというのにこの猛吹雪にあって『ナルホド北海道の冬はすごいネ』と改めて認識を新たにして感にたえぬ表情。それでも上機嫌に、ミス沼田から花束を送られてニッコリ。
 
午後1時からは沼田高等学校で十河国鉄総裁をはじめ、篠田期成会長(衆議院院議員)など約800名の関係者が列して、全通祝賀会が開催された。各町村においても旗行列、音楽演奏、映画会、記念品贈呈等全通を祝う祝賀行事が繰りひろげられたのである。
 
もっとも大吹雪のため、1カ月前からこの日のためにと訪問飛行、ロードレース、音楽更新など多彩な行事がたてられていたが、あえなく中止となった。[5]
 

札沼線(出典②)

 

■復元なしで〝オラが村の繁栄はない〟 血と涙の陳情を続けた

以下は当時の新聞が伝える喜びの表情である。
 

大東亜戦争の犠牲線として地元農民の切なる嘆願も空しく、昭和19(1944)年夏当時の軍部に強制的に撤収された札沼線は、このほど12年ぶりでようやく復元、久しく文化の恩恵から取り残されての孤島と化していた沿線町村に明るい希望の灯が点じられた。
 
きょう16日は沼田町で十河国鉄総裁ら関係者多数列、処女列車による全通式を初め、盛り沢山な行事が全町民歓呼の中に催される。以下復元で賑わう沿線の今昔をペンとカメラで追ってみた。
 
札沼線は留萌線沼田町と札樽方面を結ぶ唯一の路線で、その誕生は今から26年前の昭和6(1931)年秋に当時未開地の多かった北空知の原野を処女列車が汽笛一声高らかに北方文化開拓に一翼を担って邁進した。
 
年々交通機関の発進で沿線には部落が形成されていくほど、地元民にとってはこの鉄路が文化の飛脚でもあり、新しい時代を吹き込む使徒でもあった。
 
その後13年もの平和な年月を経た昭和19(1944)年、突如軍部から大東亜戦争を勝ち抜くために必要資材として、沿線の人たちには何よりの財産であった鉄路が強制的に撤去されてしまった。
 
冬季間ともなれば、積雪の多いの沿線は途端に足が失われ、馬ソリが唯一つという開拓当時の貧弱な姿に戻ってしまった。吹雪の間は子どもたちは学校にも通えず、新聞・雑誌、その他娯楽面も外部と遮断されて、文化の恩恵に浴していた人たちは島流という暗い日々に追われる運命となった。
 
この路線撤収で当時北空知で繁栄を誇っていた北竜村も急激に寂れ出し、現在ではわずか数10戸を数える凋落をみせている。
 
忌まわしい大東亜戦争も終わった22年には沼田、北竜、和など3町村が復元なしでは〝オラが村の繁栄はない〟として力強く立ち上り、以来毎年政府、国鉄に血と涙の陳情を続けた。
 
時には3万近い沿線住民が復元を願って著名運動を展開するやら、当時の占領軍最高司令官であるであるダクラス・マッカーサー元帥あてに英文の嘆願陳情を行なうなど、その姿は「溺れる者藁をもの」の例えで、明けても暮れても札沼線復元の叫びであった。
 
10余年にわたって農村一揆にも似たこの運動は一昨年ようやくメドがつき、浦臼から新十津川、雨竜までの復元が決定、工事が着手された。そして今春雨竜~沼田間18キロの最後の線が着手され、10月末一度失われた鉄路は以前にもまして立派な姿で再現された。
 
住民たちは「赤錆びたレールをこんなに懐しく思ったことはない」と復元をみた今、率直にこう語っている。
 
モダンな駅庁舎も各地に建てられ、沿線の表情はは日一日と明るさと希望に満ちあふれている。復元を祝うアーチが沼田から雨竜までの随所に飾られて、陸の孤島だった北竜村一帯は新しく生まれ変ろうとしている。[6]


【引用出典】
[1]『沼田町史』1970・690p
[2]『沼田町史』1970・691p
[3]『沼田町史』1970・691・694p
[4]『沼田町史』1970・691・694p
[5]『沼田町史』1970・694~697p
[6]『沼田町史』1970・696p
 
①鉄道ホビタスhttp://rail.hobidas.com/blog/natori/archives/2015/07/23_15.html
②新十津川町公式サイト>風景
http://www.town.shintotsukawa.lg.jp/kanko/detail/00000509.html

  • [%new:New%][%title%] [%article_date_notime_wa%]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 当サイトの情報は北海道開拓史から「気づき」「話題」を提供するものであって、学術的史実を提示するものではありません。情報の正確性及び完全性を保証するものではなく、当サイトの情報により発生したあらゆる損害に関して一切の責任を負いません。また当サイトに掲載する内容の全部又は一部を告知なしに変更する場合があります。