[滝川市・江別乙]救国の英雄 屯田兵、日露戦争二〇三高地の激戦を戦う
北海道開拓で多大な貢献をした屯田兵ですが、今やその功績はほとんど語られていません。しかし、戦前は日本の英雄として多くの国民からリスペクトされていましたし、屯田兵は道民の誇りでした。
屯田兵は兵農一致の開墾部隊として知られますが、北海道もとより全国でその存在が大きくなったのは明治32(1899)年の屯田兵制度終了後です。明治37(1904)年、日本を植民地化の危機から救った日露戦争で屯田兵は第7師団に招集され、乃木希典指揮する第3軍の主力として、戦勝を決定づける英雄的な活躍を見せたからです。屯田兵の戦いを1958年の『江部乙町史』からお届けします。
■日露戦争開戦
明治二七・八年戦役後における極東の状勢変化に伴い、我国と露国との間に意見の確執があって、ついに事態は悪化し、明治37(1904)年2月6日国交は断絶され、2月10日に至って宣戦の大詔が下された。
日露戦争関係図(出典①)
ここにおいて我が陸海軍の全面的行動がとられたのであるが、韓国に在った先発部隊と後継部隊と合して第1軍を編成し、陸軍大将黒木為禎司令官としてこれを率い、5月1日にはついに鴨緑江を渡って九連城へ進出した。
この時、陸軍大将奥保雅の率いる第2軍は、遼東半島の塩大澳に上陸し金洲城を攻略し、5月26日南山を攻めて激戦、ついにこれを占傾した。その後、露軍の情勢変化によって第3軍が編成され、軍大将乃木希典がこれを率いた。第3軍は南山攻撃部隊の1部と新着部隊をもって編成されたのである。
これより先5月19日、陸軍中将川村景明、第10師団を率いて遼東半島大狐山に上陸し、第1、第2軍の間を連絡しながら北進した。後陸軍大将野津道貫これを統率して第4軍団となったのである。
この後6月24日、元帥陸軍大将大山巌が満州軍総司令官となり、陸軍大将児玉太郎総謀長に親補せられた。
かくして戦線はますます拡大し、死傷者の数も多数に上ったので、その補充が急務となり、国内の予備役、後備役にある者はもちろん、補充兵、国民兵にいたるまで漸次召集せられたのである。
■屯田兵招集、第七師団として戦場へ
明治37(1904)年8月7日に至って第七師団は充員召集を命ぜられた。
我が江部乙屯田兵も召集に応じ、旭川あるいは札幌に到着し、死をともにせんと誓った戦友は、三々五々相別れて補充隊に入り、あるいは後備隊に入り、所属を異にして毎日練兵にいそしみ、出発の日を待ったのである。
一度動員令に接するや、全村の兵員ひとしく鍬を投じて軍に従ったのであるが、後に村内に留まるものは幼老婦女子のみで、兵員の家郷を辞する刹那の光景は言うに忍びないものがあった。
この生別はやがての死別、心いかに強くとも彼等もまた有情の人、悲壮の色面上に溢れ、眼底一滴の露を宿さないものはなかった。
屯田兵は召集せられて軍に赴いたが、我兵村は現役を満了してようやく4年、兵員は皆28歳から25歳までの壮者で、家事、農事において一家の柱石、村治においてもその基幹をなす者のみであった。
残るは老幼婦女子のみ。心強くも励まして送り出したが、前途を思う時、心安かでないものがあった。
しかし断固として意を決する時、意気昂然として勇往し、万難を排し、隣保相扶け相励まし、老人も自ら鍬をとり、婦女子も馬を駆って農事に精励し、青年は火気、盗難その他不時の災害に当るため自警団を組織し、其の他児童の教育を守り、納税の義務の履行に努めるなど、平素と少しも変るところがなかった。
振り返っては見る我が家の棟、見送って立つ妻子の姿、当時を追憶して悲壮の光景に想いをいたす時、実に感慨深きものがあることであろう。
■屯田兵、「二〇三高地」の激戦を戦う
戦況ますます進んで、満州においては南下の大軍を沙河に迎え撃ってこれを破り、ついに奉天に会戦してその雌雄を決せんとする状況となり、この会戦はただ日時の問題となった。
ちょうどその頃、すなわち明治37(1904)年10月末に至って、我が第七師団中野戦隊は先発として屯営を出発、室蘭で乗船、青森に上陸、大阪に向い、大阪港から満州の野に向けて出帆、旅順の包囲軍に加わった。
(第七師団に充員召集せられた者は、補充隊と後備隊とに分れ、補充隊に編入された者および後に至って後備隊からその半数を補充隊に編入せられた者は、満州軍として出征し、後備隊に編入せられた者は北韓軍として出征したのである)
江部乙屯田兵員はだいたいにおいて満州軍に配属した者、および北韓軍に配属した者との二つに分れるのであるが、前述10月末に出征した者は満州軍に属した者のうちで先発部隊となって、野戦隊として旅順の包囲軍に加わったのである。
時は11月の下旬であって、11月末から12月初めにかけて乃木大将の率いる包囲軍として「二〇三高地」の戦闘に参加したのである。
■屯田兵、奉天決戦の死闘を戦い抜く
しかしてこの軍は旅順陥落後、直ちに北進を開始し、奉天戦に参加の行動をとったのである。すなわち2月上旬、予定の地点に達し、東南は遼陽の線より西北は大子河の線にいたる約12里にわたる距離に長蛇の陣を張った。その任務は満州軍の左翼部隊たる奥軍と連なり、最左翼軍として迂回行動軍の役割を果すこととなっていたものである。
大迫 尚敏(おおさこ なおはる)
元薩摩藩士で陸軍大将。永山武四郎の
跡を継いで第7師団長になった。日露
戦争では乃木希典の指揮する第3軍に
編入し、元屯田兵を率いて203高地の攻
撃、奉天会戦を指揮した。(出典③)
この迂回兵団は、大島軍を右縦隊とし、大迫軍を中央縦隊として、飯田軍を左縦隊として進んだのであるが、大迫軍はわが第七師団をもって主力としていたもので、本村出征兵もこの大迫軍に従ったのである。
3月10日にいたって奉天の大会戦も終局を告げるにいたったので一応戦局は小康状態に入った。かくして従軍以来1年半、その間筆舌に尽することのできない苦難と戦ったことはいうまでもないことである。
本村屯田兵中には北韓軍に従った者も相当にいるが、本軍に従った者は明治38(1905)年2月7日及び7月28日の2回に分れて出発し、韓国清津に上陸した。8月31日、9月1日にわたる昌斗嶺付近の戦闘に参加し、続いて9月2日3日会寧付近の戦闘に激戦奮闘した。
二〇三高地を奪取し旅順を落とした日本軍は奉天でロシア軍と決戦に臨んだ。明治35(1905)年2月21日、対峙した両軍の先端が開かれた。27日元屯田兵を主力とする第3軍が敵右翼を撃破したことで、戦局は大きく日本有利に傾いた(出典④坂の上の雲ファンサイト > 軍事 > 奉天会戦 http://www.sakanouenokumo.com/houtenkaisen.htm)
■帰村、全村挙げて帯勲者の偉観を呈した
かくて我が江部乙屯田兵は凱旋することとなったが、早きは明治38(1905)年11月、遅きも明治39(1906)年3月に至って復員帰郷した。
その凱旋に際しては、日本国民は挙って、涙の中に、喜びの中に、狂気の如く歓迎した。本村においてもその歓迎ぶりは非常なもので、心からの喜びであり、心からの抱擁であった。
全村500戸余りの中から、三百数十人の戸主が、最愛の父母妻子に別れて1年半、九死に一生を得ての逢瀬である。迎うる者も涙、迎えられる者も涙、ただ感激のるつぼであった。
明治39(1906)年3月、北辰校運動場において盛大に凱旋祝賀会が催された。かくして功を論じ、賞行われるや、叙勲賜金の恩賞に与からない者なく、全村挙げて帯勲者の偉観を呈した。
明治39(1906)年戦勝記念碑の建設の議起り、南北両兵村から270円その他の寄附金を以てこれの費用に充て、三沢為吉、野町正禧、東倉長太郎、佐藤郁之助、小杉善之助委員となり、神社境内に建設せられた。
ロシアの脅威から日本の独立を守り抜いた日露戦争で、天下分け目の激戦地を主力として戦ったのが屯田兵でした。日露戦争の勝利は、今私たちの想像を遙かに超える喜びを国民にもたらし、従軍した戦士は英雄となりました。日本国土の〝外地〟だった北海道の屯田兵が国を救う活躍を見せたことで、北海道の名誉も高まります。そして英雄としてリスペクトされた屯田兵は各地の指導者としてまちづくりの中心に立ちます。
このよう北海道150年の歴史を振り返るとき、屯田兵と日露戦争の戦いは絶対に外すことのできない史実ですが、戦後の北海道史研究者たちは〝屯田兵の賞賛は戦争の賛美につながる〟として徹底した無視を決め込みます。そうして今北海道で屯田兵の活躍を知るものはほとんどいなくなりました。
北海道開拓の復権を目指す「北海道開拓倶楽部」では、この屯田兵の戦いを継続して追いかけていきたいと思います。
【引用出典】
『江別乙町史』1958・江部乙町・245-250p
①Wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/日露戦争
②『日露戦争旅順要塞戦祈念帳』1905・大日本海軍部嘱託光村写真部撮影・47p(国立国会図書館デジタルコレクション)
③『日露戦役記念写真帖』須藤市左衛門 編・1907(国立国会図書館デジタルコレクション)
④坂の上の雲ファンサイト > 軍事 > 奉天会戦 http://www.sakanouenokumo.com/houtenkaisen.htm