北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[旭川]北海道護国神社の創建 (上)

 上川に明治天皇の離宮を設けるべし

 

北海道護国神社①

あけましておめでとうございます。「北海道開拓倶楽部」の新年恒例企画(といっても2回目ですが)は、初詣でお馴染みの道内著名神社の創建由来。昨年の北海道神宮に続いて今年は旭川の北海道護国神社を紹介します。上川地方の鎮守は上川神社ですが、護国神社の人気はこれを上回ります。なぜ旭川に北海道護国神社があるのでしょうか?

 

■ライマン、上川盆地を絶賛する

旭川市の護国神社の由来を紐解く時、旭川市の来歴まで遡らなければなりません。

 

ベンジャミン・ライマン①

北海道でも最深部にある旭川盆地の様子が明らかになったのは、明治5(1872)年の高畑利宜の調査以降です。この調査によって有望な土地であることが明らかになると、開拓使は明治7(1874)年、御雇教師ベンジャミン・ライマンを派遣し、詳細な調査を行わせました。
 
明治7(1874)年6月17日に札幌を出発したライマンは7月11日に神居古潭に入りました。地質学者であるライマンは、神居古潭が地質学的に貴重な蛇紋岩地帯であることを発見し、世界の学会に発表。神居古潭が一躍知られる契機となりました。
 
12日に上川盆地に足を踏み入れたライマンは、ここはインドのインドの聖地カジュメアに匹敵すると激賞し、天皇の御幸を仰ぐべきだと報告書にしたためました。ライマンは、アメリカ・マサチューセッツ州の出身ですが、ドイツのフライブルク鉱山学校で学び、インドで石油調査を行った経験の持ち主でした。
 
かくて余輩は、茫漠たる平原と森々たる樹林ある平坦消爽なる地方に来れり。此地は遠山殆ど囲続し、石狩岳は正束に当りて盛夏なほ白雪を戴き、余輩の眼前に聳え、その土壊の肥沃感ずるに余りあり。真に日本のカジユメア(印度ボンジアブ州)内に有り、古来称して天富の国という)称すべし。明年若し、天皇陛下札幌に行幸せらるることもあらば、是非、石狩上川まで竜籠を進ませられざるべからず。[1]
 

■岩村通俊、上川に北京を置くの儀

開拓使において上川開拓に意欲を燃やしたのが岩村通俊判官でした。上川盆地開発の端緒となった高畑利宜の探検を命じたのも岩村です。開拓使判官島義勇が野に降った後、開拓行政の中心を担った岩村は、高畑の報告、ライマンの調査を受けて、上川盆地開発に意欲を燃やしますが、上司である黒田清隆開拓使長官と意見が合わず、開拓使を去ります。

 

岩村通俊③

その後、岩村は佐賀県令、山口裁判所長、鹿児島県令などを歴任し、明治14(1881)年には会計検査院長となりますが、その職責において上川を北京に定めて植民局を置き、大規模な開発を行うことを政府に建議しました。
 
この後、開拓使は廃止され、北海道三県時代に入りますが、開発が進んでいない北海道で本州並みの府県制を布くのは時期尚早で、北海道開拓はこの時代に大きく足踏みしました。
 
この状況を中央から見ていた西郷従道・山形有朋は連名で、三県に代わる植民局を上川に置き、全土を統一して統治することを内務大臣三条実美に建議しました。
 
これを受けた三條実美は、明治18(1885)年、大書記官金子健太郎に命じて、上川盆地を含む北海道全域的の調査を行わせます。有名な金子建白書です。三條実美は、北海道三県の廃止と北海道庁の設立を決め、初代長官に岩村通俊を任命しました。
 
北海道を離れても上川開拓に意欲を示していた岩村です。初代北海道長官として明治18(1885)年8月15日に札幌に着くやいなや、19日には上川に向けて出発しています。27日には上川入りし、明治天皇の離宮を設置する「北京を上川に置くの儀」をしたためて政府中央に上奏しました。
 
謹みて白す。通俊さきに会計検査院長を以て北海道を巡視し、北京を上川に建設し、殖民局を置いて以て之を管するの議を上書、以て通俊十数年の素志を述ぶ。
 
札幌より汽車にて幾春別に至り、幾春別より空知太に出ずるに十里二十六丁、皆平野にして少しく工夫を加うれば、すなわち善道たるべく、空知太より神居古丹を経て上川に至る十四里もまた然り。
 
ただその神居古丹に出ずるの前に内大部山あり。道をその腹に作ってこれによらざるを得ず。然れどもその山、高からず、里程もまた短近なり。もし更に実測を経ば、その烽密起伏の間、おのずから、平坦、以て路と為すべきものあらん。
 
そもそも路を無人の境に作るや、川によるは陸によるにしかず、陸によらばすなわち沿道、招かずして人集り、土田、またおのずから開けん。これまた通俊の余意なり。
 
それ、上川の地勢は彼の如く、道路の便利なることかくの如し。伏して請う、廟議、速かに決して殖民局を上川に置き、以て北京をおくの地と為さんことを。[2]
 
このように上川開発に意欲を燃やした岩村長官でしたが、政敵である黒田清隆が明治21(1888)年、第2代内閣総理大臣になると、再び北海道長官の職を追われました。
 

■二代目永山長官 離宮構想を引き継ぐ

岩村通俊に続いて北海道長官になったのは黒田清隆の腹心である永山武四郎でした。永山は黒田清隆と同じ薩摩藩士の出身で、屯田兵制度の生みの親として知られます。第2代北海道長官に就いた時も屯田兵本部長との兼務でした。

 

永山武四郎④

北海道は黒田清隆を首領に抱く薩摩閥の天下となりますが、2代目長官永山武四郎は岩村通俊の上川開拓の情熱を引き継ぎます。長官となって最初の訓示で次のように伝えたと言われています。
 
本道の開拓は内部よりせねばならない。ことに上川の開拓をもって急務とする。海岸地方の如きは従来の方針によって間接に指導誘致すれば良い。この方針に反対するものはよろしく速やかに去るが良い。[3]
 
永山長官は北見道路の完成を急ぎ、永山屯田、東旭川屯田、当麻屯田と、矢継早に屯田兵村を上川盆地に設置し、開拓のアクセルを踏み込みます。
 
永山長官にとって、上川盆地に明治天皇を迎えることは悲願であったのでしょう。明治21(1888)年9月に上川盆地りした時、次の歌を残しています。
 
上川の清き流れに身を注ぎ 神楽の日に御幸仰がん [4]
 
この歌は上川神社の社宝として今も大切にされています。
 

■天下の人心を北海道へ帰順せしむる

そして永山長官は、明治21(1888)年11月14日、上川離宮建設を正式に内閣へ具申しました。
 
護んでおもんみるに、凡そ治国の要務は、富強を謀るより急かつ大なるはなし。方今隹家日に開明の域に進み、富強の実具さに举り、また議すべきなしといへども、大いに慮ばかるべきものは、ひとり北海道開妬の挙たり。(中略)
 
今ここに大障碍を除却し、人民を誘導して以て富源を開通し、国力を発逹せんと欲せば、北京を北海道に設定し、天下の人心を北海道へ帰順せしむるに若くはなし。その設定すべき地を選ばんとならば、石狩国上川郡の地をもっとも可なりとす。
 
上川郡の地勢たるや、ほとんど全道の中央に位し、四面山を带び、沃野数里にわたり、束は釧路に連り、南は十勝に接し、北は天塩・北見両国に接して、天塩川に出づるの便を有し、国境皆山あり、すこぶる要害の地勢を占むといえども、また道路を開き鉄道を架するに難からざるなり。(中略)
 
都下炎熱の候、竜籠この地に巡狩せられ、至尊玉体の御健康を衛らせ給ひ、また親しく拓地殖民の事業、経営の顛末状況を叡覧あらせられるときは、人民の環状更に深きを加へ、粉骨挺身、以て至仁の恩旨にへ奉るベきのみならず、天下民心の帰趨するところ大いに定まり、移住を嫌厭したる迷夢はたちまちに消滅し、千里の波濤、比隣もただならざる習慣を馴致すべきは、毫も疑いを容れざるなり。[5]
 
このように、永山長官には、上川に明治天皇の避暑地を置くことで全国の注目を北海道に集め、遅々として進まない北海道開拓を一挙に前進させようとの想いがあったのです。

 

上川離宮予定地⑤

この時の総理大臣は永山の元上司で元の開拓使長官黒田清隆。明治21(1888)年12月28日、岩村・永山2代にわたる熱意が明治政府に届き、次の通達が道庁に下されました。
 
北海道石狩国上川郡の内に於て、他日ー都府を建て、離宮を設けられるるに付、夫々計画施設すべし。[6]
 
こうして数年のうちには上川盆地に明治天皇の避暑宮が設けられることになりました。
 

 
 


【引用参照】
 
[1]『旭川市史・第1巻』1959・387-388p
[2]同上・404-405p
[3]同上・413-414p
[4]同上・414p
[5][6]同上・418-419p
①北海道護国神社公式サイト:http://www.hokkaido-gokoku.org/?page_id=102
②https://en.wikipedia.org/wiki/Benjamin_Smith_Lyman#/media/File:Benjamin_Smith_Lyman_1917.png
③北海道立文書館
④https://ja.wikipedia.org/wiki/永山武四郎
 

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