北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【島牧村】賀老開拓の記録

三次にわたる挑戦と敗退

 

北海道開拓倶楽部では、数々の入植者を紹介してきましたが、基本的には成功し、現在のまちむらの基盤となった人たちでした。もちろん、開拓に失敗した人たちもいます。数から言えばその方が多いかもしれません。ここで紹介するのは島牧村賀老部落の記録です。

 
 
島牧村賀老地区は、「日本の滝100選」にも選ばれた「賀老の滝」で有名ですが、現在は無人で、キャンプ場があるだけです。この地に開拓入植が始まったのは明治42(1912)年、秋田団体が入植しました。しかし、この地域は春夏を通じて濃い霧が覆い、作物の育成に適さない土地でした。くわえて交通の便、水の便が悪く入植者を困らせました。
 
明治42(1909)年から44年にかけて23戸が入植しましたが、大正10年までに全滅します。続いて大正15(1926)年から昭和6(1931)年にかけて79戸が入植しましたが、昭和初年の連続凶作のために離脱が続き、昭和17(1942)年までに全戸が引き払いました。
 
戦後の昭和31(1956)年から58戸の入植計画が進められ、翌年18戸が入植しましたが、昭和46(1971)年までに離農したようです。このように賀老地区では3度にわたって開拓に挑みましたが、すべて失敗に終わりました。次は『島牧村村史』(1990)に掲載された賀老地区開拓史ともいうべき鈴木正二氏の手記です。秋田団体の団長として鈴木氏は明治45(1912)年に入植した父について渡道し、最後まで賀老地区に残ったひとりでした。
 

 


■佐竹藩士族の子として

明治45年4月、私は当時9才、弟4才、父母に連られて秋田能代駅を後にした。今の東能代駅で乗り替え、一路北海道に向かった。
 
出発に際し生家で父母が本家の人々と水盃を交し、遠く松前の出立の別れだと言って涙を流していた。私は子供心にも由緒ある、刀箱、槍、兜、沢山の軍書を見たり、その上に正月のおそなえを飾るのを見た記憶があり、後日、当地に渡り、成長した後、父より我先祖は秋田佐竹侯の武将にして士族なり。しかしして御維新を迎えて、禄を離れたが、代々一族は主家を中心に、300有余年、武を練り、腕を磨き、家臣を大切に仕えてきたが、この度北海道に渡り、1戸当5町歩の土地を開墾することとなった。
 
その土地にはたくさんの樹木が生えていること、また春には鰊の大群が押し寄せて来ることなどを聞いて、父は同志をまとめ、10数戸の団体長として、渡道した経緯を聞かされた。
 

■賀老へ

函館は当時東北の大都会と聞いていた。青森桟橋より乗船の際、玩具の刀が欲しくて何回もねだったが、買ってもらえなかった。船内は乗客と貨物でいっぱいで、加えて大しけでゆれ動き、母は船酔いで閉口したらしい。函館に着くと大艀にタラップで降りるとき、真白い服を着た船員が一人ひとり大事に手を取って下ろしてくれた。
 
北海道の汽車に乗り、黒松内駅で下車し、月越山道を注いて本目村のヤマサキ旅館に1泊し、翌朝1升の米を炊いてもらい、12箇のおにぎりを私が背負い、海沿いの道を急いだ。
 
永富の渡しに差しかかったとき、道を急ぐのに母は足を止めて磯海苦を馬の皮を剝ぐようだと言ってたくさん採り、千走川に差しかかるや雪融け水で、今の3倍も4倍にも達する水量であったように思われた。千走川橋が流失した、と後で聞いた。
 
父母は親子4人の生活用具を背負い、10余里の道を山坂、海岸伝いに、また子供を背に川を渡り、川添えに千走温泉の向いを、当時「203髙地」と呼ばれていた急な山道を登り、賀老へと向った。
 
その日は、部落会長でもあり、賀老教育所の先生である小川七次郎さん方に泊り、翌日、開墾地の賀老3線4一番地に出かけたところ、道も無い四面林の賀老部落からほぼー里も離れた最奥地。新潟県から入殖していた土田久米造さんから庭筵(むしろ)2枚を借り、木を伐り、竹を刈り、柾(まさ)の木皮を縄とし、仮小屋を建て住むことになった。
 

■開拓の始まり

木や竹を伐り倒し、蛇や蚊、ブヨに刺され、血のにじむような歳月をかけて4町8反2畝歩を開いたが、成功検査で合格に至らず、父はこのことを非常に残念に思い、85歳で去るまでわが家の将来を案じていた。
 
開拓地での生活では、住居が出来上ると、父母は朝暗いうちから起き出して、開拓に専念した。
 
私は秋田県観海尋常小学校2年の1学期の始めに転校してきたのだが、持って来た教科書は用が足りなかった。部落の中央にある賀老教育所は、原歌尋常小学校の分校で、麦わら屋根であった。言葉の違うのに困ったが、次第に馴れていった。
 
賀老川と千走川の間にある開拓地だが、高台地のため水の便が悪く、2斗樽を背負って沢水を汲みあげるのが私の日課で、2斗樽に半分程入れ、坂道を登れば、ゴポン、ゴポンと前後に揺れ動き、調子を取るのが大変であった。
 
この当時30余戸の入殖者がいたが、水の不便なのは皆同じであった。水の使用にはまず主食である燕麦か麦をとぎ、とぎ水で食器を洗い、その水を学校の掃除用として貧乏徳利に入れ、残ったのが洗泡、さらに防火用水に、作物に、と大切に使用された。
 
通学は1人で2キロ3キロと続く根曲り竹の中を歩いた。ときに子うさぎ2匹を捕え、大切に飼っていたが、一五夜の晩に山に逃げ帰えるといわれた通り、逃げられて不思議に思ったことがある。
 

賀老の滝①

 

■開拓地の暮らし

大正2(1913)年は、開拓地ばかりでなく全道的に大凶作に見舞われ、収穫物も無く、開拓を断念する人も現われた。救済金品も配られて鉛筆などを貰った記憶もある。
 
この頃に賀老殖民道路の工事が行われていて、ある時、労務者の角お鉢に御飯の入ったのを持って、私に、「めんこいから水と交換して来れないか」と言って来た。私は、父母に誰が来ても「水をやっては駄目だ」と言われていたが、これに応じた。くれてやった分量を、粘土と岩の間から滲み出ていたカエルの卵の浮いている水で補った。
 
大正4(1915)年7月、私の3番目の弟が生れたが、難産に効用があると聞いて、部落をまわって、大麦を求めるやら、父は千走まで、とりあげ婆さんを馬で迎えにゆくやら大騒ぎであった。
 
12歳頃の秋、10人程で千走川に鱒の追網漁に出かけ、それ以来、川釣りが楽しみの一つとなった。時には夜となり、淵に落り込み、ずぶ濡れになるなど、また15歳頃、友人と行ったときは、夜半に帰って父母に心配をかけたこともある。
 
食事は、イナキビ、菜豆を入れたものや、食用えん麦で、米飯は正月とお盆だけ。砂糖は黒砂糖だが、ほとんど買うことがなく、父の煙草は「はぎ」(40匆24銭)だが、ふだんは「なでしこ」(40匆20銭)の刻み煙草で、よく教育所の隣りにあった商店とは、名ばかりの日下商店に買いにやらされた。
 
塩は3銭・5銭と買っていた。あるとき10銭玉を失くして大いに叱られた。その当時、麦刈りに人を頼んでの賃金は50銭が最高であった。大正3(1914)年の殖民道路のとき、賀老入口の旭橋の下から石を集め、貨金として30銭もらった。上級生でも同じ額を貰った人はいなかった。大人1日の賃金50銭の頃だ。
 

■大戦景気と不況

大正5・6年頃、第一次世界大戦の影響で雑穀が暴騰したが、入植70有余戸が雑穀に雑穀を2俵、3俵と積み込んで、千走の仲買人に出荷した。大豆1俵が20余円で、これで米1俵と砂糖・煙草を買ってなお釣銭が残ったが、その後大不況が続き、大正10(1921)年頃までに入殖者全戸退散へと追いやられた。
 
学校では、田崎先生が、札幌で行われたスミス飛行機の宙返りなど黒板に書いて見せてくれた。当時、私は6年生となっていたが、イタチをつかまえて教室に持って行ったら、先生が慌てて「そのまま投げれ」と、隠して逃がしてしまったが、その時、嚙まれた左手親指の傷はそのまま残っている。その当時、覚えた紀元節の唱歌は、今でも思い出すことができる。
 
部落の集りを寄合(よりあい)と言って、その伝達は教育所の児童生徒があたった。そのほか、さらに奥地に人殖した元東京の新聞記者であったという常永嘉吉宅へ雨の日も雪の日も新聞を届けた。あとで古新聞をもらって読むのが楽しみであった。当時は娘を売りとばしたとか、暗い記事が多かったように思われた。
 
麦、燕麦、菜豆、稲黍(きび)などを食べ、大豆、馬鈴薯、菜豆は戦時中、火楽に相当するほど大切なものといわれ、入殖地に澱粉工場が2カ所もできた。いま、それらの人々はみな去って淋しいかぎりだ。
 

■炭焼きの里

この当時、炭焼きが主な仕事で、ベコガマと称し、牛頭型のカマで1週間を要して一度に80貫を製した。後に角ガマになり一度に200貫を製するようになった。
 
積雪の多いときに力マを落し、丈余の雪を除けて炭を取り出したこともあり、1年に3度もカマを落し、ある時などは運搬に使う馬そりに従っていた子馬が飛び跳ねて落すこともあった。
 
試し秤りには石の分銅を用い、12貫くらいと知りながら、もう1塊おまけと増量し、これが1俵25銭、さらに冬は人力で運ぶので、運賃が50銭、千走渡し価格は75銭80銭となった。値上りして1俵2円50銭となったとき父は永豊の警察に高過ぎると叱られたのを知っている。
 
また子供心にも人情が無い仕打ちと思い出されるのは、大正7(1918)年頃、麦と大豆で麹も入れずにつくった正油の代用として使っていたのを税務署が調べ出して処罰されたことなど。
 
賀老殖民地は10年毎に入殖しては離散を繰り返しているように思われる。時には30余戸で木炭生産組合を作り、千走に倉庫を建て、船で小樽へ出荷し、発展したかに見えたが挫折した。
 
私が18才の時(大正10(1921)年5月)、貿老より最後の下山者となった。
 
第三次入殖の時、私は賀老地区の発展を保証すると言明したが、前轍を踏む結果となった。賀老は目下無人となり、今後は狩場山を望む高原と登山道、瀑布の規模を誇る滝などの憩いの地、観光の地として、世に出ることでしょう。数千万円を投じた開拓地は、水源地の廃屋のみが残っている。
 


【引用出典】
『島牧村村史』1990・550-554p
①島牧村公式サイト https://www.vill.shimamaki.lg.jp/

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