[湧別町上湧別] 日露戦争 留守兵村の証言
嫁さんなんかは髪の毛を切って神さんに供えたり
お百度りをして武運長久を祈ったりしていました
昨日、久美愛病院の物語をお届けしましたが、このことを調べるために『上湧別町史』(1998)を読んでいたところ、日露戦争で湧別屯田が出征した後の兵村の様子が詳しく紹介されていました。先の大戦でも多くの道民が出征しましたが、屯田兵はその性格上、一度召集がかかれば戸主全員が一挙に兵村を離れてしまう。こうしたことは日本の歴史の中でも屯田兵だけではないかと思います。
そして彼らが向かったのは二〇三高地──。湧別屯田の戦死者は戸主全員の1割にあたる32名、傷病者は100名以上。こうした苦難を全村民が共通の経験として乗り越えたことが、北海道で初めての農民による病院「久美愛病院」を生んだ原動力だったに違いありません。なお、この物語は最後に明治の北海道の自然は戦争よりも苛酷だったことを教えてくれます。あえて注釈を付けません。『上湧別町史』「日露戦争と屯田兵」をお読みください。
■動員命令下る
戦地での湧別屯田(出典①)
日露戦争が始まったのは、明治37年2月10日であった。兵村時代は終わっていたが、全ての戸主たちには後備役の義務が課せられていたから、家業を捨て故郷を離れて戦列に加しなければならない日が戸主たちを待っていた。7師団に動員命令が下ると同時に、湧別兵村にも召集令状が届けられた。それは、麦焼きの煙がたな引く、明治37年8月4日のタ刻であった。
「令状によれば8月30日までに旭川、または月寒の聯隊に入隊しなければならなかった。令状を受け取ってからは出発までに麦の取り入れを終わろうと思い、毎日麦焼きをやりました」(何部四郎談)という事で、8月4日からは連日夜半まで、麦焼きの煙の絶え間がなかった。
普通の村では村内の全家庭から出征者が出るということは無かったが、兵村では戸主全員出征しなければならなかった。村内の全家庭の中心人物が、生きて再び帰れるかどうか分らない戦場に向かうのであるから、かねて覚悟のうえとはいえ、悲痛の思いが村内に流れたということである。清水彦吉の次の話が戸主たちの気持ちを物語っている。
現役が終わってから1年もたっていませんし、私等も若く、兵隊気分が残っていたので元気いっぱいでした。しかし、留守中の家の事を考えると収入の少ない時代でしたから、出来るだけお金を残して置いていこうと思いまして、出征する時も途中の宿賃ぐらいしか持たなかったですね。一緒に行った他の戸主もみなそうでした。
■出発の朝
出発当時の様子について家族たちは次のように話している。
関トエ(南兵村3区)談
当時は盛大な立ち振舞とか、大東亜戦争の時のように学校生徒、婦人や一般の見送りなんかありませんでした。家族と兵屋の門柱の所で「行ってります」と別れました。腰に弁当をさげ着物の裾をはしおって帯にはさみ草履ばきで行く人、屯田解隊の時に払下げを受けた古軍服を着て行く人、さまざまでした。ちょうど隣の村まで用たしに行くような姿でした。見送る私たちにしても、戸主のいないこれからの畑仕事や、まだ小さい子供を育てることや、家計のことを考えるとそんなことで頭がいっぱいになり、泣くどころではありませんでした。
若杉萩3郎(北兵村2区)談
戸主が出発する前の夜は、井戸組の人たちや極く親しくしていた同県の人たちに来てもらって、心ばかりの酒を出して武運の長久を祈りました。同じ日に出発する人は、北兵村なら15号線の中隊本部のあたり、南兵村なら開盛橋(25号線)のあたりに集まって、全部そろって出発しました。
道は白滝の北見峠を通って行ったんです。私は六号駅逓(現在の野上変電所)まで送って行きました。あれから向こうには誰も行きませんでした。かなりの人が6号駅逓まで見送りに行っていました。戸主さんたちは「ロスケは大きいから、たまが良く当たる」とか「ロスケのひょろひょろ弾なんか当たるもんか」とやら、それはそれは元気のよいもんでした。
福田すえの(南兵村1区)談
開盛橋まで見送りに行きましたが、別れる時は顔には出せないが、やっぱり心では泣きましたですよ。屯田市街の青年会の人たちは太鼓や笛を吹いて見送りに来ていました。
■戦地からの手紙
こうして入隊した戸主たちは、やがて、満州と北鮮に派遣された。戦況については新聞(北海タイムス、小樽新聞等)が唯一の頼みであったが、新聞を購読している家は部落中でも数戸しかなかったので、人づてに戦況を聞くのが慰めであった。それにまさる喜びは、戦地から届く軍事郵便であったことは言うまでもない。平野嘉吉(南兵村2区)は岩手県の義兄にあてて、次のような便りを寄せている。
9月3日出しの御手紙来着ありがたく拝見しました。段々秋冷の季節となりましたが、姉上様始め益々御壮健の由、何よりの事とよろこんで居ります。
私等、広島出発後、城津に上拍。8月16日清津へ上,それより稗下村、起川洞村、許古園村、蒼坪林、ぜんけ(ママ)より村等の各地へ、天幕審営を営みつつ、重き背裏を背負って、14里の道を行軍し、同月30日当聯隊の軍旗授与式施行せられ、同月31日より後備第2師団に編入本部となる。
同日師団は豊古山占領のため行動を起し、9月1日より戦闘に参加致しました。同月2日中嶋村より前衛となり、午後より砲戦始まり、同夜は火石洞村に露営して、3日朝午前4時小豊山1帯の高地を占領する目的にて出発。同日正午までにて各高地の占領を了えました。
其の日は朝より大雨降り続き、腹巻よりふんどしまでも、上から下まで、しっぽり濡れたままに小哨に任ぜられ、愚拙は下士哨を命ぜられ、会寧の道路の警戒を、ぷるぷる振い乍ら此の夜を明しました。全く此の如く満1日以上も雨にうたれ、風邪だにも引かぬなり、平素姉上様や其許殿の御信仰して下さるためと深く感謝に堪へません。
同月7日午前4時、休戦の命令下り、今でて1ケ月振りで韓人の家屋に宿営することが出来ました。会寧占領後は師団本都、旅団本部等当地へ遷り、我等その西北方約1里余、煙台洞という村に宿営して居りますが、南京虫とのみと家屋の臭いのには閉口であります。毎日忙しくておりますから、貴殿から宜しく申して御礼を願います。
後備第2師団 出征後備歩兵18旅団 第25連隊第3大隊第9中隊 歩兵軍曹 平野 嘉吉 明治38年9月18日
この手紙に書かれている戦況は、休戦命令が出されたころの北朝鮮方面の状況である。この他に当町の屯田兵が加した戦場では、激戦中の激戦として歴史にも有名な「二〇三高地」の攻撃戦がある。
■隠居が留守兵村の中心として活躍
上湧別ふるさと館JRY(出典②)
管内に保存された屯田兵屋(出典③)
屯田兵への思いの強さが伝わる
家庭や村の中心である戸主たちが全員出征したので、村内は全く淋しい空気に包まれたと言うが、いかに兵村という性格を持っていても、これは当然のことであろう。そのような兵村の生活をなんとか活気づけようとしたのが戸主の父親たちであった。一度は隠居したが、若がえって留守兵村の生活の中心として活曜した。
戸主たちが召集されると、今まで戸主たちが勤めていた各部の部長(部落会長)は、全部落が戸主の父親たちに代わっている。部長は女と子供たちしかいない留守家族の相談相手になったり、字の書けない者の代筆をして戸主への慰問文を書いたり(兵村会計で筆耕料を払って関亀7郎等に慰問文を代筆させ発送している)。また、戦地からの手紙を読んでやったり、手不足や病気のため農作業の遅れた家のために労力奉仕を呼びかけて手伝うなどして、留守兵村を守るために懸命の努力をした。
関トエ談
戦争が始まると、だんだんと米の値段が上がってきましたので、部落会長をしていた五ノーの和田さんの父さん、四ノーは南亭さん、三区は関亀一郎さん、二区は志方文十郎さん、この人たちが相談して1円ぐらい安く買えるようにと考えて、みんなから申し込みをとって内地から直接買い入れました。ところが商人にじゃまされて湧別浜に着くはずの荷物が紋別に揚げされてしまい、運搬賃がかかって思わぬ出費となり、ここに着いた時は8円ぐらいになってしまいました。逆に1円ぐらい高いものになってしまったんです。申し込んだ人たちに高く売るわけにもいかず、世話した人たちが、その分をかぶったということです
樋口てじゅう談
部長(今の部落会長)さんたちは、泥棒とか押売りに特に気をつかっていたようです。戸主がいないからでしょうね。四ノーなんかは部落の入ロに「旅芸人と行商人は入るべからず」と立札を立てたということを聞いています。
という話が、その一部を物語っている。また留守兵村について若杉萩三郎はこう語っている。
戸主が召集されて困った家もあったでしょうが、私のとこなんかはあまり困らなかった。戸主は毎日練兵に出て畑作事をしていなかったから、あまりあてにしていませんでした。女の人は、嫁さんなんかは髪の毛を切って神さんに供えたり、お百度りをして武運長久を祈ったりしていました。そりゃ熱心なもんでしたよ。部落の神社などは、毎夜おりの人がたえませんでした。
旅順や奉天が陥落した時は、浜(湧別市街地)で新聞を見た清水藤次郎さんが、馬に乗ってあちらこちらと知らせて回った。そうして青年会の会員に鉄砲の代わりに棒をかつがせ、モンぺに赤い布で作った線を付けさせて、湧別までお祝いの行軍をさせました。また、神社拝やら、小学生の灯提行列などで大騒ぎでした。
■全戸主の1割が戦死
帰村した屯田兵(出典④)
召集された丘士たちは戦争が終わると、大から旭川の第七師団に帰還し、そこで帰宅の旅費を受け取って召集解除になった。応召入隊の時は、全員が白滝の北見峠を越えて入隊しているが、帰村の時は旭川から名寄まで鉄道で、その後は馬等を利用して紋別を経て帰村する経路と、白滝を通って帰村する経路があった。北見峠は雪があると通行できなかったから、帰村する時期によってこの二つに分かれたようである。
ともかくどの経路をたどろうと、無事に帰還できた者やその家族たちの喜びは大きかった。しかし、それに比べて戦死者の家族は、戦勝祝賀の催しさえも涙の種となったということである。
戸主の戦死者は32名で、戸主全員の約1割に当たっている。その外に病没者9名、傷病者は100余名の多きにのぼった。その中でも佐野藤作(北兵村1区)の遭難死は帰村途中の出来事であっただけに、全村の同情を集めたといわれている。
■嗚呼 北見峠!
その時、佐野藤作と同行した諸橋忠太郎(北兵村1区〕は次のように語っている。
わしらが、なぜ危険な北見峠を越えたかというと、わしらは召集解除が遅れて帰りが遅くなったもんだから、1日でも早く帰りたかったんです。あの道は郵便しか通らんとこですから、名寄回りで帰るつもりだったが、佐野が「北見屯田の連中が通っているから大丈夫だ。それに途中で様子を聞いて、もし通れないようだったら、比布に回って汽車に乗ろう」ということで、木下藤吉(北兵村二区)と3人で出かけたんです。
途中で北見峠を越えて来た人に会ったんで様子を聞くと、よい道で心配はいらないということです。中越の駅逓に着いたのが昼の12時ごろ。天気もいいし道もいいので、昼飯を食べるとすぐ峠をのぽり始めました。
だんだん上になるにつれて雪が多くなり、暖かいもんだから解けて、ずぶずぶとぬかるんです。峠を下るころになると疲れが出てきましてね。腹もすいてくるし、もう3人そろって歩けないんだ。それでもう駅逓(奥白滝の八号駅逓)が近いから、もう1里半(6キロ)ぐらいの所でしたね。先に着いた者が駅逓の人に頼んで、むすびを持って出迎えてもらおうということで別々に歩くことにした。
木下は元気がよかったから、どんどん歩いて1番初めに下りて行った。わたしは2番目、佐野は疲れがひどく1番あとから歩いて来た。そのうちににわか雨が降ってきましてね。それが大きな雨なんです。道の雪がとけて、ぬかること、ぬかること、それはひどいもんでした。木下よりちょっと遅れて駅逓に着きました。それが翌日の朝です。ひと晩中眠っては歩き、眠っては歩き、まあ眠りながら歩いたようなもんです。
駅逓の人はすぐ迎えに行ってくれました。やがて手橇(そり)に乗せられて(諸橋忠太郎が)帰って来ましたが「死んでいます」と言うんです。それから、びっくりして火にあたらしたり、人工呼吸をしたりしても、だめなんです。仕方がないから埋めて帰って来ました。まったく気の毒なことでした。
日露戦争もその後の戦争と同じようにいろいろな悲しい思い、つらい思いを人々の心に与えている。戸主たちが帰村してくると、各部落では戸主たちの無事帰還を祝う凱旋祝いが盛んに行なわれた。ほとんどが部落神社の境内で行なわれ、部落民総出で祭り以上の賑わいであった。
南兵村1区では熱狂した若い婦人が全裸になって踊るほどであった。大国ロシアに勝った祝いであり、戸主の生還を祝う祝宴であるから、盛大であったのは当然であった。それはまた、戦争の暗さ、悲しさ、つらさに対する別れの宴でもあった。
ふるさと館JRYに展示された屯田兵の肖像画(出典⑤)
日本肖像画界の大家である馬堀法眼(まほりほうげん)によって全兵士382人分が描かれた。屯田兵が日露戦争で日本を救った英雄だったということを理解しないとこうした絵がなぜ描かれたのか理解できない。
【引用出典】
『上湧別町史』1968・336-342p
【写真出典】
①『上湧別町史』1968・338p
②③⑤湧別町公式サイト>トップ> 施設情報 > 教育文化施設> ふるさと館JRY(ジェリー)https://www.town.yubetsu.lg.jp/50shisetsu/2kyoiku/jry.html
④『上湧別町史』1968・341p