北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

熊と開拓 (上)

こうした惨事に開拓にいかに苦労があったのかしのぶのである

 

全道各地で熊の出没が跡を絶ちません。今年これまでにヒグマによる死傷者は9名となり、記録が残る昭和37(1962)年以降最多となる見込みです。もともと北海道は熊の楽園。北海道開拓は熊との戦いでもありました。市町村史に残る熊の話題をお届けします。
 

開拓期の熊狩(小清水町)

 

■風連町 明治末

『風連町史』(1967)の「風連の熊」は、風連の草分けの人で後に衆議議員にもなった近藤豊吉の伝記『拓北の偉丈夫』から風連市街地区で起こった事件の概要を次のように伝えます。
 
熊は風連市街が相当開けてからも出た。これは鉄道が通ってからのことで少し後の話になる。下多寄から3~4人で1頭の大熊を今の風連小学校の辺に追い詰めたことがあった。ここまで来ると線路が通って明るく開けているので熊は逃場を失ってしまった。
 
渡辺という男が木に登って「あっちに逃げた。こっちに行った。それ打て、打て」と合図をしている。その時、下多寄25線で飲食店兼農産商をやっていた小林という勇敢な男が、熊の前に回って今まさに鉄砲の引き金を引こうとした瞬間、猛り立った大熊はウオーと咆吼するや猛然と小林に飛びかかり、前足で襲いかかった。ソレッと打ち掛かったが、下手に打てば小林を打つ、逡巡しているうちに毒爪は容赦なく身体中に突立てられた。
 
木にいた渡辺は大あわてに市街に飛んでいって、この急を告げ回った。井戸を掘って水替えをしていた高橋市太郎が、泥だらけの手足のまま、晒木綿を抱えて一目散にかけつけると、小林は虫の息である。「おい判るか? 俺だッ」小林は「ウン、大丈夫だ」「早く包帯してくれ」と気丈である。
 
傷口を巻いて松本海門の家の裏に担いできて、名寄から舟橘医師を呼んで手当をした。桶谷弥平と高橘市太郎は旭川の病院に連れていく準備したのであったが、交通も不便で時間もかかり、出血多量のためついに絶命した。
 
この熊はその場で射止めたが、身長9尺に余る老獣で肉も非常にうまかったそうだ。このように開拓当時に人、畜の最大の脅威は熊であったが、その後も熊狩の話はたくさんある。発見すれば獲らずにおかなかった。原始不斧の密林に入り込んだ猛者連中のことだから、その意気と胆力はまた格別であったろう。
 
以上は近藤豊吉の伝記『拓北の偉丈夫』からの概要紹介ですが、町史の編集者は、町史編さんのため風連市街と下多寄地区で開かれた「古老座談会」で、この熊事件を話題にしたところ、詳細が明らかになったとして、次のように補足しています。
 
熊を獲った場所は今の風連小学校附近である。その時のハンターには小林、渡辺のほかに国本(お菓子屋)と、伊藤直四郎らがいた。
 
小林は、はじめ1発打った。タマは命中したが、熊は倒れなかった。2発目を撃とうとしていると手負い熊は小林を目がけて猛然とおそいかかった。2発目は国本が撃ったが、ひるまなかった。伊藤は勇敢にも鉄砲でメツタ撃ちにして叩きのめしてしまった。
 
熊の皮を剥いで、広げてみたら8畳敷くらいの大物だった。熊に喰われた小林は足に肉がついてなかったというほど痛ましい姿であった。獲った熊を解剖してみたら、油肉のため鉄砲のタマが心臓までとどいていなかった。
 
伊藤が熊をなぐり殺したという鉄砲が今なお下多寄の水上喜久治宅に保存されてある。火繩銃というのか村田銃というのか、よくわからないが旧式なもので、今ではサビついて用をなさない。鉄砲というよりは鉄棒である。すごく重いものである。その銃身は熊を叩いたために曲っている。これは余程の力が加わらなければ曲らない代物(しろもの)である。[1]
 
 

■大樹町 昭和初年

続いては十勝の大樹町の事例です。痛ましい事件が起こると、熊取名人といわれたアイヌが先頭に立って熊を追い詰めました。
 
この話は大樹町が広尾町から分離した翌日のことでちょうど40年前のことで、当時村中をわかせた熊取物語りである。当時の模様を手にとるように語る長老の言葉づかいは真剣そのもので、又それに加した浜大樹石井長次の声も力が入っていた。
 
現在の更生より下芽武、芽武、萠和方面は昔は芽武部落で開拓民も少なく、未だ柏樹を中心とした密林が多く下草は丈余の高さにひろがっていた。
 
被害をうけたのは戸枝三次で、戸枝乙吉の3男で当時18歳の青年であった。当日、兄仁作20歳と共に裏手の台地に飼料になる草刈に出かけた。元気な兄弟は別々に草刈に精を出した。昼近くなったので、兄が「昼だぞ──」と2、3回呼んだが返事がなかった。
 
離れていたので、一歩先に帰ったかも知れぬと、1人で帰ったが、家にもいない。昼食をすませても帰らない。そのうちに来るだろうくらいに思っていた。
 
家の人達があまり気にかけなかったのは、三次青年の部落は2、3戸くらいで友人がいないので、時々、浜の漁場に遊びに出かけ泊ることもあったので、その日も気にかけなかった。
 
ところが翌朝になっても帰らない。そこで家の人たちは急に不安になった。その時、兄仁作は「そういえば草刈中に妙な声を聞いたようだ」と言いだした。さては──と家人が馬に乗って裏の台地に駆けていくと、突然草むらから巨熊がおどり出た。肝を潰さんばかりに逃げてこのことを部落民につげた。
 
下芽武には当時コタンがあって熊取名人のアイヌ人西村吉次郎がいた。先頭になって部落民総出で銃をもって現場にむかった。
 
一撃のもとに射止めようとしたが手負となって海岸方面に逃げ出した。そこで、日方浜から浜づたいにアイポシマ(地名)に追いつめたが、逃げ場がなくなり、海中に飛びこんだ。
 
熊は泳ぎが上手で、沖に向かった、小舟に乗って近づくと逆襲してくる。そのうち、松本健六の撃ち込んだ1発が命中して見事に射止めた。最後のとどめを父の戸枝乙吉が打ち込んで事件は終わった。
 
この巨熊は三次青年の肉体を食べつくし、血にまみれた着物が残っていた。部落の人たちは家人の嘆きを見るに忍びず、涙とともに心から冥福を祈ったのである。
 
明治31(1898)年に阿部寅市一団がこの地に入植して30年目にあたっていたが、海岸近くの部落でまだこうした惨事があったことは、昔の人々がいかに開拓に労苦があったかをしのぶのである。[2]
 
 

■増毛町 昭和10(1935)年代

熊の犠牲になった話が続きましたが、戦い抜いて辛くも生き延びた事例が『増毛町史』に報告されています。熊に襲われたら懐に飛び込め──と言われます。その方法は有効のそうですが、実際にできるものでありません。『風連町史』が言うように開拓者の「原始不斧の密林に入り込んだ猛者連中のことだから、その意気と胆力はまた格別」でした。
 
沢口豊吉は昭和初期朱文別笹沢に入殖した。ある年の(昭和12、3年頃)夏、彼は田んぼの中で妻と一緒に並んでヒエ抜きをしていたが、いつの間に妻とはぐぐれてしまった。彼は歌を歌いながら1本1本取っていた。彼にしてみれば自分の後には妻がついてきているものと思い込んでいた。
 
誰れやら後について来る気配がある。が、別に何んとも考えていなかった。やがて彼は腰をのばして「オイ、一服するか」と後について来てているはずの妻に声を掛けてて振り返った。
 
彼はキッと立ちすくんだ。彼の後からついて来たものは3才くらいの大熊だったのである。熊の方もビックリしたらしい。熊は両手をあげて彼を目がけてて襲いかかった。
 
彼はとっさに身をひるがえして飛鳥のごとく熊のあごの下に組み付いた。両者は組んつほぐれつして、田んぼの中をころげ回った。ようやくにしてこのことを知った妻は非鳴をあげて、そばにあった馬の鈴を打ち鳴らした。
 
この騒ぎを知った彼の田んぼより約200mくらいのところに約20人くらいの土方たちが土工事をしていたが、誰れ1人として助けにいく者はなかった。激闘30分、熊は彼をはなして薮の中に逃げて行った。彼を助けに行ったものはやはり彼の妻であった。彼女はけなげにも鎌をひろいあげて熊を打ったという。熊と取り組んだ彼よりも妻の方がひどい怪我をしていた。
 
後日彼は語る。「あの時は無我夢中でした。熊と取り組んでいるうちにこう考えた。俺れは何も持ってない。人間だって熊だって急所があるはずだ。その急所とは金玉だ──と思って熊の金玉のあたりを探したが、金玉がない。金玉がないところを見れば、これはメスだ。よし、穴の中につっこんでやれ──と。彼は目茶苦茶に穴という穴に手と足を突っ込み、そのあたりを蹴り上げた。さすがの熊もこれにはって、彼を放したものという。彼は焼酎を呑んでは得意げに話していたが、昭和46(1971)年この世を去った。[3]
 
 

 


 
【引用出典】
[1]『風連町史』(1967)71p
[2]『大樹町史』(1969)810-811p
[3]『増毛町史』(1974)1254-1255p

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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