北海道の名づけ親は松浦武四郎なのか? ①
蝦夷地道名之儀勘弁申上候書
北海道環境生活部が「北海道みんなの日に関するアンケート」についてのアンケートを行っています。7月17日は「北海道みんなの日」となっており、明治2年7月17日に松浦武四郎が蝦夷地の新名称を明治政府に提案したことが、この日の由来です。松浦武四郎は「北海道の名づけ親」となっています。
一方、蝦夷地が北海道と改められ、正式に政府から告知されたのは同年8月15日です。「道民みんなの日」には、平成から令和への改元を、5月1日ではなく「元号に関する懇談会」に6つの元号案が提示された3月27日とするような不自然さがあります。
8月15日を押しのけるほど、7月17日は決定的だったのでしょうか。そもそも本当に松浦武四郎が名付け親なのでしょうか? 検証してみます。
まずは、どのような経緯から北海道と命名されたのか、振り返ってみましょう。以下かは北海道史の基本資料である「新北海道史 第3巻」(1971)の記述です。
明治元(一八六八)年三月二十五日の蝦夷地に関する岩倉の策問の中で、「蝦夷名目被改、南北二道被立置テは如何」との一条があり、この条項に対して格別の意見がみられなかったことは既述した。
(中略)岩倉策問では、この問題に関しなんらの意見もみられなかったが、新政府は元年四月十七日に達示した蝦夷地開拓七か条の中で、後日蝦夷の名称を改めて南北二道を立て、新たに国を分けて名目を定めることを明確にうたっていた。またさきにふれた岩倉具視の元年十月二十一日の建議のなかにも、蝦夷地に国名を付すべきであるとの項目も含まれている。
このような動向の中で種々審議がなされ、二年八月十五日にいたり「蝦夷地自今北海道と被称、十一箇国に分割、国名郡名等別紙之通被仰出候事」(太政官公文録)と布告された。
この国郡の設定とその命名に際しては、松浦武四郎の意見がもっとも大きく作用していたことはいうまでもない。松浦は七月十七日に道名に関する意見書を提出して、日高見・北加伊・海北・海島・東北・千島の六道を提示してその由来について説明している。
続いて国名および郡名に関する意見書をもそれぞれ提出し、国名については、渡島・後志・石狩・胆振・日高・天塩(または出塩・出穂)・十勝(または刀勝)・釧路(または久摺・越路)・根室・北見・千島の十一か国をあげ、またその由来を述べている。この松浦の蝦夷地の道名・国名および郡名にいたる詳細な意見を基礎として討議を加え、八月十五日の公布にいたったのである。
北海道開拓は、明治元年3月9日に明治天皇が、総裁・議定・参与の三職に下された「蝦夷地開拓ノ可否」の勅問から始まります。3月25日、議定として事実上の首相職にあった岩倉具視は、これを受け、蝦夷地統治の基本方策を策定するため当面検討しなければならない問題として
① 新政府の地方統治機関としておいた箱館裁判所を今後どうするか?
② 箱館裁判所の人事、総督、副総督、参謀に誰をあたるか?
③ 蝦夷地の名前をどう改めるか?
の3策問を17名の参与(閣僚)に検討するように指示しました。
岩倉具視②
『新北海道史』は「17名のうち4名は『何モ別考無之』と、具体的意見は述べていないが、他の討議の多くは、第2条の総督以下の人選問題に集中している感がある」(同上)と述べ、北海道の新名称について特に意見はなかったと言っています。そしてすぐに榎本武揚率いる旧幕軍が箱館を占拠した箱館戦争により、この問題はしばらく棚上げとなります。
明治2年5月17日、榎本軍は降伏し、箱館戦争は事実上の終戦となりました(正式な終戦は22日)。そして明治天皇は5月21日に閣僚を呼び出して、❶皇道興隆、❷知藩事配置、❸蝦夷地開拓について御下問されます。当時の通信事情を考慮すると、箱館戦争終結とほぼ同時であり、三勅問のうち❶と❷が明治政府の根幹であったことを見れば、いかに明治天皇が北海道開拓に強い意欲をお持ちだったかがうかがえます。
明治天皇の三勅問を受けて北海道開拓への検討が、前年に提起されたままになっていた岩倉の三課題に沿って動きます。まず6月4日に議定中納言鍋島直正が蝦夷地開拓督務に任命され、6月6日に実務管理として島義勇、桜井慎平、松浦武四郎らが蝦夷地御用掛に任命されます。7月に入って開拓使設置の実務が始まります。岩倉具視3策問のうち①と②が動き出すのです。
松浦武四郎②
③の蝦夷地の改名について、松浦武四郎に案を出すように指示のあったのは6月6日に松浦が御用掛に就任した日か、そう遠くないうちでしょう。松浦武四郎についてはあらためて説明はしませんが、北海道に地名を与えるのにこれ以上の適任者はいません。このとき松浦は、北海道の名称ばかりではく、国郡名もあわせて案出するように指示されました。近代的な行政を北海道に敷くために、その基盤となる地名・住所の確定はマストでした。
こうして松浦は、6月17日にまず渡島国、胆振国、日高国、石狩国、十勝国、釧路国、北見国、千島国からなる国名案を政府に提出。つづいて7月17日に北海道の新名称と郡名を提案しました。北海道の新名称が提案されたのは「蝦夷地道名之儀勘弁申上候書」と題された書類で、「左の六道等如何と奏存候、右内何卒御採用被為在度候間」として次の六案を提示しました。
④
日高見道
景行天皇二十七年春二月 武内宿禰自東國還而奏言 東夷之中有日 高見國 日本紀
三十二代崇峻帝四年八月 狗襲發矣於狗襲有威人名日雄猛狼也
カ當百人略當千人撃國人成王遂望日高見發兵撃陸奥重竹青爲表練牛皮為裏合之造甲胃塗毒於矢先
北加伊道
夷人自呼其國 日加伊 加伊 蓋其地名 加伊 其人鬚長故用蝦夷字 其實非唯取鰕而名之也
(参考熱田大神縁記頭書伊藤信民参考奉鼎校讀 但縁記は寛平二年之書なり)
加伊と呼事今に土人共互にカイノーと呼 女童之事をカイナチー 男童之事をセカチー又訛てアイノーとも近頃呼なせり 頭書之説實に能かないたりと言べし
海北道
海北之文字は國典には差當り考候出所無御坐候得共 至極津輕南部にて内地之地勢と一葦水を隔候事故是亦可然奉存候
宋順帝昇明二年(我雄略帝二十二年) 倭國王武( 異稱日本傳日帝傳大泊瀬幼武令單言武蓋修字單稱也) 遣使上表日 封國遍遠作藩 于外自昔祖稲環甲冑跋陟山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國 王道融泰廓出遐幾云々 宋書
海島道
海島道之儀國典には心當り無御座候得ども 差當り相考候には 國之東境接海島夷人所居身面皆有毛 宋史
東北道
東北道之儀古典には無御座候得共 新井筑後守君美著す蝦夷志中に日蝦夷在東北大海中依山島為國此出所と存候は
竊觀國於東海之中者非一而日本最久且大其地始於黒龍江之北至於我濟州之南與琉球相接其勢甚長厥初所々保聚各自為國 海東諸國記 按此書明成化七年申叔舟撰
千島道
千島道之儀 千島は前申上候通り 杜氏通典千夷居東夷九種之一意 我千島蝦夷
この中の「北加伊道」が採用されて、「北海道」に改められたということが定説になっています。しかし、「海北道」「東北道」「海島道」があるのに、「北海道」がないことが不思議でなりません。
【引用参照文献】
『新北海道史』北海道庁・1971
蝦夷地道名之儀勘弁申上候書は、「空知地方史研究協議会会長伊東兼平編『白鳥の道・日の出国へ』空知地方史研究会・1996」収録のものによっているが、原文は、後年に松浦桂堂が筆写したものが三重県の「松浦武四郎資料館」に所蔵され、空知地方史研究会はこれを収録している。
①https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/dms/ss/717/event.html
②https://ja.wikipedia.org/wiki/
③https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/sum/senjin/matsuura_takeshiro/
④松浦武四郎記念館編『武四郎漫画 後編』https://takeshiro.net/ouchimuseum