北海道の名づけ親は松浦武四郎なのか? ②
名付け親になりたくなかった武四郎
「北海道」とは、明治2年7月17日に松浦武四郎が提案した「北加伊道」の「加伊」を「海」に替えたもの。ゆえに松浦武四郎が北海道も命名者である――と信じられてきました。このことは、まったく事実でないばかりか、武四郎は命名者になることを避けようとしていた可能性すら浮上しました。
■加伊はアイヌを示すのか?
前回に明治2年7月に松浦武四郎が提示した北海道名案の原文を紹介しました。6つ提示されているのに「北海道」がないことが不思議だと言いましたが、「加伊」がアイヌ民族をはたして示す言葉なのか、疑問が出ています。
『北海道の文化 VOL91』(北海道文化保護協会・2019・3)掲載の「北海道150年 北海道命名の謎を探る 松浦武四郎は名付け親か」で著者の鈴木博氏は知里真志保の『アイヌ語入門』(楡書房・1956)を紹介しつつ、
今日の解明で、アイヌ語「カイ」は、(ka=毛・ケ=毛の古語)、(i=もの・こと)を指すのみである
と、カイにはアイヌを示す意味は無いと言っています。
また松浦が北海道名申上書で「加伊=アイヌ民族説」の根拠とした「参考熱田大神縁記頭書伊藤信民」=(伊藤信民著『参考熱田大神縁記』明和6年)について、金田一京助『蝦夷と日髙見』(1940)から「全くの独断・臆説であって、何の理由も典拠も示さずに言い放っているのであるが、これまで世人の毫もこれを答める声を間かないのは不思議である。不可解である」との文章を引用し、「加伊=アイヌ民族説」を否定しています。
さらにまとめでは
今一度整理すると「加伊」は「蝦夷」の音読であった。しかも、字面さえ「加伊」とし、アイヌ語としたのは、明和年間の伊藤信民で、彼自身が頭書を書き改めて刊行したのが、『参考熱田大神縁起』であって、わが国の歴史的事実の記録を完全にねじ曲げているものであった。それも『日本書紀』から数え、千年後の事であった。このことから、「加伊」のアイヌ語説は完全に否定されると云わねばならない。
とまで断言しています。
北海道の語源とされる松浦の「北加伊道」ですが、加伊=カイに従前から言われる「アイヌ」の意味があったとして、「北」には何の説明もしていません。「北加伊道」が「北のアイヌの国」であれば、南のアイヌの国が無ければなりません。北海道以南にアイヌは定住していませんから、北加伊道は樺太の意味するものとなっています。
また、武四郎の6案がいずれも「道」が付いているのも、不思議といえば不思議です。加伊州や加伊国があっても良いではないでしょうか。もうすこし溯ってみましょう。
■昭和11年の新撰北海道史は?
『新北海道史』ですが、「この松浦の蝦夷地の道名・国名および郡名にいたる詳細な意見を基礎として討議を加え、八月十五日の公布にいたったのである」と書いていますが、「北加伊道」の「加伊」を「海」に替えて採用されたとは書いていません。『新北海道史』の前の道史である『新撰北海道史』(1936)はどう言っているのでしょうか。
明治政府にありても、元年三月二十五日の策問中には、蝦夷の名目を改めて、南北二道を建設しては如何との一條を示されゐるのである。しかして、今や機熟して、ついにその実現を観、開拓使の発途に当たりて、衆目一新の標示を表昭することになったのである。
しかして、その設定命名には、幕末以来蝦夷地践渉の第一人者であり、また地理学者として、普ねく名声を馳せた松浦武四郎が、その原動者としてその蘊蓄を傾倒したものであった。
松浦は先づ全地命名の仮案として、蝦夷は元来地名にあらざることを述べて、日高見、北加伊、海北、海島、東北、千島の六道を選出し、歴史的の縁来を説いて参考に供している。
しかしてそれは、反復検索の上、北海道と称することに決議し、七月二十六日、附開拓使触書として「此度蝦夷地一円北海道ト称し、十二箇国二分チ、開拓使相建、総じて御政令御掴行相成洋条、此段相逹候事」の公布を見ることになった。これよりして、北海道の称号が行はれることなったのである。
ここでも、松浦の案を参考にしたとはありますが、「北加伊道」が選ばれたとは書いていません。
■「北加伊道」は大正2年に孫によって公表された!?
この『新撰北海道史』の著者であった竹内運平は、自著『北海道史要』(1933)で次ぎのように書いています。
明治元年3月25日岩倉卿より策問第3条に『蝦夷地目被改南北二道被立置テハ如何』という事もあるが、先是箱館政府の時にも石狩を以て田代の国とし、おいおい他所も云々との噂があった。しかし、実現されていない。
さて巳年7月17日、松浦武四郎は、道名之儀に付意見書を提出している。すなわち『昨日仰聞候所指当たり相考申候』はと前置きし、往古の蝦夷熟蝦夷津軽蝦夷等の事を述べ、蝦夷はもともと地名にあらざるを解き、日高国以下六道を選出しているのである。左に松浦翁令孫孫太氏の指示せられたる雑誌、北斗所載の道名選定に関する所論を紹介する。
続けて前回紹介した選定理由を転載しています。
すなわち、明治2年7月17日に松浦武四郎が政府に提出した北海道名6案から「北加伊道」が選ばれ、北海道となったとする説は、その約50年後の大正2年に武四郎の孫である松浦孫太が雑誌『北斗』に掲載した原稿が根拠のようなのです。
確かに前回紹介した空知地方史研究協議会の資料集の末尾には「大正二年十月寒露凌一日 松浦佳堂 誌」とあります。この松浦佳堂は武四郎の孫・松浦孫太郎であり、祖父から伝わった選定上申書を写して大正2年に発表したものでしょう。事実、国立国会図書館のアーカイブを検索しても、松浦武四郎の「北加伊道」は、大正3年の吉田東伍『地理的日本歴史』(南北社, 大正3)以前はまったく登場しません。
北海道の命名過程をしるした公の記録は一切ありません。松浦の「北加伊道」が「北海道」になった、とあたかも事実のように語られますが、それらはいずれも大正2年以降の後人による推測に過ぎません。
■あえて「北海道」を避けた武四郎
新元号の「令和」の発表の際も、元号が特定の誰かに結び付くのは好ましくないと、政府は発案者を伏せていましたが、明治政府も同じことを考えていたようです。誰の発案か、どのような経緯で決まったのか、選定過程を示す文書は残されていません。
明治時代は、明治天皇が北海道の命名者という建て前であったでしょう。そのために大正になってから、すなわち明治帝の世が終わってから、お孫さんが公開したようです。さらに松浦孫太郎は最後の添え書きにこう書いています。
北海道々国郡名制定の由来は今や知る者少なし。これは明治二年、政府の命により王叔父北海松浦武四郎の上りしもの。道名に北海の字を避けたるは自身の号なりしを以てなり。その他はほとんどの議の容れられたるを見る可し。予、先に王叔父の草稿を得居たりしも、本書のみ欠けたりしを以て、茲に謄写して北海道々国郡名選定書の全きを得るに至り。
つまり武四郎は、自らの号「北海道人」と重なるのを避けるために、あえて「北海道」を選ばなかったというのです。佐江衆一の『北海道人――松浦武四郎』(新人物往来者・1999)によれば、武四郎の「北海道人」との号は、明治2年の20年以上前から使用しているということです。武四郎にすると、今のように北海道の命名者と持ち上げられるのは不本意でしょう。
松浦武四郎が北海道の命名者ではないことは明白になりました。
では、命名者が武四郎では無いとすると「北海道」という名称はどこから来たのでしょうか?
【引用参照文献】
・鈴木博氏「北海道150年 北海道命名の謎を探る 松浦武四郎は名付け親か」『北海道の文化 VOL91』(北海道文化保護協会・2019・3)
・『新北海道史③』(北海道・1971)
・『新撰北海道史②』(北海道・1937)
・竹内運平『北海道史要』(市立函館図書館・1933[北海道出版企画センタ-・1977]復刻)
・吉田東伍『地理的日本史』南北社・1914
・礒部精一 『北海道地名解』北海道地名解・1918
①「空知地方史研究協議会会長伊東兼平編『白鳥の道・日の出国へ』空知地方史研究会・1996」134-135p