北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【第6回】富美原野の開拓 始まる

  

■生涯の友に迎えられて

大正10年春、渡辺支場長の仲人で結婚式を挙げた峯二夫妻は、すぐに上湧別富美に入植した。ここで峯二を待っていたのは、生涯の友となる本多政雄であった。本多は、荷物の搬入から小屋掛けの手配、1町5反の小作地の斡旋まで、入植に必要な一切を段取りしていた。
 

本多政雄(写真出典①)

本多政雄は東京都杉並区出身。父の本多岩次郎は、農学博士で日本蚕糸学会会長、大日本蚕糸会副会長なども務めた養蚕学の権威で、母の田志津は正銀頭取一宮鈴太郎の妹というサラブレッドである。旧制中学を卒業後、父の友人である北大総長の南鷹次郎に預けられて渡道したという。
 
遠軽の北海道家庭学校を創設した留岡幸助の私淑し、同農場の助手となっていた。そして彼も北海道開拓に大志を抱いていたのだろう。峯二より一足早く大正10年に富美原野に入植していた。
 
峯二とは北海道家庭学校時代に知り合ったに違いない。恵まれた家庭、高い教養を持ちながらも、オホーツクで開拓入植者となった2人、遠軽の空の下、きっと夜を徹して開拓の夢を語り合ったに違いない。
 
本多は、地域の農業指導者として活躍し、上湯別に設立した北紋医聯と久美愛病院は、現在の北海道厚生連の起源となる。『上湧別町史』は本多を「北海道厚生連」の産みの親と評している。戦後初の道会議員選挙で当選した。
 
本多政雄とともに踏み入れた上湧別富美原野の第一歩、新たな開拓生活の始まりを峯二は
 
結婚式がすむと直ぐ新墾旅行となった。
 
としゃれて表現している。新郎にとっては大望の開拓生活だが、新婦とっては必ずしも望んだ生活ではなかった。富美原野に入った峯二は、残雪をかき分けて着手小屋の場所を選定し、すぐに本多夫妻、雇った大工とともに着手小屋を建て始めるのだが、新婦は──。
 
傍らの寝木に腰しかけてシクシク泣き出した。荷物を背負って送ってきた本多氏夫人は黙ってしまった。見渡せば笹の葉の上に伸びの悪い木々の梢が萎縮した容相を見せ、さみしい雲片が無人の谷の空を去來していた[1]。
 

 

■入植地との奇縁 信仰的愛着

峯二たちが着手小屋を建て始めると、雪の下から、赤ペンキの欠けたビンや、テントを張った柱などが出てきた。峯二は渡道直後にアルバイトとして測量助手を務めたことがあり、奇しくもこの場所で野営していたのだ。
 
私の頭には渡道1初年の秋に、一時的の労働収入のために道聴林務課の測量人夫として、アイヌ人等と共に働いた時、この沢に入って測量した当時のことが頭の中の記憶によみがへってきたのである。
 
露営中、私はどこかでカブれたのか、山ウルシにカブれて、顔は腫れ、発熱して幾日かを天幕の中に静養したのである。病臥していると若い技師たちの、この奥に広い盆地があるなぁ、あれを入手して牧畜をやったらおもしろいぞ」などと言うのをを聞いていた。その盆地というのは私の貸下げ地へ行く途中にあるのである。
 
思へば奇しき縁ではないか。人夫として露営し、しかも病に倒れて幾日かを静臥したところが、4年目の春に、この沢に草分けとして入ってきた私の入地第一の着手小屋の立つ所になろうとは──。[2]
 
峯二は小作人としてこの地に入ったが、この年の秋に所有者からの申し出により、峯二のものとなる。資金を融通してくれたのは旧制前橋中学時代の親友阿部国治だった。
 
その土地を入手する資金は中学時代の友人で、特に親交の厚かった、その頃帝大の法科の副手をしていた阿部國治君が学資の中から貸してくれた。その阿部君が後に加藤完治先生の股肱としてあの満洲開拓の盛んな頃、活躍するにいたったのも、私にとっては奇縁というべきであった。
 
どこまで因縁ある土地である。後に上斜里から再び私を還らせたのもこの土地への信仰的愛着でもあったのである。[3]
 

■待ち受ける開拓の試練

入植初年、峯二は燕麦、裸麦、大麦、イモなどを植えた。換金作物として特に期待したのがハッカだった。小屋の周りは山火事の予防も考えて笹を刈り、野菜、豆類を播いた。しかし、オホーツクの自然は入植者に優しかったことは一度たりともなかった。峯二も例外ではない。
 
6月27日の朝、大霜が降って無陰にも南瓜、大豆、菜豆・トウキビ等は枯れてしまい、それから再播したものの、トウキビ、南瓜は翌年の種子にはならなかった。
 
齋藤君から去勢した子牛を分けてもらって、堆肥取りを考えた。鶏も10羽程、妻の実家からもらって飼った。育雛もしたがネズミやタカに食はれて恩ふようにふえなかった。野ネヅミが家に入って寝間を走って困らせた。
 
現金は出ることのみ多く、入るところは少いので、入地前少しは飲んでいたタバコも禁じて恐慌に備えた。農家に馬の無いというのは不自由なもので、秋ハッカの蒸溜の際には10余丁の道をハッカ茎葉を背負って妻からこぼされた。[4]
 
渡道とともに入植地に入る多くの移民と違って、峯二は4年に渡って遠軽家庭学校、北海道農事試験場北見支場で修業を積み、入念な計画を建てて入植した。それでも1年目「開墾は小屋の3反程しかできなかった」という。春の遅霜もさることながら、土壌も農耕に不向きだった。明治の区画解放から漏れた土地は難しい。
 
開墾はフミ支流の沢では容易の業ではない。ここの土質は粘質固く、笹の根はヘチマのように張っている。開墾しても風化するまで二~三年は作物はよく生育しないのである。
 
石塊も多い、鍬を打込むとカチンとはね返るのである。笹を焼くことは一苦努の仕事で、一歩あやまれば、防火線を漏れた火は幾日でも未開の原野に燃え続くのである。笹焼の後の火消しに妻と一夜中眠らぬこともあった。[5]
 
苦難続きの入植1年目だったが、1年目の秋に大望の馬を持つことができた。
 
秋の末に齋藤君管理の牧場から7才の牝馬を借りることができた。新しい安物の馬具を買って来て、滋賀団体の農家から古馬ソリを買って初冬の道を走ったとき、はじめて最後の第3のマが求められた喜びにひたったのである。
 
炭ガマも築けず、その代り、借りた馬で澤の奥から伐り出す造材所の丸太や角材を運ぶことにした。夜帰ってきてから古俵を解いたワラで爪甲を無恰好に作って履いて働いた。足は足巻の赤毛布の染色で赤く染つた。馴れない作業である。馬も強くないし人の半分付の収入であった。[6]
 
入植初年、峯二の収入は、ハッカ油120円、運搬20円、そのあわせて150円であった。それに対して支出は約1000円。土地の購入代金や結婚費用を除くと400円。実に380円の赤字だった。
 
それでも、開拓には開拓者だけに味わえる喜びがあると峯二は言う。
 
一鍬ごとに農地が増えて行くのが目立ってくるのは嬉しい。そこが苦労の中の楽しみで、苦労と他人から見えることも、当人には歓喜なのである。北海道は年年開墾によって農地が増加しつつある。開墾者は開拓戦線上に立った勇士であらねばならぬ。[7]
 

■2年目、貧困の極みに長女誕生

開拓は2年目に入った。1年目の不調は2年目に大きく響く。1年目の収穫が2年目の原資となるからだ。
 
開墾生活でも1般農業経営でも経済的に苫しむのは、第2年目だということを体験した。初年目はだいたい予算し、資金を準備してかかるが、第2年目はその資金も枯渇し、収入は思うように入ってこないがの普通である。
 
その苦しい中で長女が生れ、牝牛の購入資金に向けようと養っていた牡牛は頓死した。借入れた馬は過労で痩せて、おまけにサンド落ちとなった。貸主に申し訳ないので200円で買い受け、その金は秋末に支払うことにした。後で世人に聞くと、そのサンド落ちは、牧場にその馬が買われる前のものであったが、肥やしてあったため欠点を隠してあったものだという。その罪を私が買ったのである。
 
とはいえ、2年目、必ずしも困難だけではなかった。
 
それはどうでもよい。そのサンド落ちが縁で、私は借りた馬が自分の所有物となる機会に恵まれたのである。忠資な馬で可愛い青であった。この馬の子・孫・曾孫と、私の家にはこの馬の子孫ばかりで、それ以来約30年、他から馬を買ったり、交換したりしないのである。あの斜里岳の秀峰を望み、もっぱら火山灰の高丘地の経営12年を苦楽を共にした馬たちもこの馬(勇いち)の子と孫であった。
 
アラヤ「マ」、ツ「マ」、ウ「マ」の3の「マ」に子供1人さづけられた。が、貧苦は甚だしく馬車を買う力もない。ドンコロ車を作って馬車の代用に使った。キビや麦は雨の日に手つき、味噌はコウジも使はない王味噌仕込み、衣服はボロボロとなり、小屋の柾屋根からは日が差し込んだ。[8]
 
入植2年目の収入はハッカ9組150円、豌豆5俵33円。運搬などの雑収入などで200円あまりだった。支出は510円。馬代金の半額約100円を除くと、410円が年間の生活費と営農経費だった。馬代金の支払いに窮して、実家に助けを求め、かろうじて正月を迎えた。
 
買い残った小作地に植えてあったハッカが順調に育ち、3年目に20組余りの収穫を期待させたが、3年目の借地が地主より断られてしまう。隣地の農家が買うことになったのだという。
 
便りのないものは他人の所有物である。ことに農地は小作人には反比例した結果を生むことを体得した。もう他人の土地に頼るまい、自分の土地を開け、そこに安住の道が存するのだと憤然と決意した。[9]
 

富美原野開拓2年目(写真出典②)

 

■3年目、開拓地に薄日差す

入植3年目にして峯二の開拓はようやく軌道に乗り始める。
 
3年目も、夏は開墾、冬は製炭、運搬にと働いた。お正月も元旦だけは休んだが、2日から働いた。春には馬の子が無まれ、秋には2女が生まれた。この年の秋から大望の炭窯を築いて製炭を始めた。[10]
 
入植3年目の現金収入は、ハッカ110円、野菜20円、木炭200円、運搬300円、雑収20円 計650円──。関口農場は入植3年目ではじめて赤字を見ずに済んだのだ。
 
農家はどこに行っても3年目でないと楽になれない。3年目となれば土地とを知り、作物を知り、社会環境を知り、家畜の堆肥もそろそろ効き出す頃なのである。しかし、1人前の経営まではまだである。私の経験からすればそれには8年くらいかかる。柿8年という、農家でも1朝にして実らないである。開墾、建築と寸分なく働かなければならなかった。肉はこけ、顔色は褪せ、人々から「やせたね」とよく言われた。[11]
 
入植4年目、峯二は山に入って枕木用の木材を造材し、200円余りを得た。これを原資として他の農家と共同してハッカ蒸留器を設置した。住宅を新築し、着手小屋からようやく脱出した。
 

■富美原野を襲う熊の恐怖

先行きにほのかに明かりが見え始めた大正14年7月29日、上湧別富美を恐怖が襲う。山林に木材運搬に入った人が熊に食い殺されたのだ。
 
その人の名が熊吉といったのも奇縁であったが、無惨なその屍を見で慄然とした。それまでは山林を歩いても、寝木がオヤジ(熊)に掘り返されているのを見てもさほど恐ろしくなかったが、それからは誰も彼れも恐熊病にとりつかれて、1時は暗夜に沢の道な歩く人もなくなった。
 
熊といへば、まともに姿を見たことはなかったが、夕方、その開拓地に入って来る途中、沢の沿岸の笹ヤブの中に飛び入るオヤジの大きな音を聞いたことが3~3回ある。
 
最も恐ろしかったのは前々年の夏の7月22日の夜のことである。遠軽から徒歩で帰る途中、上フミの林道にさしかかったとき、月明の夜ではあったが、そこに生い繁る木々の葉で真っ暗であった。
 
私の足音に驚いたのか、数メートル先の暗の中でバサンと大きな昔を立てて、笹ヤブに飛び込んだと思うと、ウウウサと吃えるのである。己が生命の終わりが来たな、と思うと冷水を全身にかぶった思いであった。
 
一目散に走った。いくどか転んでは起きて走った。人家のある所まで来て後をかかえり見た。オヤジは追いかけてはこなかった。危うく命が助かったのである。熊吉さんを食い殺した熊もおそらくこいつであったろう。
 
開墾して驚くのは、私共より早く昔この土地に人類が住んでいたということである。笹を焼き、シバを伐っていくと円い穴がある。よく見れば先住民の穴居の跡である。土器の破片、矢の根石、石斧、穴の空けてある石と、いろいろなものが土の中からでてきた。火を焚いたクドのように石を積んであった所もあった。
 
自分がこの沢の草分けだと思うたが、幾千年か前にこの沢を占拠した人たちもあったのだ。山河依然たり。人の世は変わる。わが今開く原野も幾星霜の後に復古、誰によって踏まるるのか──。[12]
 
このようにして4年目、5年目と、少しづつ関口農場はかたちをなしていった。
 

富美原野開拓5年目(写真出典③)

 
 

 

 


【引用出典】
[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][10]渡辺侃、関口峯二『開拓、営農、試験 三十三年』1950・北海道総務部 
【写真出典】
①『上湧別町史』1979・上湧別町役場435P
②③渡辺侃、関口峯二『開拓、営農、試験 三十三年』1950・北海道総務部 ・17P
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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