【第7回】渡辺侃博士 経営試験を要請する
斜里岳
■渡辺博士、富美に峯二を訪ねる
昭和2年春、関口峯二の元に群馬の実家から父の急変を告げる連絡が来た。峯二は急ぎ帰郷する。9年ぶりの故郷、帝都の変貌ぶりは峯二を浦島太郎にした。
父を見舞のため内地の土を踏んだが、森閑たる北見の山間に開墾している人間には、目まぐるしい都会の自転車や、忙しい内地農村の生活に、何だかなじめない一種の恐ろしさを感じた。渡道後10年、北海道の原始林は全く自分を森の人としてしまったのである。[1]
峯二の父が亡くなったのはこの年の6月。その2週間後、待望の長男が誕生した。峯二は二才馬を47円で馬商に売って子育ての資金を得た。
この年、峯二が開いていた上湧別富美の澤の奥に鉱泉が発見された。さっそく清水直次朗が沸かし湯ではあったが「富美温泉」と名付けて温泉宿の経営をはじめた。この温泉にひかれたのだろう。渡辺侃北見支場長と池田技手夫妻が峯二の開拓小屋を訪れ、一夜を過ごした。渡辺侃はこう振り返っている。
筆者は二度彼の家を訪ねた。彼のその時の家たるや、北海道開墾地の極端なもので、さすがに、這いこまねばならぬ拝み小屋ではなかったが、徳用柾をはった茅屋であった。鼠が横行するから農家には猫がぜひ必要だという彼の言を今でも記憶している。
一回は家族づれで彼を訪れ、雨にあって閉口したことがあるが、その時には彼の開墾した渓谷が奥まで開け、奥に鉱泉宿が出来、多勢の人が入り、うるさいこともあるから、前の流のほとりから高所に移っていたが、彼はこの渓谷の草分であり、部落の指導者となりすましていた。
彼の間断なき勤勉のゆえに、部落民は絶大な信頼をもって対した。彼はやがて部落や産業組合の口をきくだけで肉体的には働く必要がなくなってきかけた。ただ働く能(体)力、習慣を維持するために働くとさへ言っていた。彼の熊の話に私の子供はちぢみ上ってしまった。[2]
■峯二、リーダーに推される
峯二の誠実な人柄と高い学識は集落の信頼を集め、衆目の一致するところとして、地域のリーダーとなっていった。それでも、峯二が「肉体的には働く必要がなくなってきかけた」と言ったのは強がりでもあったのだろう。峯二は峯二でこう書いている。
7年目 この年1月、付近45戸の農家をもって農事実行組合が設立され、推されて組合長となった。産業組合の役員にも選ばれて公務が忙しくたってきた。家族労力の少い私にとっては辛い務めであった。夫が公務で出て、妻が3人の子どもを抱えて唯一人開墾地に立つ日が多くなった。努力の少い者が部落の公職につく程辛いことはない。開墾も5反程他人を頼んで賃墾してもちい、木炭も人に頼んで焼いてもらった。[3]
この年は、来客の多い年であった。夏には郷里から兄が叔父である清水及衞とともに上湧別富美を訊ねた。叔父の清水及衞は、北海道開拓に向かう峯二の背中を押した人物である。
夏は干魃が甚だしくかった。その最中を郷里の兄が北海道見物かたがた遊びにきた。同時に叔父清水及衞が農事組合幹部識習会の講師として全道各地講演の途上立寄られた。
叔父は自分を北見に誘いだした責任上、開拓の進展を見て非常に喜んでくれたが、私としてはいまだ叔父に対して開墾資金の返済もできないのはすまない感があったが、叔父はそんなととは気にもとめない様子であった。かえって温容の叔父に一層の激励を受けた感があった。[4]
■渡辺博士再訪、上斜里経営試験農場の場長を依頼する
昭和4年、峯二の上湧別冨美開拓の8年目、「いつしか部落民としての地位も上り、経営もどうやら紋別郡の水準に逹したことになる」と振り返った年、峯二は再び渡辺侃の来訪を受けた。この時、渡辺侃は北海道帝国大学の助教授となっていたが、嘱託として農事試験場にも籍を置いていた。オホーツク地域での北方農業の経営実証試験、その場長を依頼するためである。
当時、北海道農事試験場においては道内各地に於て経営試験農場を開設して、資地に農家を入れてその地方の農業の改善をはかる事業が進められていたた。斜里郡上斜里にも昭和4年に設置され、昭和5年から試験が開始されることになった。渡邊先生(当時北大助教授)から「君、ひとつそこへ行ってやってくれないか」と言ってきた。[5]
8年かけて関口家の営農はようやく「紋別郡の水準に達した」といっても、経営基盤は決して盤石ではなかった。
だが苦闘8年、ついに着手資金は完済とまでいかなかった。もっとも耕地や建物は財産として残ったのであるからよいが。地味の良くない開墾に困難な土地に入ったのも原因の一つであったろうが、食う働きの外に開墾といふ重荷を負っていくものには当然のことかも知れない。
私共は貸下げの土地も有償であり、小屋掛けの補助金すら与えられなかった。酒も嗜まず、煙草も吸わすでこの状態である。幸い家族に病人も出ず、医療費がかからなかったが、もし病人でもあったならと思うとき、きわどい所を歩んできたことになる。[6]
会社で言えば苦しい創業期をなんとか乗り越え、ようやく安定期に入ろうかという時期であった。そうした富美農場を捨てて、新たに上斜里の農場に入ってくれと言う。親しい渡辺支場長(この時は博士)の頼みであっても、おいそれと聞けるものではなない。
なによりも峯二のクララ──妻はどう思うか。開拓農家の娘として生まれ、物心付く頃から父母の開墾作業を手伝い、峯二と結婚して富美原野に入植するときに、涙にくれた女性である。
妻にはかったがあまりよい返事をしない。異った土地で再び苦しみを重ねたくなかったのであろうが、開墾8年、一つ一つ石塊を堀り出して開いた土地への愛着や、親しくなった近隣の人々との別離の悲しみもあった。入地の時、泣いた妻である。今また去るにあたって泣かんとは。[7]
■何が故に彼等が土から離れざるか
それでも、関口峯二は渡辺侃の要請を承諾した。
私には渡邊先生のすすめに対しては真っ向から断りかねた。先生が経営試験に関与していることに温かみを覚えて意を決して斜里へ行くことにした。[8]
と簡単に書き残しているが、相当な心の揺れがあったに違いない。
峯二が富美原野を離れる決意を固めたのは、現地を訪れた昭和4年11月15日であった。この時の心境を、渡辺侃は二人でかわしていた書簡の引用として、この当時の峯二の気持ちを伝えてくれている。
北海道開拓者が残した文章の中で最も美しい文章の一つである。
一昨日、上斜里に行き、経営試験場の現地を実地観察致し候。前日に釧網線延長されし為め鉄道の便あり好都合を得候。
上斜里駅に下車して坦々たる道路を行くこと二十余町。胸をも突かん急坂を登れば一望千里の高原に出づ。
防風林の彼方の雲の去来するも何となく初めての地に至りし心に淋しく、高原草は枯れて短く、遙かに小さき甜菜を掘る人の姿を見るも寒く、灰色の茅屋を訪れれば、有島武朗の『カインの末裔』中の景をそぞろに思い出し候。
土によって生くべき農尾民が土に養われ得ざる現状を見て、何が故に彼等が土を離れざるかの心に思い至れば(あくまでも土に執着する彼らの境遇に)一掬の涙を禁じ得ず候。
思えば当局者ここに同情し高丘地農業の経営試験をここに実施せんとするの企ては誠に当を得たる事なるを痛感致し候。
微力を持ってこの任の一部を負う自己の責任の軽かざるを覚え候。 [9]
この頃、斜里平野の農民は第1次世界大戦後の穀物バブル崩壊によって追い詰められていた。一部の農民は穀物バブルによって得た資金を水田開削に注ぎ込んで水稲転換を果たしていたが、そうした資金を持たない農民は離農を迫られていた。
峯二の移住を決意させたのは、苦労を重ねて開いた開墾地から離れざるをえない入植者への同じ開拓農民としての思いだった。
妻も最後はついて行くことになった。「関口さん13年目には帰ってくきて下さい。戻らなかったら首にナワをつけて引張ってくる」「ああ、必ず帰ってきます」。こんな言葉が交されて昭和4年12月19日、数台の馬ソリに送られて住みなれた開墾地を後に上斜里へ向った。[10]
【引用出典】
[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]渡辺侃、関口峯二『開拓、営農、試験 三十三年』1950・北海道総務部
【写真出典】管理人撮影