北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【第9回】オホーツク畑作三品農業の生誕

 

■「虫のよい」事業

昭和4(1929)年初冬、関口峯二、家族と家畜を引き連れて入地した「北海道農事試験場上斜里経営試験場」は、上斜里原野(現清里町)西5線14号の斜里農会所有地15町歩(現在の清里町向陽)に置かれた(『清里町史』)。現在の清里市街東方約4㎞、斜里岳の北斜面の高台部である。
 
網走からの斜里にかけて斜里岳噴火による火山灰が降り積もり、広大な高台部を作っていた。その面積は網走管内全耕地面積の4分1に及ぶ。飲料水の確保に苦労し、強い季節風による風害が入植者を苦しめた。経営試験場の置かれた場所も、入植と離農が繰り返され、試験場以前は恐らく借金のカタだろう斜里農会のもとなっていった。
 
それでも農事試験場の正式な試験である。それなりの環境が与えられたように思うのが普通である。
 
経営試験農場という言葉からくる印象では、補助や諸手当も潤沢にもらい、十分に新しい試験事業にたずさわれたかのごとく思えるのであるが、事実はどういうものではなく、関口峯二としては相当に犠牲的精神を要求される仕事であり、これを委託する試験場の側からは「虫のよい」事業であったらしい(『北海道農業発達史』54p)[1]
 
与えられたのは農場までの道路と開墾途中で放り出された入植地。若干の補助はあったものの、独立採算で農場を経営せよ、との指示だった。開拓2~3年目で投げだされたようなものだ。建物は不十分で鶏馬を収容する小屋、収納舎などは関口が自分でつくった。
 

 

■甜菜とクローバーと

当の峯二は第一印象をこう書いている。
 
入地第一に駕いたのは付近一帯が人跡稀薄で荒廃地と空き家の多いことであった。平坦な畑地に落葉松が植え付けられてるのもいたるところに多い。しかるに低台地は灌漑溝が作られ、人家盛に立てられ造田人夫が営々として活動していた。覚悟はしてきたものの経営の前途に一沫の不安を感ぜざるを得なかった。[2]
 
離農で閑散とした高台部に対して、低地では国策による水稲振興により盛んに造田が行われていた。畑作から水稲に、高台部から低台地に、皆が向かうなかで、関口だけが畑作を命じられた。
 
面積15町歩のうち13町歩を1町歩づつ13区に区分し、そのうち1区を自由区、他の12区を輪作区として、燕麦、デントコーン、玉葱、裸麦、赤クローバーのほか、菜豆、大豆、大麦、小麦、馬鈴薯、甜菜などの作物が試された。
 
この時決まっていたのは、輪作をすることのほか、甜菜を中心とすること、デンマーク農家から学んだ赤クローバーを挟むこと。どのような作物を、どのような順番、どのような期間組み合わせて輪作するかは峯二に任されていた。
 
甜菜は江戸時代にはなかった作物だ。古くから日本の砂糖製造は南方のサトウキビによって行われており、甜菜は存在自体が知られていなかったのである。明治になってもたらされた西洋野菜の一つで、開拓史も官営の製糖工場を設けて普及を図ったが、輪作体系の中に入れてこそ生きる作物であって作付はすぐに下火になり、明治30(1897)年代には絶滅状態となっていた。
 
甜菜が復活するのは第1次世界大戦の影響である。戦乱で外国製砂糖の輸入が途絶えて砂糖の値段が高騰。北海道に適した安価な甘味源として甜菜に注目が集まった。上斜里試験場も、どのように甜菜産地をつくるかにねらいがあった。
 

■得たものは、世人の噺笑と毀損のみ

関口峯二による上斜里経営試験場の1年目は無惨な失敗。
 
経営の第1年、すなわち昭和5(1930)年は天候は不順といのではなかったにもかかわらず、農場の経営は大失敗に帰した。
 
圃場が整理してなかったために作業能率が上らぬ。反対に雑草は繁茂して作物を埋め、日照りつづけば土壌乾いて灰の如くなり、強風に砂塵飛び、種子は露出し、豆類等の発芽まことに不良で、また高い労銀で以って作った生産物は日に日に下落する一方というありさまで、流通資金は欠乏してくる。
 
その上、混同農業の意味で入れた乳牛は、付近農家が全然飼わないため種牛は近くにおらぬし、わずか1頭の牛の乳牛も、札鶴の三井農場支場まで往復4里余りを運搬して買ってもらうという状態で、牛乳代が運搬費にも足らぬことになり、全く心身を過労させて得たものは、世人の噺笑と毀損のみであった。[3]
 
峯二が言う「圃場が整理してなかった」とは、開墾途上で放り出した前住者が大木の根株を大量に残したため、牛を使った農耕ができなかったことをさす。
 

■官の干渉、妨害

困難はこれだけでない。経営試験場という特殊性も峯二を悩ませた。
 
この経営試験の苦労は数限りないが、そのうち主なものをあげてみよう。
その一つは計画をたてた人が本当の農業を知らないことが多く、また苦労を認めてくれなかったことで、雑草が多い、管理が悪い、あるときには家族の身なりにまで口出しをされることがあった。また農機具にしても試験場で購入して送られてくるので実際にあわず、附近農家のものより使いにくいことが多かった。
 
第2には各種の記帳や報告にも困らされた。契約によって日報、月報、年報が義務づけられ、こと細かな記帳が必要とされていた。しかし作業に精を出すほど夜の記帳がつらく、提出期限を過ぎて叱られたことが何度あったかわからない。この整理のため正月もゆっくり休めないのが実態であった。また作物ごとの労勧配分を記帳するのがむずかしく、これを書くときは気が重かった。しかしこれらの記帳がその後の労働時間の基準になったり、また省力機械化の土台をなしたと考えると、苦労を忘れさせてくれるものがあった。
 
また見学者の案内、説明も悩みの種であった。早朝といわず、昼休みといわず、または作業中でもこれら見学者に時問がさかれ、農繁期には心の中で泣きながら説明したことは今でも忘れられない。[4]
 


 

■2年目、失敗の原因の気づく

昭和6(1931)年、2年目も失敗。しかし、峯二は失敗の中からこの地の農業の尻尾をつかむ。
 
お正月が来ても米の餅もつけず、農場産の芋モチをおかがみにして青年らと新春を迎へた当時の困苦を今でも思い出す。苦闘の2年目の経営もまた収支合わない結果になってしまった。
 
この連年の失敗は何によってであったかを今にして回想して見ると、前述の如く当時世界的の不況のドン底であったのももちろんだが、第1の原因は私が本地方の農業経営について全く初めてであったことである。
 
私は富美で薄荷を作っていたので気候、地勢、士、作物等の異る上斜里に来て、個々の作物の耕作法はいうまでもなく経営面積に対する所要労力、生産物の処分法等もこの地方の事情に疎かったために、金肥を多く用いても効果少なかったこと、前住者の乱雑なる作付の後の整然たる輪作を実施し始めたことも大いに原因があった。[5]
 

■甜菜に麦を加える

3年目にして甜菜の相方として麦を選ぶ。畑作三品の二品が揃う。これが成功の始まりだった。適地適作というよりも、麦からパンをつくり、自給自足体制を取って出費を減らすことが当初の目的だったようだ。
 

上斜里経営試験場の関口峯二(出典①)

打ち続く失敗に尾羽打枯らした私は、それでも不結果の原因がやうやく分ってきたので、前途に幾分の光明をみとめて、第3年目を迎へた。
 
3ヶ年の失敗の結果、この地方には麦類が適作物であることを知り、それに全力を注ぐことこととし、労力の不足はできるだけ作物の配当を加減して、あまり無理せぬようにし、一方厩肥緑肥の増産によって地力の回復をはかった。
 
それよりも工夫したのは、最も苦しめられてる現金支出の倹約であつた。実際のところ苦しめられたのは食ふことより、現金の不足にあったのである。
 
現金支出の中でも食料費、労銀、肥料代が主なるものであった。労銀は節約の余地ない程、家族勢力が少なかったし、肥料代は常時の農場の地力であまり減少せしめることもできなかたので、先づ食糧費の支出を極力切り詰ることにした。
 
当時の記帳を見ると第1年目の如きは月に1俵以上の白米を消費している。これは全部購入である。価格も10円前後していた。しかるに当時、小麦は34円の安値で売らなければならなかった。牛乳の方も下落して1升4銭までになり、悪路4里余の往復運搬はまことにつらかった。それでも現金の必要の前には止むをえなかった。
 
そこでこの安い自家産の小麦と牛乳を常食化して、食糧費の節減を工夫せんとし、パンの焼き方も知らぬ妻が重曹や食●を混じて焼餅のごときものをつくって見たのが最初で、それから人に聞き本で見次第、ベーキングパウダーの作り方も覚えてパンを作り出した。牛乳の消費によって魚肉類の購入も節減した。
 
小麦の外燕麦・ライ麦・豆等を食用したために、昭和7(1932)年には家族9人で白米の消費量はたかだか1石2斗、金額21円ですんだ。常時男女2人の雇人がいたが、この米節約に対して不平も出なかったし、空腹も訴へなかった。むしろこうした食糧の美味を讃していたらしかった。
 
かくて第3年の昭和7(1932)年は春は旱害風害、秋は雨害となやまされつつも、農場の収支は利益ないまでも毀損しない程度の結果を得られた。第1年目は付近農家にも劣った作柄であったが、今やそれ等を凌駕してきた。[6]
 

■畑作三品農業の確立

4年目からは馬鈴薯を組み入れ、輪作が安定する。オホーツクの畑作三品農業はこの時誕生した。
 
これに力を得た私は第4年の経営の好結果を創造して勇躍した。農場の地力は溌剌として回復してきた。圃場の抜根によって作業が楽々と進行するようになった。年数の経過と共に輪作が次第に軌道に乗ってきた。
 
地方の状況にも通じて来たので何かと有利になってきた。作物の配当も経営に適合するようますます工夫されてきた。家族も当地方の農業作業に馴れてきた。牛も次第に上斜里地方に入って集乳所も設けられて牛乳処分の不便も除かれた。
 
一方に生産物の相場も次第に好調を示し、おりもおり政府の小麦増殖5ヶ年計画によって当地の適作物小麦が有利に展開することになったというありさまで、まさに一陽来復の感があった。昭和8(1933)年は天候も順調で農場開始以来ない好結果を得られた。
 
第5年目なる昭和9(1934)年は冷害を受けて水稲および秋作物は不作となったが、幸いにも当農場は麦類と根菜の作付が多かっため、平均して好結果を得られた。[7]
 

■農業は芸術であり哲学である

上斜里経営試験場の関口峯二(出典③)

この頃、低地帯の水田は連続冷害に襲われ、水稲は壊滅的な打撃を受けていた。しかし、峯二の経営試験場は順調な生産を続けていた。近隣の農家が連続冷害の中でも最も被害の大きかった昭和10(1935)年の冷害に苦しむ中、麦・甜菜・馬鈴薯による輪作体系は完成の域に達した。峯二は勝ち誇って言う。
 
昭和10(1935)年も概して順調の成績を奉げつつある。経営6ヶ年の間に最も顕著なのは甜菜と馬鈴薯の収量の増加である。
 
甜菜は2000斤代から5000斤近くに迫ってきた。馬鈴薯は初年の倍収である。甜菜の冠部は全部牛の飼料とするに非常に喜んで食べる。麦類の稗は牛馬の敷き草として豊富である。脱穀屑は鶏が食べる。かくて麦類と根茱類と牛、馬、鶏とによって合作せられたものが現在の私の経営である。
 
斜里郡の農業は自然條件不利たるもの多きように誤認せられていったのであるまいか。私はいまだ6年しか斜里の農業をしないが、農業地帯として決して他に劣るものでないと確信する。連年の水田不作は一層斜里地方の農業が不利なるものと誤認せしめている。畑作としての斜里の農業は全道有数のものたるべき素を有している。
 
思えば私の入地はじめ荒廃に委せられていた原野は人家年と共に増し、荒廃地は皆無となった。反対に水田地帯は連年の不作に、雑草は増し、人家は減少していく。無量の感慨なき能はずである。
 
私の心情は農業経営を単なる利殖的のものとせず、自己の生活と融合せしめたい。すなわち私にとって農業経営は生活を意義あらしめるもの、換言すれば芸術であり哲学である。[8]
 

■幻夢の実現である

昭和27年発行の「北海道農業技術研究50年」は、上斜里試験場の成果を次のように評価した。
 
本経営試験開始以来、世界的農業恐慌にともなう農産物及び牛乳価格の暴落や気候不順による冷害凶作等に遭遇したが、よくその影響に耐え、荒廃した地力も次第に抜復増進し、数年ならずして低地に劣らない、反当収量をあげるに至った。特に麦類及び甜菜、馬鈴薯のごとき根菜類はその成績顕著で高丘地農業経営指導上大きな貢献をしたのである。[9]
 
『北海道農業発達史』は次のような最大の讃辞を送っている。
 
1932、33年頃にいたって漸次好転、適作物としては、麦類と、馬鈴薯、甜菜等の根菜類であることを認識、ビートトップ、麦棹、脱穀屑等の利用により、麦類と根菜類、牛、馬、鶏等を合作した混同経営方針を樹立したのである。この混同経営方式は、以降北見地方に適せる経営方式として認められ、荒廃していた斜里地方開拓に指針を与えることができた。ここに上斜里経営農場の成功といわれるゆえんがあり、その功績があるのである55p[10]
 
こうして斜里岳の北斜面に小さなオホーツク農業の種火が点った。この種火をどうやってオホーツク全体に燃え広がらせたのか。部隊は上斜里の隣町・小清水に移る。
 
 

 
※オホーツク畑作農業の誕生を記録した『渡辺侃、関口峯二  開拓、営農、試験 三十三年』 。道立図書館で見ることができます。
 

 


 

【引用出典】
[1]『北海道農業発達史Ⅱ』北海道立総合経済研究所・1963・54p
[2]渡辺侃、関口峯二『開拓、営農、試験 三十三年』1950・北海道総務部・43p
[3]同44p
[4]『北見農業試験場70年のあゆみ』[上斜里経営試験農場12年の想い出]1979・291p
[5]渡辺侃、関口峯二『開拓、営農、試験 三十三年』1950・北海道総務部・44p
[6]同45p
[7]同45p
[8]同46p
[9]『北海道農業技術研究50年』1952・北海道農業試験場・北海道立農業試験場・258p
[10]『北海道農業発達史Ⅱ』北海道立総合経済研究所・1963・54p
[11]渡辺侃、関口峯二『開拓、営農、試験 三十三年』1950・北海道総務部・序
 
【画像出典】
①②]渡辺侃、関口峯二『開拓、営農、試験 三十三年』1950・北海道総務部

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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