【第8回】北方農業の夢──牛馬100万頭増殖計画
■農業経営試験とは
なぜ、北海道帝国大学助教授になっていたはずの渡辺侃が関口峯二を訪ねたのか。渡辺が依頼した経営試験場とはどのようなものか。渡辺侃の立場から見よう。
一口に北海道といっても広大で、東西南北、適する作物、営農も異なる。北広島で中山久蔵が稲作に成功したからと言って、そのままオホーツクで展開することはできない。オホーツクにはオホーツクの農業が必要である。
この課題に応えるために、北海道農事試験場では明治37(1904)年から「農業経営試験」という試みを行っていた。実際に農家に入植してもらい、試験場が示したマニュアルに沿って農業を営み、経営が可能か、つまりはそれで家族が食えるか、を試す社会実験である。
明治37(1904)年、最初の農業経営試験は、札幌区北18条西11丁目にあった農事試験場本場内に5町歩の試験畑を設け、そこに一般農家1戸に入植してもらい6年に渡って営農を続けた。場所は今のエルムトンネルのあたり。結果は良好であったと言うが、そもそも北海道の農業研究総本山で行う初めての経営試験に不成功はありえない。作業や経営に農事試験場のさまざまなアシストが入り、純粋な経営試験とは言い難いものだった。
■火山灰地で農業は可能か?
続いて大正10(1921)年に厚岸太田村の釧路農事試験場と13年に早来で経営試験を行った。早来は、当時農業に不向きとされていた火山灰地で、はたして農業は成り立つのか、を確認することが目的だった。北海道農事試験場では明治36(1903)年に「北海道農事試験場早来火山灰試験場」を置いて研究を進めていた。その集大成として一戸の農家を入植開墾させて農業経営の可能性を確かめようというものだった。
農場主として依頼を受けて入植した寺島弘は『早来町史』(1973)に次のような手記を寄せている。
私が郷里の宮城県登米郡豊里村から父藤右衛門らと共に北海道に渡ったのは、明治40(1907)年3月で、私が22歳の時であった。倶知安村大字カシュプニ南2条101番地の士地5町歩の貸付を受けたが、42年に開墾を終了して、この土地の付与を受け、農業を経営してきた。
私たちの村は大正3(1914)年に倶知安村から分村して、東倶知安村となったが、大正12(1923)年の10月、東倶知安村長山本試太郎氏が、道庁からの依頼で
「北海道農事試験場早来火山灰地試験地において、農業経営担当者即ち経営試験農家として入地してやってくれという懇望があった。本道には火山灰地が120万町歩もあって、これは農耕不適地と称され、今日放置されているが、試験の結果農地に適するということがわかった。この試験の結果を、方案として実地に示し、経営一切を指導してやらせた場合の実績から、120万町の火山灰地の農業指導の考資料を得んとするにあるので、寺島、試験台になってくれ」
という切なる勧めであった。そこでさっそく早来へ現地視察に来て承たところ、開墾されたところはあまりなくて、入地している農家の人たちは、ほとんど馬車追いなどをしていたが、よく伸びたあしが一面に生えており、大きなナラの切株などもあり、また、かしわの実生が1面に生えていたので、木や草の育つところに作物のできないわけはないということと、試験場から学理的指導を受けられるということでここに来る決心をした。[1]
■寺島弘、営農の可能性を見いだす
寺島には農事試験場早来火山灰試験場用地内の未開墾地10町歩が割り当てられた。若干の開墾費を支給されたが、建物、農具、家畜等はすべて自弁。同時期の釧路農事試験場の経営試験は、札幌と同様に試験場職員の指揮命令によって行われたので、純粋な経営試験とは言いがたい。原野から始まる本来的な経営試験は早来が初めてだった。
火山灰は火山噴火によって地下のマグマが吹き上げられて降下したもので、生物に必要な栄養素を一切含んでいない。それゆえ農業には不適と見られていたが、すぐれた農業者であった寺島はすぐに火山灰地の特性を見抜いた。
大正13(1924)年入地の当初は穀蔽専業として開始したが、やっているうちに、経営者として指導方案に対し、種々の疑問点を発見した。一つは火山灰地には加里分がほとんど無いということである。すなわち笹の根や草の根を焼いた跡地の作物は、一般の作物よりも成育がよいことから、加里分加用の必要を痛感した。
また、大正13(1924)年の6月、7月は、87日間も日照りが続き大かんばつで、堤防地など沖稜土地帯や粘土地の作物は、日中の強い日照りで、しおれて枯れる一歩前の状態になるが、火山灰地は作物が元気に生き生きと育っているということ。これは毛細管現象によって、火山灰地は水分の蒸発が遅いということがわかった。
また、化学肥料だけでは土地が肥沃とならず、火山灰地には堆肥が必要であるということを痛感した。しかし穀蔽専業では堆肥が生産されない。[2]
寺島弘は胆振の関口峯二だった。
■宇都宮仙太郎、黒澤酉蔵が協力
火山灰地の農業は十分な肥料を与えれば大きな可能性を持つことが確認されたが、持続的な農業をしようと思えば継続的に堆肥を与えていかなければならない。経営試験を統括する北海道農事試験場場長安孫子孝次は、デンマークから学んだ有畜循環農法、すなわち北方農業を導入することを決めた。
本経営は当初純粋の穀菽経営であつたが、開墾が終ると同時に乳牛1頭を入れ、昭和7(1932)年及び同9年に各1頭を増加し、混同経営の形態をとるにいたった。 昭和11(1936)年以降購入若しくは借入により畑地・水田・草地を加えたが、昭和16(1941)年には畑は旧に復し、水田1町歩と草地5町歩をあわせて16町歩の経営となり、この間、逐次乳牛の増加を図り、成牛4~5頭に達した。[3]
このように牛が導入されて有畜循環の北方農業が始まったが、農業として成立したとしても、経営として成立するためには、乳牛が商品として販売されなければならない。ここで北方農業の民間側の牽引役である宇都宮仙太郎、黒澤酉蔵が協力した。
こんな状態で乳牛の増殖を考えたとき、牛乳の販路が何よりも心配で、当時の山田村長に相談し、北海道酪農組合連合会の宇都宮仙太郎氏や黒澤酉蔵氏に相談したところ、乳牛100頭ぐらいいれれば、早来に集乳所を設置してもよいとの話がになったので、村長と協議して乳牛の増殖計画をたて、道の補助牛制度により、補助牛8頭を確保することができたが、集乳目標には達せず、村長と再三にわたり相談した結果「百頭導入計画」をたて、乳牛導入希望農家を募集したところ、多数の賛同を得て申し込みがあったので導入計画に着手した。[4]
こうして有畜農業の基盤が整うと、火山灰試験場を中心として東早来地域は酪農村として拓けていった。
その後昭和4(1929)年9月、滝川の酪農家30戸を代表して、富樫鉄之助氏、山田哲氏ほか3名の方が酪農経営地を求て来村し、私の経営を視察した。私はさっそく村長に紹介して誘致に協力した。視察された方の話では乳牛250頭と共に入地するということで私も大喜びであった。これで火山灰地に酪農村の建設ができることを確信した。
その後、早来に集乳所も建設され、滝川酪農団体の入植とともに昭和8(1933)年には遠浅のチーズ工場、早来の森永煉乳工場も設置されて、一躍酪農の村として発展してきた。[5]
寺島が述べている「滝川酪農団体」とは、昭和5(1930)年4月に滝川から32戸が早来の遠浅、富岡に入植した滝川産乳組合酪農団体。第1次大戦後のバブル崩壊で主産業の造材業が打撃を受けた「この村に一条の光明を与え起死回生の道を開いた」(『早来町史』160p)という。
【安平町早来の日本最古の木造サイロ】(出典①)
滝川産乳組合酪農団体の酪農家が昭和初期に建てたもの。北海道の酪農の歴史を伝える貴重な開拓遺産だが、老朽化のため2015年12月に一度解体された。惜しむ声が強く2018年10月に町内のはやきた子ども園(井内聖園長)の前庭に復元された。(写真は移設前のもの)
北海道では貴重な「開拓遺産」が日々失われている。このサイロも危うく消滅を免れた。
■黒澤酉蔵、第2期拓計を練り上げる
昭和2(1927)年、早来で成果を挙げた北方農業による農業経営試験が全道で展開される。「北海道第2期拓殖計画」を受けてのことだった。明治43(1910)年の「第1期北海道拓殖計画」が道路や鉄道など北海道の骨格をつくる計画だったとするならば、この第2期拓殖計画は北海道の臓器をつくる計画だったと言える。
そしてこの第2期拓計の原案をつくりあげたのが、宇都宮仙太郎とともに北方農業を先導した黒澤酉蔵だったのである。
黒澤は大正13(1924)年8月、北方農業を推進する仲間の支援を受けて札幌区選出の道議会議員に当選した。仲間の思いは改定が迫っていた北海道拓殖計画に北方農業の実現を盛り込むことだった。
『黒澤酉蔵伝』(青山栄・1961)はこの時の黒澤の活躍を次のように伝えている。
彼が道政に画して最も力を入れ、また、最も大きな功績を残したものは、北海道第2期拓殖計画の策定であり、その計画のうちに新たに畜産組合連合会が2ヶ年の日子を費して策立した「牛馬百万頭増殖計画」をとり入れ、寒地農業確立の基礎を築いたことである。
彼は如何なる場合でも物事を深く考察した。そして一度口を開けば必ず問題の核心を衝き、徹底するまで押して行かなければ止まなかった。彼の道会における所論は新米議員であったにかかわらず、よく肯綮(こうげい)に当り、すこぶる傾聴に値するものであったから、たちまち議会の中心的存花となり、推されてその所属している憲政会の拓殖計画策立副委員長となった。
この委員会の委員長は沢田利吉代議士であったが、沢田は非常に多忙であったために、黒澤の識見と手腕を深く信じ、計画樹立の一切を彼に任せてしまった。
もの事に熱心で人一倍責任感の強い黒澤は、満4カ月、不眠不休の努力を続けて計画案をとり纒め、20ヵ年計画、10億4500万円の憲政会案をつくり上げた。もちろん盟友深沢の協力も少くなかったが、道会の1年生議員でありながら、北海道の拓殖という国策予算をつくったのであるから、一躍中央政界に北海道に黒澤ありとの認識が生れた。
憲政会はこれをそのまま党本部の計画案と定め、当時の加藤高明内閣は──後に浜口内閣──数字には若干の変更はあったが、骨子はそのまま、20カ年9億6300万円の政府案として帝国議会の協賛を経て北海道開発の新方針としたのであるから、彼は後年「これは実に働き甲斐のある仕事だった」といっているが、このことを知る人は少ない。彼はこういうことは決して自ら宣伝しなかった。[6]
【酪農義塾開設時の宇都宮仙太郎と黒澤酉蔵】(1933年・出典②)
■北海道をデンマークにする「牛馬100万頭計画」
「北海道第2期拓殖計画」、なかでも農業振興計画の中に盛り込まれた大胆な「牛馬100万頭計画」が注目を集めた。
《牛馬100万頭計画案・増殖目標》
◎農家戸数:30万戸
◎耕地面積:150万町、
◎牛:50万6000頭(畑作地帯平均5町歩につき牛2頭、馬1頭)(水田地帯平均3町歩につき牛馬各1頭)(濃霧地帯10町歩につき牛2頭馬1頭)
◎馬:3才以上の使役馬・42万2000頭
◎生産牛乳:適当な地帯に酪農組合を組織させ、夫々共同製酪所をつくり各製酪所には数ヶ所の牛乳分離所を附属させる。共同製酪所の製品は畜産組合連合会が品質検査の衝に当り拓殖費でこれ等の事業を補助育成する。[7]
大正12(1923)年の段階で北海道で飼われていた牛は2万3000頭(『新北海道史5巻・510p)に過ぎなかったので、20カ年とはいえ極めて野心的な計画だった。北海道の農業をデンマークに学んだ有畜循環農法に変えようとするならば、これぐらいの頭数は必要ということである。
この時期の北海道開発を官の強い指導とする歴史書は多いが、その指導の根拠となる計画は、実に民間人である黒澤酉蔵が仲間の農業者、酪農家の付託を受けてつくった計画だった。このことは覚えておきたい。
■農事試験場、全道で経営試験を展開
北海道第2期拓殖計画を受けて、北海道農事試験場には「牛馬100万頭計画」を実現する営農モデルの構築が課せられた。安孫子孝次ら農事試験場幹部は、早来で成果を挙げた経営試験を全道的に展開することで計画を推進しようとした。そしてこの計画のために北海道帝国大学の助教授となっていた農業経済学の英才・渡辺侃を大の席は残したまま農事試験場嘱託として呼び戻したのである。
この時、経営試験の実施場所として選定されたは下記の10カ所。いずれも、営農条件が劣悪で、北海道が農業王国として立ち上がるためには克服しなければならない場所だった。
根室国・中標津(昭和3(1928)年)
十勝国・幸震(昭和3(1928)年)
北見国・上斜里(昭和4(1929)年)
後志国・利別(昭和5(1930)年)
胆振国・喜茂別(昭和6(1931)年)
北見国・沼川(昭和7(1932)年)
胆振国・長万部(昭和8(1933)年)
天塩国・幌延(昭和9(1934)年)
十勝国・上士幌(昭和10(1935)年)
石狩国・美唄(昭和11(1936)年)
後志国・熟郭(昭和12(1937)年)
釧路国・鶴居(昭和12(1937)年)
北見国・雄武(昭和13(1938)年)
渡島国・厚沢部(昭和14(1939)年)
胆振国・徳舜瞥(昭和15(1940)年)[8]
■斜里岳のすそ野で農業はできるのか
これらのなかで上斜里経営試験場(現清里町)は、斜里岳すそ野の高原部で、地力の低い火山灰地であり、季節風による風害がひどく、離農者が相次いでいた。今では想像もできないが、網走から斜里にかけての高原部で農業はできない、とこの時代では考えられていたのである。
上斜里は経営試験の全体構想を任された渡辺侃にとってはかつて支場長を勤めた北見支場の管轄、いわばお膝元であり、「牛馬100万頭計画」の成就のためにも、または彼自身のキャリアのためにも、必ず成功させなければならない場所であったのだ。
以上が、昭和4(1929)年、渡辺侃が上湧別に関口峯二を訪ねた背景である。
【引用出典】
[1]『早来町史』1973・393-394p
[2]『早来町史』1973・394p
[3]『早来町史』1973・271p
[4]『早来町史』1973・395p
[5]『早来町史』1973・395p
[6]青山栄『黒澤酉蔵伝』1961・黒澤酉蔵伝刊行会・87-88p
[7]青山栄『黒澤酉蔵伝』1961・黒澤酉蔵伝刊行会・89p
[8]『北海道農業技術研究50年』1952・北海道農業試験場・北海道立農業試験場・258p
【写真出典】
①ウイキペディア>https://ja.wikipedia.org/wiki/安平町
②『酪農学園史 Ⅲ』2013・学校法人酪農学園・591p