北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[江別]  樺太アイヌの移住(1)

 日本か ロシアか

 

明治8年、樺太千島交換条約によってロシア領となった樺太に住むアイヌが北海道に移住したことは「樺太アイヌ強制移住事件」として開拓使のアイヌ迫害の代表的事例として副読本「アイヌ民族:歴史と文化」にも取り上げらています。先の直木賞受賞作「熱源」でも取り上げらました。樺太アイヌが入ったのは現在は江別市となっている対雁で、ネットで「アイヌ 対雁」と検索するとおびただしい量の「強制移住」の言葉が飛び込んできます。
 
当サイトは、明治期の北海道でアイヌ民族に対してまったく非難を受ける行為は無かったと主張するものではありません。たとえ不名誉なことであっても、北海道に暮らす者として当時本当に何があったのかを知っておくべきだと思いました。樺太アイヌを受け入れた江別市の昭和45年『江別市史』から「樺太アイヌの移住」をお届けします。
 

 

 

■ロシアを選ぶか、日本を選ぶか

樺太千島交換条約によって、この地のアイヌは日本籍かロシア籍かを選ぶことになりました。日本を選んだアイヌは北海道へ渡りました。
 
明治8(1875)年5月7日、ロシア外務大臣ゴルチャコフとの間に、樺太と久里留交換条約が締結され、日本はウルップ島以北占守島仙にいたるまでの島々を併せて千島全島を獲得し、樺太全島をロシャに譲って、嘉永6(1853)年以来しばしば紛争を重ねてきた樺太問阻に終止符を打ったのである。
 
こうして領土の引き渡しは早くも同年8月に行われたが、このとき土人はどちらに属するも自由で、3年以内に去就を決め、その所属したい国に行き、もしくは留まればよいことになった。
 
由来わが国は寛政2(1790)年以来、樺太場所を設け、真岡、白主、久春古丹などに根拠地を開いてアイヌ人と交易し、またこれを使役して漁業を営み、樺太南部地方のアイヌとは特に親しい関係をもっていた。
 
これらのアイヌ人たちを領土とともに捨て去ることを忍びず、北海道に移住させる計画をたて極力これを勧誘したが、引き掲げが急に行われたために、伴ったものは根拠地付近にいたもの108戸・男女841名に過ぎなかった。それでも9月には移住費1人2円50銭(※現代換算11万9047円)を支給し、樺太庁の引き上げとともに官船または小船で続々と宗谷に移ったのである。[1]
 
対雁への樺太アイヌの移住は一度に行われたのではなく、まず対岸の宗谷への移住が行われ、続いて空知への移住が行われました。「強制」とは「威力・権力で人の自由意思をおさえつけ、無理にさせること。無理じい」(広辞苑)ですが、この移住は樺太アイヌの自由意志に基づいて行われおり、「強制移住」ではありませんでした。
 
※ 朝日新聞社の『直段史年表』(1988・週刊朝日編)明治13年の日雇労働者の1日あたりの賃金21銭から現在の土木労働者の1日賃金を1万として換算した
 
 

■宗谷から空知太へ

 

移住を承諾した樺太アイヌは、故郷に近い宗谷への移住を求めました。いったんここに落ち着いたものの黒田清隆開拓使長官はさらに空知に移すことを決めました。
 
そもそも樺太アイヌたちは、生国である祖先の地を離れて他処に移ることは好まなかったが、日本は祖先からの関係の深い国であったので、これと別れるに忍びないという考えから、やむなく移住を承諾したものの、毎日故郷を望み得る宗谷に永住することを希望した。
 
しかし開拓使は彼らを樺太と一衣帯水の地である宗谷におくことは、日夜父祖の地を追慕させ、ついには漕舟に巧みな彼らは漕舟を労して帰るものがあったり、自然往来もはげしくなって、これが国際的に面白くない結果を生じてもいけないという考えから、宗谷は天産に乏しく、彼らの生活を維持させて行くことが困難だとの理由で、これを江別太に移そうとした。
 
この土地を選んだ理由は、もちろん当時開拓地の先端に位置するところではあったが、松本判官の手記によれば、当時発見され開発に着手した幌内炭山の抗夫の募集が困難なため、この地に移し、使役しようとする目的もあったという。
 
樺太アイヌたちは容易に再移住をしようとはしなかった。百方手を尽した説諭もその効がなく、ついに北見国江差枝幸に移そうとの説も一部に出たが長官は許さなかった。[2]
 
黒田長官が樺太アイヌを宗谷からさらに南に移動させようとしたのは、最終的に戦争に到る日露の対立のなかで、樺太アイヌが宗谷海峡を越えて往来を始めることによる安全保障上の理由と、アイヌには農業についてもらおうという考えがあるなかで農耕に不向きな土地だったからです。
 
なお、文中に松本判官の手記として開拓使にアイヌを炭鉱労働に就かせる意向があったことが伺われます。どこまで実現性を検討していたかは明らかではありませんが、実際には行われませんでした。この松本手記をことさら強調してアイヌ迫害を強調する論説が散見されますが、北海道の開拓期にアイヌを労働力として使役した事例はまったくありません。誤解が多いので付記しておきます。
 

樺太アイヌの住居①

 

■厚田漁業で再移住に同意

樺太アイヌは移住予定地の空知太を視察しました。その結果、農業に従事するのは嫌だが厚田で漁業するのならばよいとして再移住を承諾しました。
 
しかしアイヌにしても、故郷を去るに際し、ロシアの官憲が、退去するアイヌが未だ荷物も抱えないのに、早くもその家民に石油を注ぎ、焼き払う準備をして出発を迫り、足外に出るとたちまち多年住みなれた家が火に包まれたのを見たりしたものだから、開拓使の考えも無下に断り切れず、止むを得ず来春をまって移住地を実地を見分した上、命令に従うことにし、その年は暮れた。
 
翌9年、融雪期をまって10名の代表を送び、札幌・小樽の繁栄を見せ、ついで江別・対雁を実地調査をさせ、さらに石狩・琴似地方を実見させた。
 
しかしながら一行の視察は開拓使の予期に反し、その報告を聞いた一同は、今まで漁猟生活を送ったものが、にわかに農業に従事することは困難だとして、以前再移住を拒否しつづける結果となった。
 
しかし連日の説諭の結果、遂にアイヌ側も、厚田にならば移ってもいいといい出したのを幸い、仮にこれを許し、直ちに移民全部を開拓使官船弘明丸にのせ、小樽に輸送した。[3]
 
開拓使は「強制」ならないように空知太への再移住を納得してもらうために現地調査の許可など理解を得るための努力を続けています。
 
この件で開拓使の対応が非難されますが、〝強制移住〟が行われず、樺太アイヌがそのまま残ってロシアの支配下に置かれたらどうなったのか──有無を言わせず住宅を焼き払ったロシア官憲の姿勢が暗示しています。
 

■突然覆された合意

厚田に向かうはずの移民船のなかで、開拓使は「やはり江別太に移住してくれ」と言い出しました。
 
小樽に着いたは6月24日であった。滞在約1カ月いよいよ小樽を出発するに当っては、従来、移民との折衝に当った官吏はことごとくさけ、七等出仕鈴木大亮に巡査5名および通弁兼取締約5名をのせ、別に小樽船改所在在勤8席上野正をして土人取扱主任に任命して同行せしめ、その銭函沖に出たとき、一同を招集し、開拓使の方針としては「江別太に移住せしむるよりほかに途のない」ことを告げさせた。
 
これを聞いはにわかに騒ぎ出し、同乗官吏の制止をも聞かず、わずかに「長官の命令は今さらどうすることも出来ない、まず指定地に到着してから再顧するより仕方がない」ということになって、ようやく石狩川を遡り、対雁の現今の三角地に到着した。
 
直ちに上陸して、あらかじめ設備せられた間口5間、奥行8間の貯蔵倉庫に事務所を開き、移民は天幕の中に分宿させ、炊き出しをした。[4]
 
開拓使はアイヌに親しい担当者を外し、新たな担当者に船中で「やはり厚田には行けない」と言わせています。これはさすがに批判に値する行為です。明治政府の権威を背景に行われたこのことは「強制」と言われても返す言葉ありません。
 
同時期(明治4年)に「開拓使仮学校附属北海道土人教育所」が東京に設けられ、38名のアイヌが農業を学びますが、厚田で漁業に就かせることを開拓使が嫌ったのは、アイヌには農業に就いてもらおうという開拓使に方針があったためでしょう。
 
アイヌとの合意が突然覆された背景に黒田長官の強い意向、それを現場に伝える東京在勤の長官との時間的な距離などがあったのではないかと思われます。
 

対雁に移った樺太アイヌ②

 

■樺太アイヌ、対雁へ上陸

空知太についても樺太アイヌは約束と違うと非難を続けましたが、開拓使が漁業に就く準備をすると約束したため、アイヌは定住の準備に入りました。
 
そして翌日、道具を与えて一同は最初の約束と違って希望しないところに移されたのだから、永住する意志はない、従って小屋掛をする必要もないと言って係官の言うことを聞かず、宗谷滞在中の取扱者に対し面会を強要するなど、ほとんど何事もなすことが出来ないうちに空しく10数日を空費した。
 
そして、ようやく、最初からの責任者中判官堀基が来て、この地に永住するならば適当な漁場を考慮しようと確約したので、始めて落ち付き、各自が小屋掛け着手するようになった。[5]
 
当然のこととしてアイヌは怒ります。ここで意をとどめたいのは、開拓使はけっして暴力などの強硬手段に出ることなく、終始話し合いでことを収めようとしているところです。
 
最後に責任者として出てくる堀基は元薩摩藩士、黒田長官の最愛の部下で、明治14(1881)年の開拓使官有物払下げ事件で黒田が開拓使長官を降りた後に、道内の薩閥を率い後に北海道炭鉱汽船(北炭)を起こした当時の開拓使ナンバー2です。
 
約束を違えて空知太にアイヌを下ろした開拓使の行為は非難されるべきですが、その後の抗議に対して強硬手段に訴えることなく、アイヌの主張も取り入れながら、あくまでも話し合いで解決しようとした開拓使の姿勢は評価されるのではないでしょうか。
 

 


【引用出典】
[1]『江別市史 上巻』江別市・1970・197-198p
[2] 同上・196-199p
[3] 同上・199p
[4] 同上・199-200p
[5] 同上・200p
①『江別市史 上巻』江別市・1970・203p
②同上・202p

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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