北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[江別] 樺太アイヌの移住(2)

 対雁樺太アイヌ部落 至れり尽くせりの厚遇
 

今、江別では、強制移住の犠牲になった樺太アイヌ移民の「殉難の歴史を語り継ぐ」という慰霊祭が行われています。明治開拓の最大の犠牲者として語られる彼らはこの江別対雁でどのような処遇を受けたのでしょうか。どれほど悲惨な目に会ったのでしょうか? アイヌ部落の実態を昭和45(1970)年の『江別市史 上巻』の「樺太アイヌの移住」から抜粋してお届けします。これを読んで私は歴史観が180度変わるくらいの衝撃を受けました。まさか開拓使は樺太アイヌに対してここまでとは……

 

■雁来アイヌ部落の発足

紆余曲折はありましたが、明治9(1876)年6月、樺太アイヌの空知太対雁での暮らしが始まりました。
 
樺太アイヌが対雁に移住すると共に、開拓使ではその居住予定地の中心に用意されていた管理の詰所ならびに撫育品貯蔵庫に勧業員1名その他を常置し、保護指導に関する一般の事務を取り扱わせた。
 
また土人取締別5名を置き、さらに従来の役土人、すなわち総乙名、脇乙名と呼ばれたものし名を伍長に、小使、土産役と呼ばれたもの15名を副長と改め、前者には4円(現代換算19万476円)、後者には3円(14万2857円)の月給を与えて従来通り、アイヌの世話役とした。[1]
 
伍長は勇藤郎、伝兵衛、タラコタン、フミヤシク、シヘミラン、サルトキの7人、副長はトレハンチ、アウトヨ、子三郎、ヲロハウシ、ヱフクンク、保四郎、仁四郎、六助、平作、カンシャ、トサランク、歌作、カツクラ、チメキラ、エラッケの15名だった。
 
その総代は勇藤郎こと樺太勇登呂麻加で、久春古丹の大酋長であった。勇藤郎の死後、子の勇左衛門が若かったので、木下知古美郎(チコビロー)がその跡を襲い、真岡の出身の西崎西郎と白浦出身の東風梅尾が副総代となった。知古美郎は久春古丹の旧家で、弁舌に巧みな、なかなかの人物であったらしい。[2]
 
開拓使は移転費として4650円(2億2142万円)、小屋および板蔵建設費として5960円(2億8380万円)(小屋1戸55円(261万円)として100棟分および板蔵1棟460円(2190万円))、米1日平均4合として3カ年間1万8128円(8億6323万円)、計3万8738円(18億4248万円)を支給し、石狩川下の鮭馬3カ所、原田郡の鰊建網漁場3カ所の買上代および経営資金として1万7692円(8億44247万円)を6カ年賦で融通することにした。その他学校、授産などの施設は多く官費であった。[3]
 
ここに挙げられている移転費、小屋建設費、漁場の経営資金の合計は、現代換算で約13億6845万円です。移住した樺太アイヌは108戸ですから1戸当たりでは1267万円となります。この他、多くの事業に開拓使は資金を投入し、樺太アイヌ移民のさまざまなことについて手当を支給しています。
 

■生活インフラの建設

樺太アイヌ移民はいったん対雁の石狩川の対岸に入ったあと、住宅等の準備ができ次第対雁に入って集落を築きました。
 
7月中旬、移民は仮住居である三角地から暫時石狩川の左岸に沿って西に移り、移民を使役して作られた幅1問延長1065間の苅分道路に沿い細長い部落を作った。
 
家屋は開拓使で建設することになっていたが、移民各自が自家労力で建てたので、手当として1戸につき金3円(14万2857円)を与えたほか、残額は積み立て金とした。
 
家は在来彼らが住んでいた草葺きの小さな仮小屋で、床もなく、窓もすくない屋だった。そのため開拓使は後、積み立て金の中から1坪1円(4万7619円)の奨励金を出して、明治15(1882)年までには108戸のうち80戸が床張になった
 
なお、居住地は湿地が多かったので排水溝を掘り、また井戸を2カ所設けて河水を用いる習相を改めさせようとした。[4]
 
もともと家屋は開拓使が建てる予定で1戸当たり261万円の予算2億6100万円が計上されていました。これが手当に代わりましたから2億4672万円が余りましたが、これらはすべて積み立てられ、移民の福利厚生に使われました。
 
 

■1日5号の米を扶助

樺太アイヌ移民には生活に慣れるまでの3年間生活扶助が与えられました。
 
扶助米は満15歳以上1日玄米5合、満17歳以上15歳未満は3合、満3歳以上7歳未満は2合を給与することになったが、将来のためこの中から1人1日1合を強制的に積み立て、明治10(1877)年1月、確実な不動産を抵当として1カ月2分5厘(1190)円の利子で一般に貸付け、その元利を教育・撫育などの資金にした。
 
米塩の扶助は、明治12(1879)年6月をもって予定の3カ年を経過したので経過したので廃止されたが、老幼・廃疾などの手当は積立金のなから支給され、1カ月玄米9升、塩2合を給与されるものが30名におよんでいた。[5]
 
「15歳以上1日5合」の5合は750gです。『直段史年表』(朝日新聞社)によれば明治10(1877)年の白米10kg当たりの東京での標準小売価格は51銭です。1石は約150kgです。玄米と白米の違いがありますから仮に半額とすると、1日当たり7銭相当の扶助を受けていたことになります。これは1日当たり現代換算で大人1人3333円になります。1家4人であれば1日1万円程度の食費の扶助を受けていた計算です。
 
なお文中に「1人1日1合を強制的に積み立て」とありますが、これは言葉の使い方が不適切で、開拓使が福利厚生分を天引して扶助を支給したということです。
 
以前紹介した和人入植者の「米は食べるものではなく見せてもらうもの」「病人にだけ食べさせる薬」という証言がありましたが、1日5号の米が支給されるというのは夢のような待遇であったでしょう。
[北見] 昭和29年 古老炉辺談話
 

■医師1名を常駐させる

医療にも当時としては最大限の態勢をとりました。
 
また出生死亡に際しては2円(9万5238円)の手当が支給され、病人は、10年1月設けた「樺太移民取締方仮則」によって本庁の病院に入院せしめたが、さらに村内に医師1名を駐屯させて急病人もしくは軽病人の処置に当らせた。[6]
 
後の話しですが、このアイヌ部落で疫病が発生し、多くの病死者が出ました。このことについては後に検討しますが、アイヌ部落開設にあたっては開拓使は医療においてもできうる最良の態勢をとったことを抑えておきましょう。
 

■手厚い漁業の起業支援

開拓使による樺太アイヌ移民に対する漁業支援は、漁業の起業資金を指導員とともに開拓使が貸し付け、漁獲から6年間で返済するものでした。
 
一方、移民などが小展掛を始めると、開拓使は約束に従って、石狩川沿岸知狩・来札・シビシウス(対雁・豊平川河口両岸)の4カ所に鮭場を新開もしくは購入して、土人漁場とし、漁具・漁船・庫を用意し、適当な和人漁夫を傭い入れて監督指導に当らせ、勧業課員の下に漁業に従事させることにした。
 
漁獲物は、最初3年間は開拓使が生活費を給与し、漁業資金を貸与したので、アイヌの食糧として直接入用な分だけ差し引き、毎年漁獲高の3分の2ずつを借用資金の返済にあてることにし、4年目からは生活費給与が廃止されるので、返納額を収穫高の4分の1に減らすことにし、6カ年で完済する計画だった。そして完納した後は、漁場ならびに漁具を移民のものとし、その収益で生活を続けさせようとしたのである。
 
すなわち、この期間は移民が官営漁場に雇われる形で、最初は、食糧のほか1人1カ月1円(4万7619円)ないし1円50銭(7万1429円)の手当が与えられたが、扶助廃止後、すなわち明治13(1880)年春漁後は「一同独立勧奨、且ツ百事精功ニ進歩スル一端」として、各自の働きに応じて一般漁民と同じ振合い、すなわち上1カ月5円(23万8095円)、中同4円(19万476円)、下同3円50銭(16万6667円)を給与し、家族の生活はこれで維持させることになった。[7]
 
漁場の事業資金を開拓使がアイヌ移民に融資するかたちですが、返済期間、アイヌ移民は開拓使に雇われるかたちで、先に紹介した玄米の扶助の他、約5万円から7万円の手当を受けています。商売を始めるにあたって銀行から借り入れますが、事業が軌道に乗り返済が終わるまでは公務員として給料を保証しますよ、というようなものです。大変な厚遇です。
 

■婦人には漁網づくりの技術を

漁場に出ない移民女性には麻で漁網をつくる技術を教えることで、収入を得る道を授けました。
 
かくて授産の主体は漁業に置いたが、設けられた漁場で働ける男女全部を収容することはできなかった。そこで開拓使は、家に残った婦女子等に手工業を与えることとし、豊平川左岸、番屋付近に設けられた係員詰所の傍らに製網所を設け、教師として平岸村の農業高橋浪華およびその妻婦賀を招き、浪華には月給7円50銭(35万7143円)で製網造を、妻には月給5円(23万8095円)で麻苧(あさお= 麻の繊維を原料として作った糸)製糸を指導させることとした。
 
この事業もまた官営で、官は原料となる麻苧買い入れて加工し、製品を売って利益を保護費にあてたてので、これに従事するアイヌは日給が与えられた。[8]
 
漁網の加工事業ですが仕入れ販売は開拓使の手で行われ、アイヌ移民は給料を貰うだけでした。この給料も先に挙げた生活扶助に加算されることになります。当時の開拓使はここまでアイヌ移民の将来の生活設計を考えていたかと思うと頭の下がる思いです。
 

■農業を教える

このように開拓使は、樺太アイヌ移民の希望を受けて漁業で生活が成り立つように計らいましたが、本来の目的は彼らに農業の知識を授けることでした。
 
明治9(1876)年7月、彼等が対雁に移るや、勧業課は詰所附近の畑地を利用して大根、蕪(かぶら)等を植え、試作させたが、明治10(1877)年、計画を立て、概耕地3500坪を、移民の中より選んだ3人の人夫によって耕作させた。
 
労賃は1カ年3円75銭(17万8571円)を積立金の利子の中から支給したが、農具(鍬、レーキ、ホー、スペード)は積立金利によって修繕することにして本庁より借り受け、種子は本庁から下付を受けた。作物としては、製網の原料となる麻を試作しようとしたが、失敗する虞があるので、普通作物を交えることにした。[9]
 
額は少ないですが、ここでもアイヌは労賃の支給を受けています。和人入植者がすべて自己資金で営農に就いたことと比べるとこれも大変な厚遇です。
 

■学校を設けて文字を教える

この対雁のアイヌ部落で特に重視されたのが子弟に対する教育でした。
 

「対雁学校」開校式①

 
対雁の樺太移民はいわゆる無知の民で、文明社会に生活さすためには教育が何よりの急務であった。言語の通じないのもその一つだったが、新しい社会を理解することができなかった。
 
そこで教育の必要が力説され、翌10年3月、係上野正の建議に基づき、移民の子弟特に幼年者を教育するため、製網所内に教育所を設け、11月落成、生徒30余名を収容、授業を始めた。その予定によれば移民の子弟で14歳以下17歳以上の者60余名中まず20名を選んで収容し、教育に対してまったく経験がないものであるから、直ちに小学正則の教育を行うのは困難だというので、イロハ習字および綴字・単語・和語等を主として教え、教師なども特別に置かれず、駐在吏員ならびに副戸長が兼務することになっていた。
 
またこれを奨励するのは一朝一夕ではできないということで、学用品はもちろん、昼飯、菓子類、衣服までも与えてこれを誘うこととし、そのため生徒1人に対して1カ月60銭(2万8571円)を積立金の中から出すことにした。
 
翌11年1月、学務局の直轄となり、正式の小学校として12日開校式を挙げた。当日は大書記官堀基および事務課2等属細川碧が臨席し、生徒父兄に教育の必要な所以を説き、その前途を祝した。
 
将来の維持費として、係官上野正が10円(47万6190円)を寄付したところ、移民一同もその必要を了解し、樺村勇藤郎、畠山伝兵衛、木下チコヒロをはじめ254名が各10円を拠出し、その他を合せて2600余円(1億2309万円)を小樽地方に貸し付けて利殖を図った。なお1500円(7142万円)を年々共有漁場坦益金から校費として支出した。
 
入学希望渚は次第に増加して、校舎は早くも狭くなり、8月には官費増築が必要となった。工費1772円90銭9厘(8442万円)、51坪半の校舎は、翌年6月に竣工し、20日開校式を学げ、校名を対雁学校と呼んだ。収容生徒は70余名、開設当時に倍する人数となった。[10]
 
この「対雁学校」がこの後の土人学校のモデルになったなったのでしょう。「アイヌ語やアイヌ風の生活習慣が禁止され、日本語や和人風の生活習慣を身につけること強いられた」(副読本『アイヌ民族:歴史と文化』中学生版24p)などと語られるところですが、この学校をつくるためにアイヌ移民254名が1人50万円近い金額を拠出しています。このことをどう捉えたよいのでしょうか?
 

■明治天皇に舞踊を披露する

以上のような支援便宜に加え、開拓使は樺太アイヌ移民に対してさまざまな働きかけを行いました。
 
なお学校教育に止らず、社会教育にも、殊に同化に力を致し、各戸に国旗を配って掲揚させたり、札幌神社の御札を配って敬神思想を涵養しようとしたり、明治14(1881)年東京に第2回勧業博覧会が開かれると、男女10名を選んで上京させて見物させたりした。
 
同博覧会に出品した縞縮緬・白袖・厚子織および鰊粕はともに3等有功賞を得、開乾鮭および大豆・麻網等は褒賞を得た。
 
さらに上野正は古くからかった弁天社を修理し、烏居を新設して氏神とした。今日の対雁神社がこれである。神体は長さ2尺、経3寸の柱状をなした翠色の天然石で、石狩川の曳網にかかって3度もあげられたものだという。この地に杞られたのは恐らく弘化年間、対雁番屋が篠津から今日の処に移された時であったろう。[11]
 
対雁の樺太住民にとって忘れることの出来ないのは明治14(1881)年9月1日、明治天皇が札幌御巡狩の節、札幌偕楽園清華亭において、舞踊を天覧に浴したことである。[12]
 
この明治9(1876)年の樺太アイヌの対雁移住は、明治のアイヌ迫害の典型例として語られてきました。凄惨な環境に置かれ、多くのアイヌが命を奪われたとして現在は慰霊祭が行われています。

さて『江別市史』に掲載されたアイヌ部落の実情を読んでいかがだったでしょうか? 少なくとも私はこの事案に対する見方が180度変わりました。〝至れり尽くせり〟という言葉がこれほど似つかわしい厚遇もありません。樺太アイヌの同意を得ずに対雁に連れてきたことはもちろん批判されなければなりませんが、開拓使はそれに対する償いを十分しているのではないでしょうか? 
 
正直に言って、今まで聞かされてきた歴史は何であったのかと強い戸惑いを覚えています。
 

清華亭
樺太アイヌ移民がここで明治天皇に舞踊を披露した②

 

 


【引用出典】
[1]『江別市史 上巻』江別市・1970・202-203p
[2]同上・218-219p
[3]同上・204p
[4]同上
[5]同上・204-205p
[6]同上・205p
[7]同上
[8]同上・206-207p
[9]同上・209p
[10]同上・211-213p
[11]同上・215
[12]同上・219p
①『江別市史 上巻』江別市・1970・212p
②ようこそSAPPORO観光写真ライブラリhttps://www.sapporo.travel/sightseeing.photolibrary/
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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