北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[江別] 樺太アイヌの移住(3)

今なら東京へでも来たように嬉しかった。
何もかもみな嬉しかった

 

 樺太アイヌの移住(2)]で、開拓使が移住したアイヌに示した至れり尽くせりの厚遇をご紹介し、驚かれた方も多かったようです。今回は2つの資料を紹介します。(2)では『江別市史』を紹介しましたが、その記述の元資料が『石狩町誌』にありました。
 
もう一つは『江別市史』に掲載されたこの樺太アイヌ移民の一人である山辺安之助氏の手記です。この移住事業に対してはさまざまな本や論評がありますが(全てと言っていいほど批判的ですが)、本当はどうだったのか──当事者の声に耳を傾けましょう。

 
 

■開拓使調書──数字で近づく歴史の真実

 
残念ながら、北海道開拓、ことにアイヌが関わる事については、ネガティブにネガティブに解釈することが歴史学界の常識になっています。(ポジティブに捉えると「開拓史観」と批判を受けます)
 
この樺太アイヌの移住事業については多く研究書がでていますが、どれも明治政府のいわゆる同化政策を糾弾するもので、無理矢理連れてこられてきたアイヌが悲惨な状況に陥ったという論調で染まっています。こうしたものを読むと誰しも開拓使が一方的な加害者であると思うことでしょう。
 
ただし、そうした歴史書、研究書の記述も実は研究者という一個人の解釈、さまざまな解釈が可能な中で研究者という一人の人間が選んだ一つの解釈にすぎません。それなのに、大学の研究者、博物館の学芸員などという肩書きがつくと、あたかも唯一絶対の真理であるかのように私たちは思ってしまうのです。
 
そうした研究者の解釈に引きずられることなく、私たちでも歴史の真実に近づく方法として「数字を見る」ことが挙げられるでしょう。数字は主観の入り難い物差しだからです。
 
明治8(1875)年11月の『開拓使調書』に示された樺太アイヌの移住事業の経費を、いつもの『直段史年表』で明治13(1880)年の「日雇労働者の賃金」を元に現代の貨幣価値に換算しました。
 
私が『直段史年表』の「日雇労働者の賃金」を用いるのは、明治13(1880)年から昭和61(1986)年までほぼ途切れることなく網羅されており、生活感覚として実感できる値なるからです。
 
米10kgの値段を現代と明治で比べるものを見ますが、暮らしに占める米の希少性は明治と今では比べものになりません。今の米は数ある食材のひとつにすぎませんが、昔の米は、それを一口食べれば病人が床から起き上がったというほどのものです。
 
一方「日雇労働者の賃金」には「同一労働同一賃金の原則」が働きます。今、土木作業の現場で1日働くと1万円もらえる。明治13(1880)年に同じく土木作業の現場で1日働くと21銭もらえる。すなわち明治21銭は現代の1万円になる──ということですから、生活実感に基づいた換算方法ということができます。これを使って明治時代を見ると、100年以上昔がぐっと身近に見えてくるのです。
 

樺太アイヌ小樽上陸①

 

■樺太旧土人 宗谷より江別まで引き移り並びに小屋取建・扶助米塩共諸費調べ

これは樺太アイヌの北海道移住事業に費やした開拓使の直接経費です。

明治のお金で3年間に3万8000円というとピンときませんが、現代に換算すると18億4466万円になり、移住108戸で割ると一戸あたり1708万円という巨費になります。
 
また生活扶助として1戸当たり毎年413万円の給付があったことがわかります。413万円という金額は 、今の北海道でも平均的な収入ではないでしょうか。これは直接経費だけですから、(2)で示した学校の就学補助、漁網製造所の労賃などは入っていません。これらを入れるとさらに収入はさらに膨らみます。

換算することで数字の意味が見えてきます。
 


<初年>

石狩町誌・中巻・45p
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一金 4650円 (土人850人宗谷より江別まで引移入費)

  • → 2億2142万8571円(1戸当たり 205万0265円)

一金 5960円 (土人小屋並板蔵取建入費)

  • → 2億8380万9524円(1戸当たり 262万7866円)

 一金 9375円97銭5厘(土人850人 年扶助米塩1カ年代価(初年度分))

  • → 4億4647万6190円(1戸当たり 413万4039円)

合計 金 1万9985銭97銭5厘

  • → 9億5171万4286円(1戸当たり 881万2169円)

<2カ年目>

一金 9375円97銭5厘  (扶助米・塩代)

  • → 4億4647万6190円(1戸当たり 413万4039円)

<3カ年目>

一金 9375円97銭5厘 (前同)

  • → 4億4647万6190円(1戸当たり 413万4039円)

3万8737円92銭5厘

  • → 18億4466万6667円(1戸当たり 1708万0247円)
  [1]

■鮭緋漁場買上代その他諸貸与調

厚田村樺太アイヌ鮭漁場の図②


続いては石狩川河口や厚田に設けた樺太アイヌのための漁場の事業費です。これらの費用はアイヌに対する貸し付けで、漁場の収益から6年間で返済するかたちでした。今で言うと全額道からの制度融資で事業を起こすかたちです。

私たちであれば、事業が軌道に乗るまでの生活費はその借入の中から出すものですが、この時のアイヌの生活費は上記のように道から扶助がありました。こうした中で開拓史は樺太アイヌが漁業を営めるようにするために8億4247万円の出資をしているのです。

<初年>

石狩町史・中巻・46p
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一金 4500円 

  • → 2億1428万5714円

  内 3000円 (石狩河下鮭漁場3ヶ処買上代)

  •   → 1億4285万7143円

    金 1500円 (右3カ所普請その他諸費)

  •   → 7142万8571円

一金 3900円→ 1億8571万4286円
  内 2400円 (厚田郡鮭建網場3カ所買上代)

  •    → 11428万5714円

   金 1500円 (右3カ所入用縄筵・その他買上代)

  •    → 7142万8571円

 一金  3292円30銭5厘(宗谷において漁具買上代)

  • → 1億5676万1905円 

計 金 1万1692銭30銭7厘 

  • → 5億5676万1905円

<2カ年目>

一金 3000円(鮭・誹漁場6カ所諸費)

  • → 1億4285万7143円

<3カ年目>

一金 3000円(前同)

  • → 1億4285万7143円

合 計 1万7692銭30銭7厘

  • → 8億4247万6190円
  [2] 

 


 
■樺太アイヌ・山辺安之助の回顧録

 

山辺安之助

3年で1戸あたり1700万──。これほどの厚遇を受けて、はたして対雁に入った樺太アイヌは、多くの歴史本がいうように悲劇的な環境にあったのでしょうか? 自分たちをこのような境遇に追い込んだ倭人や開拓使に対して激しい怒りを抱いたのでしょうか? 

続いては『江別市史』に引用された樺太アイヌの山辺安之助の談話です。原典は『あいぬ物語』(1913・山辺安之助 著, 金田一京助 編)です。
 
この山辺安之助は、9歳で両親に連れられて樺太から江別対雁に移住。明治26年にロシア領になっていた樺太に帰郷しますが、明治37年に日露戦争が起こると、日本側について物資輸送や探察に活躍しました。明治43年に白瀬矗の日本初の南極探検に同行し、アイヌとして初めて勲八等瑞宝章を授かりました。
 
ここでも不思議なのは、樺太アイヌは明治政府によって凄惨な迫害を受けたはずなのに、日露戦争では日本に協力し、南極探検にも協力してしていることです。歴史書が言うように日本に激しい恨みを抱いていれば普通はロシアに協力したはずです。

このあたり、開拓使附属「北海道土人教育所」に「強制連行」された被害者なのに、泉鱗太郎の栗山開拓に協力した下夕張鉄五郎と重なります。「樺太アイヌ強制移住」を紹介する多くの本は、不都合なのでしょう山辺を無視します。

2019.11.04 アイヌ民族との共生[栗山] 下夕張 鉄五郎
2019.11.04 アイヌ民族との共生開拓使附属「北海道土人教育所」

さて、下記、山辺の回顧録を読んで、いかがでしょうか? 樺太アイヌから師範学校に進んだ者が2人もいるというのも驚きですが、ここに日本への恨みや敵意が少しも感じられません。素直に感じられるのは対雁に暮らすことの喜びではないでしょうか?
 
私たちは、本当の歴史を教わっているのだろうかと疑問がまた膨らみます。
 

当時官では吾々土人に、農業を習はしめて農民に仕立てようと考えられたものらしかった。
 
対雁と云ふ所は、石狩川河岸の土地の肥沃な、かつ場所も善い所であった。そこで、吾々一同は、対雁へ、これまでの樺太の家と同じような家を建てて、永住の場所と定めて住んだ。
 
家の数を数へると、200余の軒数もあったろうかと思う。これからして、男は農業や漁業に、女述は「製網所」で糸を縫ったり、網を編んだりするすることを教った。
 
こうして、対雁に来た初めの3年はなお、官からあてがい扶持でいた。そしてピチカリ、中番屋、先番屋、雷札、ソペシペシ・シャスカリの6箇所の漁場で、官から魚を捕ることを土人に許されていた。
 
明治11年の年に、対雁村へ土人の小学校が建った。ここで初めて私達は学校教育、土人の子弟の小学校が立ち始める。私達はすなわち、木当の、最初の小学校生徒であった。
 
学校の先生は、といふと、以前樺太に医者をしていた大河内宗三郎といふ人で、永く土人の中にいた人であるから、土人の言葉も出来た。最初の先生は、やはり、土人語の出来る人であったら、良かろうといふので、この人を先生にしたのであった。
 
この頃の学校の課目といふのは、読書と、算盤と、手習と、地理の本などであった。
 
私共は、樟太からぞろぞろ出て来て、この学校へ上ったときは、色々の人達と一緒に色々な遊びをするのが、何よりも愉快に思った。札幌のお祭りがあるときなどは、先生に連れらて、見に行ったものです。其時、色々な踊りが沢山あり、好い着物を着た人たちが沢山いる。それを見た時には、今なら東京へでも来たように嬉しかった。何もかもみな嬉しかった。それ故学校に行くのは一番面白かった。
 
可笑しいこともあった。先生は医者であるから、病人が出来ると授業が休みになる。1ヶ月のうち本当の授業のある日は、10日位か、あるいは15日位しか無かった。少し長い病人があるとときは10日くらいの休みの日もあって、前には習ったことが、スッカリ忘れてしまうので、また元へ返っに前に教わったことをまた習う。こういうふうであるから、私たちは、4年あまりもいたけれども、正味習ったのは2年位しかいない様に思はれる。
 
そのうちに私は仕事に出なければならないような若い者となった。今思えば惜しいことであった。も少しここで勉強したなら、も少し読み書きが自由になったら良かったのにと思うけれども、はじめてのことであったから、その時分には、そういふことも考えなかった。
 
大河内先生は久しからずして外へ転任された。そのあとへ来られた先生は、氏家先生も2年ほどいて、また他所へ行かれ、その後には、工藤勘之助といふ方と、宮永計太といふ方と2人の先生が来られた。
 
そのうち宮永先生が問もなく去られて、そのあとに来られたのは鹿児島県の人で道守栄一といふ先生でした。この先生は鹿児島戦争の時には賊軍になって戦った人で、何でも、賊軍の25人の頭だったそうだ。だから元気のよい怖い先生だった。私達が少し話でもすると、鹿児島弁で、
 
「こら! 何をしちょるか?」
 
と大喝一声されるので縮み上ったものだ。
 
けれどもこの先生が来られてから、学校がはじめて学校らしくなり、私達もはじめて勉強らしい勉強をした。それまでは遊び半分で、勉強には余り実が入らなかった。そして、以前には、工藤先生から撃剣など教はって、毎日々々打ったり、打たれたりして遊んでいた。
 
道守先生は撃剣には大反対で、いつでも、こう言われた。
 
「撃剣などは大きくなってからでも出来る。勉強の方は、小さい時からやっておかぬといけない」
 
こういって一生懸命に教ったものでした。私達が今日少々でも文字を知ってるのはこの先生のおかげでできたので、今でも感謝しております。
 
先生は、よく私達に大西郷のことを説かれた。先生が大西郷の話を聞かせる時分には、涙を揮って話された。私達も大西郷の話を聞くのが好きだった。
その話を聞かされる毎に血を湧して聞いたものでした。
 
その頃世界には、大西郷はまだ死なずに何処かに隠れているといふ噂があった。私達は、そうでありたいと思って、よくその事を先生に尋ねた。ただしその時には先生は声を曇らして、そうありたいものだが、ただし決してそんなことはないはずぢゃ、西郷翁は、現にその時に身に40余の創傷を被って、池辺吉10郎といふ人がその首を介錯したんだから、正しく死なれたはずじゃ、こういう話されるのであった。私たちは、子供心にもそれが非常に悲しかった。
 
然るに、この先生も中途で他所へ転任された。私達一同は一方ならず力を落とした。生徒の中には余り力を落してこのとき学校を止した者がたくさんあった。また年の多い方の子らは、この時、漁業の働きに出るものもあった。
 
私もまた、そうしてその時学校を引いて了ひ、そして、自分で、色々な苦労をなめた。
 
私達より、後に入学した土人の中には、中々よく出来た人もあった。それといふのは、学校もよくなって来たし、生徒らもみなみな学問しようという心になって、字を書くことでも本を読むことでも、熱心にやったからよく出米るものも出てきたらうと思ふ。
 
その中にたいそう出来がよくって、師範学校まで行った土人もある。その土人は、皆淵宇之吉という土人であった。皆淵村という村からでてきた人で、みな皆淵性を習っていた。この人は算術の達者な人で、先生よりも上手であった。
 
ある時、先生と競争してやったことがあったが、答が先生のと違った。先生は皆淵の勘定が間違ったのだといふ。皆淵は、先生の計算が誤りだと云ふ。そんなら、今1度計算してみるがよろしいと先生がいって、またやり直すと、皆淵の勘定の方が正しかった。先生は私の方が違ったのだなといわれた。おしい男であったが、学校にまだいるうちに夭折した。
 
師範学校まで入った土人が今1人ある。安藤久吉といふものであった。この人も何でも良く出来た人で、字を書くことにいたっては日本人にも負けなかった。惜しい人であったが、これも石狩川で溺れて死んだ。
 

 
  [3]

 

 


 【引用参照出典】
 
[1]『石狩町史 中巻』1985・45-46p
[2]同上・46p
[3]『江別市史 上巻』江別市・1970・215-218p
①『対雁の碑─樺太アイヌ強制移住の歴史』1992・樺太アイヌ史研究会・北海道出版企画センター・口絵
②同上151p
③https://ja.wikipedia.org/
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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