北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[栗山]

 

泉 鱗太郎
(5)

 

麟太郎 産業としての北海道米農業を拓く

 北海道に生まれ育った私たちは、時として私たちの歴史の中に織田信長のような、豊臣秀吉のような英雄豪傑がいないことを寂しく思うことがあります。しかし、織田信長いなくても北海道には泉鱗太郎がいます。戊辰戦争を戦い、室蘭の礎をつくり、47歳で角田村(栗山町)を拓き、本道初の造田事業を成功させて、産業としての北海道米農業を築いた業績、その88年の生涯に乗り越えた困難、残した功績は戦国の英雄に決して引けを取りません。私たちの歴史に泉鱗太郎がいることは道民の誇りです。
 

■角田村灌漑事業着工

上京した泉鱗太郎らの努力によって角田村水利土工組合は日本勧業銀行から7月17日に1万5000円を受取り、残りの2万5000円は明治32(1899)年2月に受取ることとなりました。勧業銀行の融資総額は5万5000円におよびました。しかも、20カ年年賦償還・無担保という好条件でした。
 
このようにして本道初の大規模造田事業は勧められることなりました。しかし、測量段階から困難の連続です。
 
調査中たまたま明治31(1898)年9月6、7日の豪雨のために夕張川は未曾有の大洪水となり、全道で200数十名の犠牲者のうち、本村は82名もの溺死者を出という惨状で、さらに沿岸一望の耕作物は泥土に埋没して収穫皆無という有様であった。[1]

 

明治44年の夕張川の氾濫①

大雨で夕張川の状況も変わり、途中まで進んでいた測量はやり直しとなってしまいました。それでも、ねばり強く測量を進め設計が完成すると、明治32(1899)年2月25日、札幌区の佐藤甚之助との間に夕張川水路掘削工事の随意契約が締結されます。
 
 

■予期しない支障続出

こうして工事は始まりますが、難工事の連続でまたしても資金不足に襲われます。
 
以来工事は突貫的進行をしていったが、その実績は工事の半ばで両岸地下数尺の所に岩盤が連なり、しかもその延長が230余間もあり、また阿野呂川上流でも谷地眼と俗称される難所があり、すでに工事終了の200余間の道路が崩壊するなど、予期しない支障が続出したため、予定費用では継続出来ない困難に逢着した。[2]

 

夕張川築堤工事・明治31年②

難工事に工費は嵩み1万5000円の資金の追加を決め勧銀に資金を求めました。戸長の則武鉄蕉と総代福井正之が上京し、10日に交渉をはじめ、12月15日に借入契約成立、16日に金円を受領。この速さには、東京にいた「高木兼寛の尽力の多大であった」といいます。
 

■高木兼寛の尽力

高木兼寛は東京慈恵医科大の創設者で元薩摩藩士。薩摩藩の蘭学医として戊辰戦争に従軍し、維新後は海軍軍医総監として軍医の頂点に立ちました。「江戸病」として恐れられた脚気の治療に功績を挙げ「日本の疫学の父」とも呼ばれます。明治25(1892)年に現役を離れ、慈恵病院で臨床に立ちますが、先に紹介したコタンのシュバイツアーこと白老の高橋房次もここで医学を学んでいました。

 

高木兼寛③

高木は明治25(1892)年、軍医総監を退役になった年に道庁事務官の勧めにより、角田村(現栗山町)に農場を求めました。明治26(1893)年、北海道に渡って角田を視察、このとき麟太郎の真成社に加盟しています。
 
村の開発には熱意を注ぎ、水利組合の結成にも大いに賛成し、ことに工事資金の勧業銀行借入には、東京における謀議に参与し、進んで側面運動に当たるなど、つねに泉麟太郎を慰撫激励して町の発展を深く祈念していた。[3]
 
不在地主であった高木兼寛の農場の監理を鱗太郎があたることもあり、開田事業を東京から強く後押ししたのが高木兼寛でした。
 

■竣工 不滅の功績を残す

数々の困難を乗り越え、北海道で初めての大規模灌漑事業は竣工しました。
 
やがて工事は進捗し、総経費は前後を通じて7万3千余円に及び、894町歩の灌漑反別の計画は成功、明治33(1900)年6月20日にはまったく竣工をみるに至った。
 
ここに至るまでの難業苦難も見事に克服し完成させた全道にその例を見ない組合灌漑は、北海道水稲産業に指標明るく巨火を点じたものであって、後に雄々しい不滅の功績を残したといえよう。[4]
 

水田に生まれ変わった角田(明治末④)


明治33(1900)年9月5日は、園田安賢北海道長官を迎え、角田小学校校庭で盛大な竣工記念式典が開かれました。苦難を乗り越えて成功した灌漑事業の成果は大きく、明治32(1899)年の水田耕作段別320町歩が竣工の33年には一挙に460町歩まで激増しました。
 

■北海道土功組合法制定へ

この成功に勢い得た麟太郎たちは杵臼支線を計画しますが、これほどの成功を収めたのに融資が受けられません。日本勧業銀行の角田村への融資があまりにも好条件過ぎると東京中央で問題となり、その後の融資が中断されてしまったのです。
 
北海道の水田開発のリーダーである角田村でも融資が受けられないとなれば、北海道の水田開発は進みません。このことを問題視した政府は明示35年に「北海道土功組合法」を制定し、水田灌漑施設を造成するための土功組合に対して法的な枠組みを与えました。

湯地定基と栗山の湯地農場(⑤⑥)

なお明治32(1899)年、北海道拓殖銀行法が施行され、拓銀が誕生しますが、角田村灌漑事業の資金難も背景になったようです。北海道拓殖銀行設立に対する建議案を国会提出した提案者3人のうち一人、湯地定基は薩摩藩士ですが、維新前に藩命でアメリカのマサチューセッツ州立大学に留学し、クラーク博士から指導を受けています。維新後は開拓史の要職を歴任しましたが、明治24(1891)年に栗山に農場を開きました。長男の湯地定彦は札幌農学校を卒業後、同農場の主任として開拓に尽力しました。湯地家も麟太郎の灌漑事業の賛同者でした。
 
さて、栗山の杵臼支線は融資が断たれたため村営工事として行えず、有志が私財によってすすめることになりましたが、明治35(1902)年3月、北海道土功組合法の制定によって同年12月24日、角田村土功組合が設立されると、組合に引き継がれることになりました。なお、この北海道で始めとなる角田村土功組合の初代組合長には泉麟太郎が就いています。
 

泉鱗太郎高松宮殿下拝謁記念・角田神社・大正15⑦

 

■銅像建設

工費1万9000円を日本勧業銀行から融資を受け明治36(1903)年から杵臼支線の工事が始まり、この地方に300町歩の水田が開かれました。こうして南空知は豊かな米どころに生まれ変わりましたが、この造田事業には1円の税金も投入されていません。
 
組合は大正11(1922)年3月にこれら借財を完済。これを記念して組合は空知地方の造田事業に貢献してきた泉鱗太郎の銅像を建設することにしました。銅像建設を紹介する『栗山町史』の記述に鱗太郎に寄せる町民の強い気持ちが示されていますので、紹介します。
 

泉鱗太郎像除幕式⑧


泉麟太郎の開村の動機と、その熱意と絶大な努力が実を結び村は発展した。しかもその高潔な資性は私利を離れ、専ら村民の福祉を増進させ、あふれるばかりの温情で村人を慰撫指導して、終始一貫文字どおり殖産興業を身をもって実行した。村は挙げてその徳望を敬慕して、つねに慈父慈母に接する感懐であった。
 
幾度か官に表彰され、或いは選奨頌表され光栄の機会に浴することが重なり、顕著な功績はいよいよ光輝を増し全道にその光彩を放った。
 
村はつねに機会あるごとに感謝の誠を捧げ、敬慕の念はいよいよ増しついに大正11(1922)年銅像建設は板東村長によって唱導された。それが具体化して全村一致のうるわしい交響楽をかなでた。
 
村は4500円を地方改良饗の表彰饗として支出し、土功組合は1000円を功労金として醸出して、銅像は東京の彫刻家、小林誠義に原型を依頼して制作。7月には角田役場庁舎の前庭に建設された。
 
白舞豊かな老翁の、なお村政の指導者を偲ばせるフロックコート姿の颯爽たる英姿である。台石高くやや脚を開いて両手を前方に握ったその風貌は、堂を他を圧する烈々の偉風の中に、あふれる温容がしのばれ、そぞろ襟を正させめるものがある。台石正面の像標は宮尾舜治長官の揮毫である。[5]
 
大正12(1923)年7月15日に泉麟太郎翁並びに夫人満津子の夫妻を正賓として、盛大な除幕式が挙行されました。この銅像は太平洋戦争による貴金属供出命令によって昭和18(1943)年に供出されましたが、戦後の秀和25年、栗山町町制施行を記念して再建され、現在は栗山町役場構内でまちの発展を見守っています。
 

■不滅の業績

再建された泉鱗太郎像

造田事業を中心に泉鱗太郎の事蹟を紹介しましたが、このほかにも、2度に渡る角田村村長就任、角田小学校、角田警察署の創設など、この地方に果たした鱗太郎の功績は枚挙に遑がありません。角田村=現在の栗山町の礎は泉鱗太郎一人によって築かれました。
 
空知が日本を代表する稲作地域であることを考えると、麟太郎は空知地域の基盤をつくった人物、兄添田龍吉を助けた室蘭での拓植事業を加えれば、道央圏という圏域の基盤をつくった人物といってもよいでしょう。
 
昭和3(1928)年の秋頃から角田の自宅で病の床に就くようになり、昭和4(1929)年1月8日に88歳の生涯を閉じました。同時、政府はこれまでの功績を評価して従6位に叙し、11日は村葬が営まれました。
 
最後に泉鱗太郎の年譜を掲載して功績を偲びたいと思います。
 

【泉鱗太郎 年譜】

天保13(1842)年4月 1歳 宮城県角田藩士添田保二男に生る
元治元(1864)年8月 23歳 泉靖七郎の養子
明治元(1868)年3月 27歳 戊辰役に隊長となり白河に出征
明治3(1870)年3月 29歳 角田藩士家族51名を卒い室蘭移住、後14年211名招募
明治7(1874)年5月 33歳 農業の副業を興し、輸西千舞館元室蘭に養蚕
明治11(1868)年4月 37歳 共同製氷所共設
明治11(1878)年11月 37歳 輪厚総代人
明治13(1880)年1月 39歳 輪西艇事通信員、同年6月第2組役場筆生
明治13(1880)年9月 39歳 幌別室蘭移民共同製網所開設
明治14(1881)年4月 40歳 輪西村共同牧場(馬89頭)開設
明治14(1881)年7月 40歳 室蘭郡第2組各村の用係
明治16(1883)年10月 42歳 室蘭郡1番学区学務委員
明治17(1884)年4月 43歳 札幌県室蘭3千舞、室蘭、輪西3ケ村戸長
明治20(1887)年6月 46歳 北海道庁警部補叙判任官、警察署室蘭分署長
明治21(1888)年3月 47歳 夕張開懇起業組合を創設、5月角田に移住
明治22(1889)年7月 48歳 夕張郡農商務農事通信事務嘱託
明治22(1889)年11月 48歳 岩見沢まで道路付設
明治23(1890)年5月 49歳 角田村公称提案
明治23(1890)年12月 49歳 角田郵便局長
明治24(1891)年5月 50歳 真成社結成、角田小学校、角田瞥察駐在所創設
明治26(1893)年6月 52歳 高瀬和三郎と水田試作
明治27(1894)年 53歳 角田村総代人
明治28(1895)年7月 54歳 角田村水利組合設立
明治28(1895)年7月 54歳 角田村学務委員1カ年
明治29(1896)年5月 55歳 角用村水利土功組合長
明治30(1897)年2月 56歳 阿野呂川引水第1期工覗完成
明治31(1898)年3月 57歳 角田村公共用水起工公借の為7月31日上京
明治31(1898)年7月 57歳 東京勧業銀行借入4万円成功
明治31(1898)年8月 29歳 角田村水利委員委員長嘱託
明治33(1900)年2月 29歳 角田村衛生伍長公選
明治33(1900)年8月 59歳 泉麟太郎記念碑建立
明治33(1900)年9月 59歳 角田村農会長当選(以後22年間)
明治33(1900)年12月 59歳 農商務統計調査委員嘱託
明治35(1902)年6月 61歳 角田村会議員当選(35年~40年)
明治35(1902)年12月 61歳 角田村土功組合長就任(以後26年間)
明治36(1903)年2月 62歳 角田村税賦課調査委員
明治37(1904)年 63歳 道会議員当選(明治37(1904)年~40年)
明治39(1906)年2月 65歳 藍綬褒章下賜(開拓功労)
明治40(1907)年11月 66歳 角田村長就任(3年8カ月)
大正4(1915)年7月 74歳 角田村長就任(4カ年)
大正8(1919)年10月 78歳 角田村学務委員(8~14年)
大正12(1923)年9月 82歳 銅像建設
大正13(1924)年11月 83歳 叙従6位(開拓自治功労)
昭和4(1929)年1月8日 88歳 逝去             [6]

 

 

 


【引用参照出典】
【引用参照出典】
[1]『栗山町史』1971・栗山町・248p
[2]同上
[3]同上・217p
[4]同上・244p
[5]同上・391-392p
[6]同上・397-398p 掲載の年譜に年齢を付加した
 
①『栗山ふるさと文庫 くりやま 写真で見る120年史』栗山町・栗山町教育委員会・栗山町図書館・41p
②同上26P
③農林水産省公式ホームページ> 基本政策 > 明治期の農林水産業発展の歩み > 明治日本の栄養改善と食品産業 > 脚気撲滅への挑戦 https://www.maff.go.jp/j/meiji150/eiyo/02.html
④『栗山ふるさと文庫 くりやま 写真で見る120年史』栗山町・栗山町教育委員会・栗山町図書館・42p
⑤同上25P
⑥https://ja.wikipedia.org/wiki/
⑦『栗山ふるさと文庫 くりやま 写真で見る120年史』栗山町・栗山町教育委員会・栗山町図書館・28p
⑧同上

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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