北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

[栗山]

 

泉 鱗太郎
(4)

 

麟太郎、日本勧業銀行を動かす

北海道で初めての造田事業を開始した泉鱗太郎。民間の力を集めて事業を進めますが、早々に資金難の壁に当たりました。ちょうど明治30(1897)年、産業資金を供給すべく日本勧業銀行が創設されます。鱗太郎はここから資金を調達すべく上京します。

 

■民間事業として造田に着手

明治28年、稲作の可能性に賭けた泉鱗太郎は、旧角田藩士による開拓会社夕張開墾起業組合を解散して角田村土功組合を結成し、北海道最初の大規模造田事業を目指します。
 
水田の造成には大規模な灌漑施設が必要で、そのためには莫大な資金が必要です。当時の金額で3万円、現在の金額に換算すると11億円にもなる資金を麟太郎たちは角田村の起債によって賄おうとしました。しかし、当時の角田村(後の栗山町)は二級町村ですらない戸長役場、起債が行える自治体ではありません。泉たちの請願はあえなく却下となりました。そのときの様子を『栗山町史』(1971)は次のように伝えます。
 
一同の落胆は非常に大きなものではあったが、たとえ起債は不認可となろうとも、挫折すべき事業ではないと直ちに総会を開いて評議を竜ねた結果、真成社を解散し、土地を各自に分配して払い下げの手続きをとる一方、新たに水利土工組合を組織のうえ、工費は関係地主がそれぞれ出資することにした。[1]
 
麟太郎たちはあきらめませんでした。官が頼りにならなければ自分たちで事業を起こす──。鱗太郎が立ち上げたもう一つの開拓会社真成社を解散し、会社が持っていた土地を社員に分配するとともに、これを原資に各自が出資することにしたのです。事業規模も3万円から2万円に縮小し、官に頼らないで造田事業を行うことにしました。
 
この時、当時の札幌商業銀行から融通し、第一期事業として阿野呂川から古川までを掘削し、第二期事業として夕張川からの水路掘削を予定し、規模も縮少して2万円を計画、規約をも定めるなど、まったく背水の陣を布いて委員長泉麟太郎ほか9名をもって工事施行の認可を出願した。こうして明治29(1896)年11月10日、水利土工組合起工の件は認可となった。[2]
 

■水利事業認可

世界に冠たる極寒豪雪の地にアジアの赤道地帯に生まれた米が育つのか。はたして産業として成立するのか──誰にも分からない冒険、まさに開拓者の事業でした。麟太郎たちが北海道に米づくりの扉を開くことを天が望んでいたかの如く次々と幸運がもたらされます。
 
ちょうどその頃の明治30(1897)年4月1日、札幌製麻会社から、栗山製線所用に分水の儀を要請して来たので、種々の交渉のうえ、分水の契約を結び、同月15日1000円を請け、工事竣功に及んで1250円を領入し、またそれぞれ地主の出金によって所定の第一期工事は12月に竣功したのである。
 
なお札幌農学校学第6農場内水路貫通について出願のところ、明治30(1897)年4月7日付をもって延長1605間・幅20間の角田村用水路として開削貫通の件が、当日より30年間の無料使用が許可され、また道庁から4月13日をもって用水路開削の儀も許されるに至った。[3]
 
製麻会社やが泉たちの開いた灌漑用水から水を分けてほしいと申し込んだことで貴重な水利収入を得ることができました。また札幌農学校が農場を近隣に設けたことで、鱗太郎の灌漑用水を道庁も認めないわけにいかなくなったのです。
 
よって泉委員長は阿野呂川柱堰工事及び同川下流工事着手の届出をした。この工費については、先に札幌商業銀行から借入の内約があったが、道内の金融は非常に逼迫しており、やむなく札幌の金融業者から一時融通の方法をとった。[4]
 

 

明治33年完成角田村夕張用水堰堤(出典①)

 

■民が起こした本道初の造田事業

北海道における初めての大規模造田事業です。『栗山町史』はつぎのようにこの事業の意義を記しています。
 
これは実に本道初の用水組合で、北海道史にも輝く記録を残している。
 
このように付与以前の荒地当初から早くも水田造成を計画し、しかも組合組織をもってこの達成を企画したのは、本道ではまったくその類例がなく、泉をはじめ先駆入地者の旺盛な開発力と、協力の熱意に燃えて奮起したたまもので、往年のその意気は旧藩伝統の流れを汲んだものといえよう。
 
幾多の障害を乗り超えて初志を貫き通した推移の中に、育ぐくまれてゆく昌盛栗山の姿が深くここに偲ばれるのである。[5]
 
北海道開拓は官依存との批判を聞くことがあります。今日、北海道は日本でもトップクラスの米どころですが、この北海道の米づくりを開いたのは島松の中山久蔵であり、栗山の泉鱗太郎という民間人なのです。
 
おそらく北海道開拓が官依存というのは北海道開拓を否定したい、価値を下げたいと継続的に運動している者たちの発言でしょう。実際には民間の逞しいフロンティア精神が北海道開拓を牽引していったことを栗山の造田事業は教えてくれます。
 

明治33年竣工角田村用水水門(出典②)

■難工事、足りなくなる事業資金

このようにして角田土功組合の第1期工事は完工しました。しかし、思いのほか難工事で2万円の総予算のうち1万5000円を2期ある工事のうち、1期だけで使ってしまったのです。残る2期工事はさらなる難工事が予想されました。
 
阿野呂川は川底が浅く、埋もれた巨木が多い。したがって第1期引水には川水がせき止められて思うように進まず、また洪水のため幾度も流された辛酸を嘗め、2里にわたる延長水路の掘削には予想以上の慨用がかかった。
 
全工事費の総額2万円とする予算を立てていたところ、すでに第1期工事でその1万5000円を費してしまった。そのうえ第2期工事の夕張川から阿野呂川間の掘削切深は平均15尺を要し、しかもその間は千古斧鉞を入れぬ深林が鬱蒼として昼なお暗く、また随所に重曹する奇器が露出するなど、このため工費は優に4万円を要する状態となり、資金難とともに工事の前途は憂慮に堪えないこととなった。[6]
 
真成社を解散して工面した資金だけで足りないことは明らかです。しかし、ここで辞めてしまえば元の木阿弥。南空知の平原を稲穂で埋めつくすためにはどうしても第2期工事の完遂が必要でした。ではどうしたか──。
 

■村債の発行によって事業費を

麟太郎がこの事業を最初に企画したとき、角田村の起債によって事業費を賄うことを考えましたが、その初心に戻ることにしたのです。
 
村民の水田熱はますます高揚し、130町歩の水田は早くも造成されてしる折柄、村営事業として夕張川から引水規模の拡張をして村勢発展を期すべしとの要望が続出するので、ついに明治30(1897)年12月に全村全地を挙げて組合を解散し、角田村事業として資金は日本勧業銀行から仰ぎ、目的達成を期する議決となった。
 
越えて明治31(1898)年1月30日には、霞ねて素志通り、村債を募集して高利の負債を償却し、速に第二の工事に進まんと評議して、戸長に宛て起債に関する建議書を申達する運びとなった。
 
ついに3月3日、起債は認可されて第一の難関を突破。夕張川畔の原野角田の里は、明けゆく春の曙の感を深くした。[7]
 
立ち上げの時には、すげなく却下された公債発行ですが、第1期工事の実績が物をいって、今度は無事に認められました。最初に起債発行を願い出たときにも、空知平野に大規模な灌漑事業を起こそうという、道庁ですら二の足を踏む麟太郎たちの事業に期待する道庁の吏員は多く、認める認めないで議論が続きました。結局は、鱗太郎たちの能力を不安視する声が勝ったのですが、見事に第1期工事をやり得ると反対にする理由はなくなったのです。
 

明治35年角田村戸長役場庁舎(出典③)

 

■4万円の公債をどこが引き受けるのか

しかし、この認可が実現する本当の関門は別なところにありました。4万円にも上る角田村の公債をどこが引き受けるのかという問題です。引き受け手がなければ認めることはできません。明治30(1897)年当時、北海道の金融界はまだまだ脆弱でこれだけの公債を引き受ける体力はありません。
 
引き受けて受けることができるのは、東京中央の銀行だけです。はたして東京の銀行が、開拓地北海道のいち戸長役場が発行する4万円ものを公債を引き受けて資金を出すでしょうか?
 
時の丹野支庁長、支庁の小野二課長、渋谷一課長、道庁の林地方課長らは、予ねて起債出願における支庁や道庁への運動、諒解の結果は、北海道最初の出願でもあり、成功実現のうえは道の開拓にもたらす影響の甚大なることを説き、慎重を期して出願の前日、すなわち1月29日にわざわざ来村の労を惜しまず、親しく現場を調査し、福井宅で会同のうえ、遺憾なく考究が重ねられたのであった。[8]
 
道庁の中でも事業を積極的に支援する者たちは、何度も角田まで足を運び、鱗太郎たちと互いの知恵を出し合いました。こうして日本勧業銀行を攻め落とす作戦が練られます。日本勧業銀行は農工業の改良のための長期融資を目的に明治30(1897)に設立されたばかりで、このような事業に対して融資を行うのが設立理念でした。
 
日本勧業銀行から融資を引き出せるか。そこに造田事業の成否がかかっていました。交渉の全権は泉鱗太郎と福井正之に任されました。
 
福井正之は文久2(1862)年、和歌山県須賀郡荒川村に生まれた郷士です。明治28(1895)年に北海道開拓を志し、角田に移住。明治29(1896)年に総代人となり、鱗太郎とともに造田事業のリーダーとなりました。
 

■麟太郎上京 日本勧業銀行を攻め落とせ 

明治31(1898)年3月9日、鱗太郎と福井正之の二人は帝都東京に乗り込んで、日本勧業銀行から4万円の事業費を引き出す交渉に向かいます。
 
この年の3月1日は、事業資金4万円を日本勧業銀行から公借することを相談し、運動委員を選出したが、1人は時の総代人福井正之、他の1人は工事委員長の泉麟太郎であった。
 
泉委員長は先発して仙台地方の用水路を視察し、福井委員は9日に東京入りして、10日両氏の協議打合が続き、勧業銀行から貸出をいかにして達成するか、この成功不成功は全道的問題であるので、引くに引かれず背水の陣の運動に邁進した。[9]
 
『栗山町史』には、勧業銀行攻略作戦について鱗太郎が残した手記が掲載されています。用字を分かりやすく改めたものを下記に紹介します。
 

時の大蔵大臣井上馨大人は、府県を救済せざれば国庫に関係す。北海道の聞拓事業、五年、七年後るるも国庫に支障なし。
 
ゆえに府県を救済し、北海道に投資差し控ふる様内命せしおりから、角田村灌漑溝資金借入のため泉麟太郎、福井正之の両人選ばれ、出京せるも、前条の理由容易に貸出しを承諾せず。
 
辛苦を重ねたるに幸い安場長官、白仁地方局長大に同情せられ、ある日、福井、泉両人を河島勧業銀行総裁の私邸を訪問せるに、通したる名刺を手にして玄関に出で来りて曰く「北海道の土地は不確実です。左様のものに投資は出来ん」と放言。
 
奥に入れば、何の升解も出来ず、戻り、安場長官へ右の現況を直言すれば、長官は大いに憤怒し、明朝九時に九州倶楽部へ来れと慰撫せり。
 
翌日時間違わず出頭せば、長官は深野事務官、藁品属と協議を凝らし、我等に工事半で資金切迫に付、急ぎ貸出しあいなり様尽力方出願を致させ、その意をもって長官より内務大臣へ伺出て、その指令を添いて勧業銀行へ申し入れ、河島総裁の頭を緩和せしめたり。
 
おりから大隈・板垣の連合政党内閣、六月一日をもって出現し、杉田定一長官に任命せられしゆえ、同会に北海道への土産これより良きはなし。滯在共に尽力成就の上、赴任せられ度しと内願。
 
翌日より浅羽靖が参謀長となり、田村顕允、古川浩平、福井正之、北村祐治、泉麟太郎の六人、朝は未明より夜にかけ各大臣を訪問、非常の大運動を開始し、ついに七月十七日、勧業銀行において、府県同様北海道にも投資することに決定。同月二十九日、福井、泉両人、帰北の途に就けり。[10]

 
これは北海道の歴史にとって大変に重要な記録です。

 

安場保和(出典④)

さまざまな計らいで二人は当時の大蔵大臣・井上馨に会うことができました。しかし、井上大臣は、府県が優先で北海道は二の次といって鱗太郎らの申し出を却下します。
 
しかし、時の北海道長官・安場保和、白仁 武・内務省地方局長が日本勧業銀行初代総裁・河島醇に会う機会を作ってくれました。鱗太郎らは安場長官、白仁局長の名刺をもって河島総裁の私邸を訪ねますが、ここでもあえなく融資を断られます。
 
このことを聞いた安場長官は憤慨し、時の内務大臣・樺山資紀に働きかけて、河島総裁に考え直してもらうように申し入れしました。安場長官は肥後熊本藩出身ですが、福島県令時代に戊辰戦争で幕軍についた東北志士の人心留意に努めたことで知られます。また内務大臣の樺山資紀も生粋の薩摩軍人でした。
 
こうして鱗太郎たちが東京で運動を続けているうちに、日本史上初の政党内閣といわれる第1次大隈内閣が成立します。北海道長官は新たに杉田定一が任命されました。杉田は福井県の農家の出ですが、自由党の結成メンバーです。
 
運動を強力に後押ししてくれた安場長官の退任は残念ですが、鱗太郎たちは北海道に立つ前に新長官に面会を求め、角田の造田事業は長官就任のよい土産になると説得しました。
 
さらに浅羽靖、田村顕允、古川浩平、福井正之、北村祐治、泉麟太郎の6人が陳情に駆け回ったとあります。浅羽靖は北海高校、北海学園大学の創始者で元道庁理事官、この時は製糖会社の社長でした。
 
古川浩平は夕張郡の郡長、田村顕允は言わずと知れた亘理伊達家の家老で伊達邦成の北海道移住のリーダーです。角田藩の鱗太郎の事業を同じ伊達一門として支援したのです。
 
そして北村祐治は北村の開祖・北村雄治ではないかと思われます。北村は明治26(1893)年に岩見沢市北村に農場を開いていました。『北村史』(1985)によれば、北村の北海道開拓を支援したのが浅羽でした。
 
このように鱗太郎の北海道で稲作を実現しようとするアンビシャスに共感した者たちが上京し、陳情活動に馳せ参じたのです。そしてさしもの河島総裁も折れて明治31(1898)年7月17日、日本勧業銀行は角田村の村債を引き受けることなりました。北海道最初の造田事業の資金問題はこうして解決したのです。
 

 


【引用参照出典】
[1]『栗山町史』1971・栗山町・238p
[2]同上・238ー239p
[3]同上・239ー240p
[4]同上・239ー240p
[5]同上・240p
[6]同上・240p
[7]同上・240ー241p
[8]同上・241p
[9]同上・240ー241p
[10]同上・241p
①『栗山ふるさと文庫 くりやま 写真で見る120年史』栗山町・栗山町教育委員会・栗山町図書館・22p
②同上・22p
③同上・21p
④https://ja.wikipedia.org/wiki/

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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