北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【北檜山】 会津白虎隊の魂とともに 丹羽五郎 ④

 

  

どん底

 

明治新政府軍に敗れた会津藩は、もっとも厳しい処分を受けました。藩主は家名断絶、領地は没収、藩士は全員謹慎です。五郎も東京の謹慎所に送られ、漬物小屋で幽閉生活を送りました。幽閉が解け、会津藩が斗南藩として復活する中で、五郎とその家族は人生を決める決断を迫られます。

 

■東京へ蟄居幽閉

明治2(1869)年の2月11日、猪苗代より、米沢藩兵に護送せられ、東京に入り、山下門内なる松平豊前侯の邸に幽閉せられ、はじめ元鳩小屋の漬物置場、後に神田橋外元騎兵屋敷に移され、厩の2階に起臥せり。[1]

 
会津降伏後、会津藩は明治新政府の直轄地になり、旧藩士は会津盆地の各地に幽閉されました。藩公・松平容保は処刑を免れたものの家名断絶となり、永久禁固を命じられ、国寺に幽閉されました。
 
会津の旧藩士3254名は松代藩への移送が決められましたが、松代藩から全員を預かることは無理との申し出あり、分散して東京に送ることになりました。
 
丹羽五郎もその中に含まれ、江戸城山下門(現東京都千代田区有楽町)内にある松平豊前侯(丹波国亀山藩藩主・松平信正)の漬物小屋に幽閉されます。その後、神田橋御門の外にあり、使われなくなった幕府の騎兵隊当番所に移されました。五郎は国を失った悲哀をまざまざと感じたことでしょう。
 

山下御門内①

 

■斗南藩成立──藩籍回復

明治3(1870)年3月15日に至り、ようやく幽閉を免ぜられる。永山は最後まで五郎に附添へ、青山は猪苗代より信州の真田家に預けられたり。[2]

 
明治3年になりようやく五郎の幽閉が解かれました。一方、いったん取り潰しになった会津藩では、松平容保の長男容大に家名存続が許されます。そして、下北半島の南部藩領内に3万石が与えられました。
 
最大の朝敵として最も厳しい処分を下したはずなのにどうしたことでしょうか? そこにはこんな事情がありました。
 

旧藩士の高田および東京に移囚せらるるや、若松の他に残留する者は60歳以上の老人及び婦人小児に過ぎず。従って守備の官兵も次第に減じたり。彼ら官兵の中には規律なき無頼の徒も少なからず。甚だしきは財物を涼奪し、または婦女恥ずかしむる者あり。
 
この事、旧藩士の耳に入り、憤慨して謹慎所を脱して故郷に帰り、または謹慎者が上京に際し代人を出して自ら潜伏し、無頼の有司または官兵を襲撃する者あり。その他、旧藩の滅亡を慨し、その復興を図らんために脱走して、捕獲斬首されたる者無きに有らず。[3]

 
母国会津の荒廃が進む中、都内に移した大量の旧藩士が帝都の不安要因になり、領地を与えてそこに移した方が良いだろうと新政府は判断したようです。
 

明治3(1870)年4月27日、藩庁(斗南藩)より、洋学修行を命せられ、5月朔日(一日)、芝山内徳水院に入り、幕臣千村五郎氏の教授を受けしが、同年7月晦日(月末)廃せられたり。[4]

 
晴れて幽閉の身から脱した五郎ですが、この時まだ19歳。藩の将来を担う若者として藩は東京に残って勉強するように命じます。芝山内徳水院は芝増上寺の支院で会津藩の宿坊でした。
 
ここに五郎等有為の青年を集めて藩校を開いたのでしょう。斗南藩は廃藩置県により翌年には斗南県となり、さらに青森県に編入されます。こうした混乱の中で東京の藩校を維持できなくなったものと思われます。
 

近世の増上寺② この中の徳水院が会津藩の宿坊だった

 

■下北に行くか、東京に残るか

五郎は東京に在りて学間せんため、祖父起四郎公の兵学の弟子なりし相馬真登氏の斡旋により、会津出身の幕臣にて当時淀藩士たり、檜山半之丞氏の家に寄寓することになれり。[5]

 
しかし、まだ10代であった五郎は、勉強を続けることを望みます。そして丹羽宗家の先々代丹羽起四郎の知己であった旧淀藩士檜山半之丞を頼ります。淀藩は京都山城にあった幕府の親藩ですが、鳥羽伏見の戦いのさいに新政府軍側に寝返ったことが新政府軍勝利につながりました。家臣は処分を免れ、新政府でも要職に就いたようです。
 

郷里して会津に仮住せる家族に面会し、善後策を立てんと欲し、相馬、檜山の許諾を得て、8月15日、友人の武井実平氏と郷里に出立せり。20日若松に着。建福寺に到り、家族に面会し、種々後事を協議し、滞在10日にして東京に帰り、ただちに下谷青石横町なる檜山方に行き、世話になれり。[6]

 
東京での落ち着き場所を確保した五郎は、明治3(1870)年8月、1年半ぶりに故郷会津に戻り、家族と再会します。そして、五郎の人生の分かれ道となる決断をします。
 

この時藩庁より、南部の新封地に行くか、しからざれば藩籍を返返せよとの厳達なれば、五郎は南部に行きて百姓となるを好まず。藩籍を返上して平民となれり。
 
在会津の家族等も南都に行くことを好まず。さりとて若松居住を許されざれば、やむなく3人の姉女は心細くも住み馴れし故郷を後にし、草鞋を足に纏い、7~8日を費やし、同年10月17日、檜山方に着きたり。[7]

 
明治3年1月から旧会津藩士の謹慎が解かれ、4月から斗南藩として下北半島への移住が始まり、下北に移住した藩士は2800余戸にのぼりました。しかし、「新封斗南の地たる旧南部領の一部にして、冬春の頃積雪ほとんど半年にわたり、土地は荒無して多くは開墾せず」という荒地で、「三万石と称するといえども実収はわずかに7000石」にすぎません。士族といえども、かつてのように領民の年貢を収入とするわけにいかず、移住者はみな農耕をしなければなりませんでした。
 
五郎は、下北半島で移ることを辞め士族の身分を捨てる決断をします。そうなると会津に残ることを許されませんから、妻の豊子と二人の姉も上京することになりました。
 

斗南藩の領地③

 

■勉学を諦めず

檜山夫妻は親切に世話し、浅草門跡の寺中に住わせてくれたり。家族は裁縫して生計を立て、のちに芝赤羽信光院門番所を借り、はやり裁縫にて生計を営めり。妻豊子は檜山方にありて下婢の仕事をなし、炊事、洗濯、諸買物等何にくれとなく立り働きあり。[8]

 
五郎は藩士の身分を失って平民となりましたが、五郎を高く評価していた檜山半之丞は支援を続けます。二人の姉は裁縫の手仕事で生活を支え、五郎の妻豊子は檜山家の家政婦として働きました。
 

增山は五郎のため良師を捜索し、同年12月朔日より上野の裏なる下谷根岸にある支陰先生の漢学塾に入り、1カ月3円の食費は檜山よりもらい、塾僕として勉強しておれり。支陰先生は幕末の名奉行佐々木信濃守の相続者なり。
 
翌明治4(1871)年3月頃にいたり檜山の学資はたちまち杜絶せり。これにおいて戦争前より不時の用意として所持せし、1朱銀10両を学資とせしも、たちまち尽きたり。[9]

 
五郎はこうした境遇になっても勉学の道は諦めません。五郎は檜山半之丞の推薦で江戸の漢学佐々木支陰の元で勉強を続けます。なお支陰先生の父である佐々木信濃守は佐々木顕発といい、落語の「佐々木政談」の主人公として語られた名奉行でした。
 

6月限りにて退学し、檜山方に帰り、再び玄関番となれり。いつまで門番をなすも、何等の目的も立たざれば、支陰先生に頼み、純塾僕となりて同年8月16日より再び支陰塾に入りたりき。
 
このとき、家族は芝に在り、お道おばさんは時々尋ね来りて、穴銭1朱(6銭2厘5毛位)を小遣いとして与へられり。常時の1朱は、おばさん達の粒々辛苦の結晶にして、今日の23円にも相当すべく、その他おりおりの衣類等は皆おばさんたちや豊子の丹精によれり。
 
もし能ふべくんばこれらの人々を地下より喚び起して、今日の境遇を見せたらんには、いかにばかりの喜びか。されど今は詮なし。空しく感慨の涙にくるを恨むのみ。[10]

 
勉学に精を出していた五郎ですが、ついに学費は途絶え、止むなく支陰塾の用務員とります。この頃、家族は芝の(おそらく)長屋で針仕事を受けながら暮らしを立てます。ときおりお道おばさんが尋ね五郎家を支援しました。
 

④五郎が住んでいた東京芝(明治28年撮影)

 

■会津藩家老から飯炊門番へ

後に支陰先生は根岸の塾を廃し、日本橋物町に「寺小屋」(今の私立学校の如し)を開くこととなり、 五郎は代用教員兼飯炊きという資格にて先生に従い、同年10月に移転せり。五郎は自己の勉強に休みにして生徒の教授にいかざるのと、飯炊きの自己に適せざるとのため、この「寺小屋」を退くこととなれり。[11]

 
支陰先生は昔風の私塾を辞めて現代風の学校をつくろうとします。五郎に代用教員ならび飯炊係として声をかけますが、そうなると自分の勉強は諦めなければなりません。飯炊係という仕事も五郎のプライドには合わなかったのでしょう。ここで五郎は支陰先生と分かれます。そしてまったく無職の人となってしまいました。
 

日本橋河岸の魚問屋の越後屋喜兵衛なる人あり。任俠心に富み、この「寺小屋」の世話人なりしが、深く五郎の境遇を憐み、五郎に洋物店を開かさせんとて、資本はいかほどでも出してやると勧められしも、五郎の性格に適せざれば、くれぐれもその厚意を謝して断りたり。
 
他に行くべき所のあらざらば、また檜山の居候となれり。これすなわち明治5(1872)年2月21日のことなりき。[12]

 
そんな五郎を憐れんで日本橋河岸の魚問屋の親方が、資本を援助するので洋物店の開かないかと支援を申し入れます。江戸落語の世界そのままですね。
 
ここで洋物店を開くことは商人になりきることです。武家のプライドを捨てることのできない五郎は、これを断ります。飯盛山で散った同年代の白虎隊のことを思えば自分だけ商人として生き延びることはできなかったのでしょう。
 
生計の道を失った五郎は再び檜山家を頼って、その居候・門番となります。運命とは残酷なものです。わずか5年前まで、会津藩重臣の世継として10代の青年でありながら藩公松平容保に信任され、藩務に奔走していたのです。江戸時代が続いてならば、五郎は間違いなく23万石の大藩を采配する立場、藩士家族約2万人を指揮する立場に立っていたはずです。それが門番まで落ちぶれてしまうのです。
 
しかし、天は五郎に救いの手を差し伸べるのです。
 

■むしろ下駄の歯とならん

明治5(1872)年2月21日のことなりき。この頃おばさんたちのところに芝高輸屯所の邏卒にして長州人の三輪信吉なる人、しばしば洗濯物などを頼みにきて懇意となり、五郎の境遇を憐れみ、「一時邏卒となりてはいかが」と勧められし。
 
おばさんたち大いに喜び、檜山方に来りてその話しをせしに、檜山は大に立腹して「桐楓を植えて良材となさんと思いしに、今これを伐るは下駄の歯となすがごとし」と反対せしも、五郎は「居候や塾僕をなせばとて、とうてい良材となる望みなければ、むしろ下駄の歯とらん」と豊子と共に檜山方を辞し、信光院に来り、おばさんの世話になり、邏卒志願書を三輪氏に頼みて提出したり。[13]

 
邏卒とは今の警察官ですが、当時はあまり名誉な仕事と思われていなかったようです。五郎の後ろ盾となってきた檜山半之丞は「下駄の歯」になるとして反対しますが、五郎は「むしろ下駄の歯なりたい」と言い返します。これは檜山が五郎の人物をいかに高く評価していたかを示すものでもあります。
 

当時、丹羽右近と称せしが邏卒となることを鑑み、変名して田村五郎と称し、明治5(1872)年6月2日、第二大区小22区屯所の邏卒を拜命し、月給2図50銭を受け、芝高輪東礼寺の屯所に入り、三輪氏と同室したり。[14]

 
朝敵である会津藩出身であることを隠すため田村五郎という偽名まで用い、五郎は東京市の警察官となります。すぐれた資質を持つ五郎はやがて警察組織の中で頭角を現していきます。
 

市街雑踏の中に立ち番勤務をせり。同年9月、山梨県に一揆起るや、同月8日、府下各屯所より1名づつ出張を命ぜらる。五郎もその選にあたり、出張して甲府尊礼寺に屯し、平定の後、同年11月18日帰京せり。
 
明治7(1874)年1月、一等巡査を拝し、月俸10円を受く。これにより散宿を許さる。五郎も芝の小山町に67坪ある一軒建の陋屋を借り、はじめて家族と共に居住せり。[15]

 
一等巡査に昇進した五郎は慶応4年以来、7年ぶりに家族とともに暮らすことができるようになりました。
 
そして五郎の運命を大きく変える事件が九州で起こるのです。
 
 

 

 


【引用出典】

 
[1][2][4][5][6][7][8][9][11][14][15]丹羽五朗『我が丹羽村の経営』1924・丹羽部落基本財団
[3]山川健次郎監修・会津戊辰戦史編纂会編集『会津戊辰戦史』1933・会津戊辰戦史編纂会
①ARC浮世絵ポータルデータベース・https://www.dh-jac.net/
②デジタル版 港区のあゆみ/近代の増上寺山内/https://trc-adeac.trc.co.jp/
③青森県三戸町公式ページhttps://www.town.sannohe.aomori.jp/choseijoho/4/2/1479.html
④三井住友トラスト不動産/写真でひもとく待ちのなりたち/芝 https://smtrc.jp/town-archives/city/shiba/p05.html

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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