【北檜山】 会津白虎隊の魂とともに 丹羽五郎 ⑤
西南戦争勃発 五郎出征
門番草鞋取りの身から警察に転じた丹羽五朗に最大の転機が訪れます。明治10(1877)年2月、西南戦争の勃発です。五郎は国内最後の戦争となったこの戦いに巡査隊の一員として出征します。五郎にとっては会津の旧敵である薩摩への敵討ち。出征軍に選ばれた喜びは「一生忘るに能はず」でした。
■同郷の英雄、反乱に立ち上がる
明治9(1876)年10月24日、熊本神風連の暴動を初めとし、次いで旧秋月藩士の乱、前原一誠の乱または永岡久茂(会津人)等、千葉県府を襲わんとし、日本橋区思案橋にて捕へられ、翌10年1月31日、鹿児島私学校の徒、磯の弾薬を奪いたりとの報、都下に伝はるや、天下騒然、人心恟恟、陰雲惨鬱として、西南の天を覆いたり。[1]
大政奉還、王政復古、版籍奉還、廃藩置県と御一新の結果、禄を失い、失業した士族の不満は頂点に達し、各地で士族反乱が起こります。ここで五郎が列記しているのは、旧肥後藩士によって起こされた明治9(1876)年10月の「神風連の乱」、同年10月に起こった「秋月の乱」、そして同年同月の前原一誠による「萩の乱」です。
余談ですが、「萩の乱」と言えば、江別野幌を拓いた
永岡久茂の事件は「思案橋事件」といい、旧会津藩士の永岡久茂ら旧会津藩士が前原一誠の萩の乱に呼応して挙兵する予定で準備をしていたところ、通報によって駆けつけた警察隊と斬り合いになって一同が逮捕された事件です。
明治初年の士族反乱では小さな事件ですが、丹羽五郎がとくに書き留めたのは旧会津藩士によって引き起こされた事件だからでしょう。この企てには永岡久茂以下14名の旧会津藩士が加わっていました。
永岡久茂①
永岡久茂は五郎より12歳年上、会津戦争では大砲隊等200名を率いて奮戦。若松城籠城戦の局面では、仙台湾に到着した榎本武揚率いる旧幕府軍と連絡を取り、外から包囲網を打ち破ろうと厳重な新官軍の包囲を突破して仙台と往復して松平容保に建言しました。しかし、ときにすでに遅し──という活躍をしています。この時、五郎は松平容保のお付きとして城内にいましたから、永岡久茂をよく覚えていたでしょう。
永岡久茂は戦後は斗南移封に付き従いましたが、ほどなくして東京に移り、明治政府を攻撃する新聞社を設立していました。思案橋事件で捕らえられ、その時受けた傷がもとで翌年獄死しています。永岡のほか14名も多くが斬罪になった事件ですから、五郎にしても思うものがあったでしょう。
■西南戦争勃発
「10年1月31日、鹿児島私学校の徒、磯の弾薬を奪いたりとの報」とは、明治6(1873)年の政変で鹿児島に戻った西郷隆盛が設立した私塾「私学校」を拠点に旧薩摩藩士が蜂起した西南戦争の勃発を告げるものです。
明治6(1873)年の政変で野に降った西郷を明治新政府は恐れ、暗殺が計画されていると、西郷を慕う旧薩摩藩士たちは警戒していました。そうしたなかで新政府の密偵・中原尚雄が捕らえられ、壮絶な拷問の末、西郷の暗殺を告白します。憤慨した旧薩摩藩士は政府の火薬庫を襲い、武器弾薬を奪いました。こうして日本国内で行われた最後の戦争=西南戦争が始まります。
前回の会津戦争では『戊辰会津戦史』によって当時の状況を見ましたが、ここでは明治44(1911)年の黒竜会本部編『西南記伝』によって見ましょう。この本は黒竜会という民間の政治結社のものですが、この会には西南戦争に参戦した旧薩摩藩士たちがたくさんおり、主宰の内田良平の父と叔父が福岡藩士の身ながら薩軍に参加しました。
薩軍の参謀だった会幹部が詳細な記録を残して亡くなったことを機に、薩軍の立場になった戦記のないことを憂いた内田良平が会の総力を挙げ、戦争を実体験した百数十人の協力を得て完成させたものです。今私たちの読む多くの西南戦争伝もこの本がベースになっています。
■西郷南洲の決意
さて、若者たちが激高して火薬庫を襲ったとことを聞いた西郷隆盛はこう言ったといいます。
6年余りの東京に辞して、故山に帰らんとするには、部下の将士激高甚だしく、 まさに大事に及ばんとしたりき。余これを深く憂い、桐野の以下を率いて国に帰り、私学校を起こして今日に至れり。
顧みるにいま列国の進出、日に急にして東邦の危機まさに迫り。わが帝国の安危存亡いまだ諮るべからざるものあり。余は、いったん国家の難に際せば、これら将士を率い、身をもってこれに殉せんことを期しにあにはからんや。こと志しと違いてこの将兵を率いて東上し、政府の当局者に面して、是非曲直を解決せざるべからずにいたらんとは。
由来、余と大久保とはその交わり、兄弟もまた異ならざるものあり。しかして大久保は何の見るところありて、余の心事を疑うに至りしか。余はまたこれを詰問せざるべからず。[2]
明治6(1873)年に政変に敗れた西郷ですが、故郷鹿児島の不平士族が不穏な動きを見せるのでそれを鎮めるために帰ったのに、なぜ大久保利通は私を疑うのか──。これらを正すために、この若者たちを率いて東京に上がらなければならない、と西郷は決意し、戦端は開かれました。
西郷隆盛と明治6年の政変②
■五郎、出征を志願
この時、五郎は警視庁の一属官たりしが、26歳の青年、勇心勃々自ら禁するに能はず。これにおいて身を挺して田辺少警視を介し、川路大警視に面し、警部なりと偽りて出張せんことを乞いたり。[3]
ここに出てくる川路大警視は、「日本警察の父」も呼ばれる川路利良。薩摩藩士で戊辰戦争で活躍。会津戦争で戦功があったいいますから、10年前は五郎の仇敵でした。維新後には東京府の高官となり、警察制度の確立に尽力し、初代の大警視、今の警視総監に就任します。
川路は西郷隆盛に大変可愛がられましたが、西郷が下野すると、私情を捨てて警察のトップとして不穏な動きを見せる鹿児島の動きに目を光らせました。新政府の密偵・中原尚雄も鹿児島県人で川路の命令で「帰郷」という名目で鹿児島に入ったところを捕らえられたのです。中原を放ったのが薩摩藩士たちがよく知る川路であったことから憎しみの対象となりました。こうして川路自身が西南戦争に深く巻き込まれていきます。
この状況を見ていた五郎は、上司である元福井藩士の田辺良顕を介して、川路に鹿児島に行かせてくれるように請願するのです。相手は長州とともに会津を倒した薩摩です。会津藩士追放後、狼藉の限りを尽くしたことが旧会津藩士の憎しみを買っていたことは前回に紹介しました。五郎にとってはこの戦争は敵討ちの気持ちだったでしょう。
居ること数日、2月9日、五郎は3等少警部に任し、高輪警察署詰となる。五郎は本庁に在りて明日1000名の巡査出張のことを知りしも、到底その選に入らざるものと断念し居りしか、突然本庁より直に「出頭せよ」との電報に接せり。当時の愉快は一生忘るに能はず。[4]
五郎の願いは叶い、九州に赴くことになりました。その喜びは「一生忘るに能はず」。数年前まで門番草鞋取りまで落ちぶれた五郎の運命は大きく変わります。
■別動第3旅団実戦へ
ここで両軍の兵力を見ましょう。まず官軍です。有栖川織仁親王を総督とし、陸軍中将山県有朋と海軍中将川村純義が参軍として補佐しました。この下に7旅団が編制されました。総兵力は5万8550人に達します。
軍と警察がまだ分かれていない時代で、川路は大警視であるとともに陸軍少将でもあり、少将の立場で警察官からなる別動第3旅団を率いました。
対して薩軍は「一種の義勇兵にして、主に私学校党よりなれるをもって、その数限りあり。かの官軍が徴兵制により全国より徴収し得たるものとは、もとより日を同じうして語るべからず。しかして、薩軍失敗の一因は兵員の不足にありしこともまた疑うべからず」と『西南記伝』は言います。
そして「当初薩軍の現兵は1万1500人と算するをもって正当の解釈と為す」としています。単純に兵員数だけで5倍以上の差がありました。加えて軍費、兵器、装備、火力に大きな差があったことは言うまでもありません。
かくして本庁に出頭したるに、「川畑一等大警部に従い佐賀に出張せよ」との辞令を受けたり。明くれば翌10日、巡査100名と横浜より玄海丸に搭して福岡に上陸し、順路佐賀に到着し、行政警察に従事せり。[5]
五郎が所属した川路率いる別動第3旅団は警察隊です。初めは西郷の決起によって不穏な風紀の広がった九州各地で治安を維持する警察業務に当たりました。実戦は徴兵制によって誕生したばかりの陸軍が担当するところでした。ところが3月に入って山県有朋参軍から最前線に行くよう命令が下るのです。
西南戦争錦絵③
■両軍の特徴
薩軍の反乱は官軍の大軍をもって押しつぶせばすぐに鎮圧されると思われました。ところが寡兵の薩軍は戦争の半ばまで官軍と互角以上の戦い見せたのです。そこには官軍のこんな特徴がありました。
明治5(1872)年、兵制の一大革新あり。陸軍の塀を取るや、全国徴兵の精によれり、しかしてその編制はいちに仏式に摸倣し、歩、騎、砲、工、重平よりなれり。歩兵は小隊、中隊、大隊、連隊に区分せらる。旅団、師団、軍団の組織は当時未だこれあらざりしも、西南役の起こるに及び軍団及び旅団を組織したり[6]
官軍は6万近い大軍でしたが、そのほとんどは徴兵制度によって集められた一般民。西南戦争は徴兵によって初めて戦う実践で、軍隊としての組織も指揮命令も未発達だったのです。
『西南記伝』は官軍の弱点として次の10点を挙げています。
①軍隊の訓練比較的不完全なりしこと
②軍人の勇気、比較的欠乏せしこと
③軍人の行動、比較的敏活を欠くしこと
④軍隊の射撃、比較的不熟練なりしこと
⑤軍人の品格、精神、比較的欠点多かりしこと
⑥戦術上の欠点少なしとせざりしこと
⑦軍紀の厳明を欠くを逃れざりしこと
⑧予備兵の充実に注意を欠きしこと
⑨偵察の不十分なりしこと
⑩全軍にわたりて戦略敏速を欠くを逸れざりしこと
以上の説く処によりて、総括してこれを論ずれば、官軍は精神的要素に於いては陸軍に及ばざるの点多かりしにかかわらず、物的要素においてははるかに薩軍に勝るものあり。しかして官軍が最後に勝利を制することを得たるものは、実に物的要素の長所をもって精神的要素の短所を補い得たるの結果なりとなさざるべからず。[7]
官軍の主力は明治6(1873)年に発布された徴兵令による平民兵です。江戸時代まで軍人であることが武士の誇りでしたから、この時期の士族反乱には軍権を奪われた士族の不満もありました。一方で突如招集されて銃を持たされることになった平民の反乱もあったようです。政府軍の将校以上は薩長の士族であったにしろ、徴兵軍によって初めて戦う戦争が西南戦争でした。
この官軍に対して義勇兵が主体だった薩軍の長所を『西南記伝』は同じく10挙げています。
①軍隊の士気極めて旺盛なりしこと
②軍隊の行動極めて鍛活なりしこと
③軍隊の訓練素ありしこと
④軍隊の武器、軽捷なりしこと
⑤将卒の馭勇にして冒険的精神に富みしこと
⑥将校の技倆優秀にして精力絶倫なりこと
⑦将校と兵士との間、親密にして甘苦を同うせしこと
⑧将校の最後に至るまで武士的精神を失はざりしこと
⑨抜刀隊の精悍無双なりしこと
⑩首帥西郷隆盛が天成的英雄の本領を具せしこと [8]
上の10項と下の10項を比べたとき、薩軍が装備の勝れた5倍もの大軍に拮抗した戦いを見せた理由が分かります。なお、この時の薩軍の奮戦が山県有朋ら官軍幹部の印象に強く残り、物量よりも精神力を重視する旧軍の思想に繋がったとの指摘もあります。
■抜刀隊の活躍
薩軍の中でも敵味方入り乱れた戦場で日本刀を抜いて戦う「抜刀隊」が無類の力を発揮しました。『西南記伝』はこう述べています。
薩軍抜刀隊を結び、銃砲酣戦(かんせん= 敵味方入り乱れて戦うこと)の機に乗じ、地上に匍匐し、あるいは樹石に隠れ、官軍に接近し、にわかに起こりて白刃乱撃をもって猖狂(主のまま荒れ狂う)を呈し、迅雷疾風変幻出没、官軍をして腑落ち魂敗れ、あえてこれに抗するに能はさらしむにいたる。[9]
薩軍の主力、旧薩摩藩士たちは幼い頃から示現流の武道を習い、幕末維新、戊辰戦争を戦い抜いた歴戦の強者でした。銃や大砲が威力を発揮するのは距離をとった場合です。薩軍はゲリラ戦を展開して銃弾砲弾をかいくぐり接近戦に持ち込んだのです。となれば相手は経験の薄い徴兵。一対一の勝負では相手になりません。
3月7日、佐賀を発し、南関に着し、弾薬護送等の任務に従う。12日、山県(有朋)参謀より進撃を命ぜられ、軍自ら「警視抜刀隊」と命名ず。[10]
追い詰められた官軍参軍・山県有朋は、川路少将に頼んで「警視抜刀隊」を組織させました。川路少将の率いる別動第3旅団だけは巡査警官が主体で、丹羽五朗に見られるようにほとんどが武道経験のある士族。上層部は薩長閥でしたが、兵卒には薩長に恨みを持つ奥羽列藩の出身者も多かったのです。山県はここに目を付けたのです。
川路は第三旅団の中からさらに選抜して抜刀隊を組織しました。そして向かうは西南戦争の帰趨を分けた最大の激戦地「田原坂」。五郎もその一員でした。
薩軍抜刀隊④
【引用出典】
[1][3][4][5][10]丹羽五朗『我が丹羽村の経営』1924・丹羽部落基本財団
[2][6][7][8][9]黒竜会本部編『西南記 中巻』1909・黒竜会本部
①https://ja.wikipedia.org/wiki/永岡久茂
②③④ 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1304844