北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

【北檜山】 会津白虎隊の魂とともに 丹羽五郎 ⑦

 

  
 

五郎の見た帝都の自由民権運動

 

巡査抜刀隊の隊長として、西南戦争の戦局をひっくり返す活躍を見せた丹羽五朗。東京に戻ってからは警察のエースとして出世の階級を駆け上がります。そこには、西南の武勲のほか、激化する自由民権運動を治めて帝都の治安を守った功績がありました。

 

■難戦苦闘20余回、身に微傷だに追わず

田原坂の激戦の後、五郎等は薩摩軍に包囲されていた熊本城を開放。4月23日、軍少尉兼2等小警部に昇進します。すぐに別動第三旅団に編入され、薩摩軍の残兵を求めて九州各地を転戦しました。6月29日、警視隊に帰京の命が下り、五郎は147日ぶりに東京に戻りました。
 
しかし、薩摩軍は鹿児島中心になお抵抗を続けました。明治政府は常備軍の補充を決め、新たに巡査を徴募して「新撰旅団」を組織しました。熟練の指揮官が必要として五郎に白羽の矢が立ちます。8月16日、五郎は新選旅団参謀部付を命じられました。西郷隆盛らが最後まで立てこもった鹿児島の城山包囲に輜重隊長として参加。9月29日の西郷隆盛自決の現場を共有します。
 
こうして国内最後の戦争・西南戦争は終わりました。丹羽五郎が戦った警視庁抜刀隊100人中、死者は33名、負傷者は50名という有り様でした。しかし、五郎は「難戦苦闘20余回を経しも身に微傷だに追わず」という天祐に恵まれたのです。顕著な軍功を上げた五郎は明治12(1879)年6月16日、勲6等単光旭日章および終身年金下賜の栄を受けます。
 

■西南戦争7周年記念祭

西南戦争は、数年前まで居候・草履取りだった五郎の運命を変えました。五郎の名は「西南戦争7周年記念祭」を主催することで国政中央で知られるところとなります。
 

明治16(1883)年は西南役の7年に相当せるをもって、祭典を施行し、忠魂を慰藉せんことを思ひ立ち、旧隊幹部川畑種長、松尾俊夫、萩原徹、小原明幹、佐藤正実(以上4氏故人となれり)の諸氏に謀り、五郎は独力をもって、彰功帖の蒐集に努力し、皇族を始め、貴顕紳士、名ある人々に懇請し、有栖川一品幟仁親王、同二品織仁親王、同妃両殿下、小松彰仁親王(元東伏見宮)および三条公以下、350名の御染筆詩歌等を得、3月14日なる田原坂開戦の日を卜し、九段坂上靖国神社において荘厳なる7年祭を施行せり。[1]

 
この時、五郎は31歳の小警部(現在の警部補か)でした。そんな若輩がこれだけの人々を動かし、7年祭を行い得たのも、この戦争で得た五郎の知名度だったでしょう。なお、西南戦争の戦勝7周年祭を戦争が終結した西郷隆盛の自刃の日ではなく、田原坂の開戦日に置いたところに、この戦いの重要性、そして五郎の気持ちが示されています。
 

■紀尾井坂の変と御巡幸供奉

続いて「丹羽五郎自叙伝」は、士族反乱から自由民権運動に続く日本史を活写していきます。
 

聖上には明治11(1878)年8月を期し、東海道西海道の御巡幸を仰せ出されたり。時に5月14日加州金澤の旧藩士島田一郎、長池豪ほか4名は、議大久保利通公を紀尾井坂に剌す。五郎はこの日、警視庁に在り。急を聞き、車を飛ばして馬場に至る。途中に公の馬車に逢う。鮮血斑々たる、白布をもって死屍を粧ひたり。[2]

 

 

大久保利通①

 
薩摩の元勲・大久保利通が盟友の西郷隆盛を切り捨てたことは、西南戦争の原因の一つですが、その大久保利通も「紀尾井坂の変」によって旧士族により暗殺されます。警視庁にいた五郎は事件直後、現場に駆けつけました。こうして五郎は西郷隆盛と大久保利通という明治日本を実現した薩摩の英傑二人がこの世を去る現場にそれぞれ居あわせた(おそらく)唯一の人物となるのです。

さて、この事件は五郎に思わぬ栄をもたらします。明治天皇の御巡幸の供奉(ぐぶ)を仰せつかるのです。
 

警視庁の内偵によるに金澤の士族等は御著輦(ごちょれん=鳳輦にお乗りになった天皇が出発すること)を期し、大に謀る所ありと。しかれども御巡幸はすでに仰せ出されたり。今更御取消のあるべき様なく、また暴動の発生したるに非ざれば近衛鎮台を動すべきに非ず。
 
ここおいてにわかに警視庁の巡査を供奉せしむることになれり。この時まで巡査は一般に棒を携へしか、日本刀入の剣を帯はしむることなれり。
 
五郎、その供奉を乞はんと、田辺少警視を訪問し、この意をもってす。少警視日く「今回の人選は西南役抜群の者をもって、これ充つるはずなれば、君のごときは無論なり」と。はたして8月14日をもって供奉の辞令を拝したり。

 
明治天皇巡幸の供奉は近衛兵の役割でしたが、大久保利通暗殺の直後で帝都の治安を預かる近衛兵を離すことはできないと、警視庁に役目が回ってきたのです。そして西南戦争で抜群の軍功を上げた五郎が指揮官の1人に選ばれました。
 

供奉中、聴員は一切欲酒を禁し、また一切和服を許さず。寝に就くも、上衣を脱するのみにて「ヅボン」を脱せず。あたかも戦埸に在るかごとくなりし。しかれども警部は奏任官の待遇を受け、また馬1頭、馬丁1人を付し、始終騎馬にて供奉したり。
 
村役人また重立者は羽織袴にて次室に控へ、食膳には山海の珍味を供し、夜食には必ず酒を出せしも、1滴も用いざりしは、かえって気の毒なりし。[3]

 
五郎らは一つの間違いがあってはならないと戦時さながらの覚悟で供奉に臨みました。
 
「そもそも列藩同盟をして戦う所以のものは、君側の姦を除かんとするにあり。皇国の臣民たる者、誰があえて天朝に抗せん」とは、会津若松条落城に際しての旧主・松平容保公の言葉です。その思いは届かず、旧会津藩士たちは苦難の道を歩みました。ここで五郎が巡幸供奉を許されたことは、どれほどの喜びだったでしょう。「自叙伝」はこう書いています。
 

五郎常におもえらく20数年間、警視に奉職し、その間御巡幸供奉に際し、奏任官の待遇を受け、72名の部下を率い、馬丁を先に立て、終始騎馬にて72日間、雲霧の如し。実に晴れの御奉公にして、27歲の青年時代には、再び得難き愉快を感じたり。[4]

 

明治天皇の馬車による北陸行幸② 五郎はこのような中にいた

 

■警察のエースとして

明治天皇の北巡幸から戻った五郎は日本の警察行政の将来を担うエースとして活躍します。五郎が公務の合間に巡査指導用に書いた『警吏要覧』は全国出版となりました。
 

明治11(1878)年10月、凱旋後の休暇を利用し、若松に帰省し、期満ちて東京に帰り、高輪警察署丙部の部長を勤務し、もっぱら巡査の監督指導に任し、勤務の傍ら『警吏要覧』を著はし、官版として出版せられたり。けだし五郎の著書を印刷したるは、本書をもって嚆矢とす。[5]

 

『警察宝典』丹羽五郎編 (いろは辞典発行部,1894) ③

 
 
明治14(1881)年に五郎は「巡査長」になります。現在の「巡査部長」は最下級の「巡査」の上ですが、すでに小警部の職にありましたから、これは都内の巡査全体を統括する立場だったと思われます。
 

明治14(1881)年1月巡査長(新設官名)に兼任。翌15年2月16日、芝赤羽橋の麻布警察署詰となる。自宅付近なるをもって、大に便宜を得たり。これは転勤を内願したる結果なり。次いで若松にある母上大病の報に接し、許可を得て妻豊子を携へ帰省して、看護に尽くせしも、ついに4月12日をもって逝去せらる。[6]

 
順調に出世階段を登る1人息子の姿に安心したのか、五郎の実母が明治12(1879)年4月12日に亡くなります。
 

母上は貞淑勤勉の無れ高く、小祿の父上を助け、家政を料理し、国離後は両姉上を伴い、南部の僻土に移住し、つぶさに辛酸を嘗め、ともかくも婦人の身をもって、一家を維持せられたるは、まことに感佩(かんぱい=心に深く感じて忘れないこと)に禁へざる所なり。唯掌中の珠玉も当ならざる、ひとり「むすこ」を膝下に置くこと能はざりしは、母上終生の憐みなりしならん。[7]

 
五郎は会津藩の名門・丹羽宗家の当主ですが、分家の丹羽家から養子にきました。養子として宗家に赴くとき「母上の悲嘆と落胆とは、ほとんど人生の極度に達し、掌中の珠玉を奪われしの比に非ず」とした母です。会津藩が青森の下北半島に斗南藩として移されると、そこに赴き、廃藩置県後に会津に戻ったのでしょう。
 
10代の後半から20代の始めにかけて最も勉強しなければならないときに、幕末維新の戦乱に巻き込まれ、勉強のできなかったことは、五郎の生涯の悔いだったようです。明治18(1885)年、内務省が新に現在の警察学校に当たる「警官練習所」を設けると、30代の中堅幹部ではありましたが、五郎は志願して入所します。
 

各府県より入りし受業生は、みな年若く英学の素養なきは稀れなり。五郎は英学の素養なく、年齢34にして、五郎と同年輩の警部は他に1人ありしのみ。ゆえに英学において最も苦しみ、休暇中、巡査難江獲次郎君を頼み、代々木の別莊にて英学を勉強せり。[8]

 
この時の苦労が、後に五郎に新たな扉を開かせるのですが、それは次回のお楽しみに。
 

■民権運動激化事件異聞

大久保利通に殺傷した旧士族の新政府へ怨念は、自由民権運動への転化していきます。激化する運動の展開に対応して政府は明治20(1887)年「保安条例」を制定し、自由民権派の活動家を皇居から3里以遠に強制退去させます。五郎は警察幹部としてこの執行に当たりました。これは貴重な「保安条例」制定当日の証言です。
 

明治20(1887)年4月25日神田和泉橋啓察署長心得を命せらる。明治20(1887)年12月25日は、かの有名なる「保安条例発布」の日なりし。当日は日曜にして官報休刊なれば、その条例の発布ありしことを知る人なかりき。
 
署長等は三島総監の密旨を受け、各々その署に帰り、午後6時を期し、府下一斉に条例の実行に著手し、執行人星亨等200余人を拘引し、ただちに執行書を渡し、3時間以内に皇居3里以外の地に巡査を付して退去せしめたり。[9]

 
この中に出てくる星亨は「自由新聞」で論陣を張った民権運動の活動家で、後に衆議員、衆議院議長にもなりました。
 

星亨④

 
この「保安条例」の話には後日談が有ります。後に五郎が北海道に移住した後のこと、厚沢部から北檜山の丹羽部落に1人の男が五郎を訪ねてきました。
 

明治33(1900)年頃、檜山郡館村、今の厚沢部村大字館字当路に、農業を営める土佐人鎌田吾市あり。同地方の有志者と称せらる五郎を訪問し、談たまたま保安条例のことにおよぶ。
 
氏日く「予は自由党員にして、明治20(1887)年12月、同志7人と上京し、神田豊島町の某家に宿す。直後3日目に和泉橋警察署より、警部巡査10数名来り、予らに同行を求む。予ら「何事ならん」と警察署に至れば、若き署長より、保安条例執行命令書を渡され、宿所にも帰る能はず。ただちに横浜に護送せられ、同地の警察に引き渡されたり。「この保安条例3日後、大臣等の喑殺を実行し、世はいかの様相となりしや知るべからず」とて、感慨悲憤の状を顕したり。
 
この時、五郎は「その署長はすなわちこの五郎なり」として互いに奇遇を感じ、当時の条例施行の顛末を話し、かつ飲みかつ談し深更におよぶ。五郎おもえらく、当時五郎の得たる50円の賞はとりもなおさず君らの賜なり。本日の費用はむろん五郎の負担なるべし──とて哄笑して相別る。[10]

 
笑い話のなかで語られていますが、この保安条例がなければ明治20(1887)年12月28日に明治の高官の誰かが暗殺されていたのでした。
 

■五郎署長になる

同21年12月7日五郎は5等警視に任し、奏任官6等に叙し、同署長を命せらる。[11]

 
五郎は神田和泉橋警察署長(現在の神田警察署)となります。当時の警察署長の地位は高く、内閣総理大臣が天皇の裁可を得て任命する奏任官でした。五郎は警察署長として明治憲法発布の式典に臨みます。
 

明治22(1889)年2月11日憲法発布の大典を挙けられ、警察署長は二重橋前に整列し、午後一時青山の観兵式に臨ませらる 天皇皇后両陛下を拜す。この時、聖上は鳳輦を駐めさせられ、軽く御会釈を賜はりたり。[12]

 

憲法発布式典にむかわれる明治天皇

 
明治天皇は五郎のことを覚えておられ、整列の中に五郎の姿を認めると車を止めて、あいさつをされたのです。五郎にとってどんな栄典にも勝る栄誉だったでしょう。
 
このまま時が流れれば、五郎は警察組織の階級を上り詰めていったに違いありません。ところがこの年の夏、五郎の姿は北海道にあったのです。
 

明治22(1889)年7月11日、五郎は暑中休暇を得、北海道上川(今の旭川)地方の殖民地を探検せり。明治23(1890)年五郎は7月12日、暑中休暇を利用し、殖民地探検として北海道利別原野に出張せり。[13]

 

 


 

【引用出典】
[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13]丹羽五朗『我が丹羽村の経営』1924・丹羽部落基本財団
①https://ja.wikipedia.org/wiki/大久保利通
②ジャパンアーカイブスhttps://jaa2100.org/entry/detail/036476.html
③国立国会図書館デジタルコレクション
④https://ja.wikipedia.org/wiki/星亨
⑤国立国会図書館デジタルコレクション

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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