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北海道開拓倶楽部

【北檜山】 会津白虎隊の魂とともに 丹羽五郎 ⑥

 

  

五朗の「田原坂の戦い」 その真実

 

巡査隊の一員として西南戦争に参加した丹羽五朗は、有名な田原坂の戦いで抜群の活躍を見せました。西南戦争はとても複雑な戦争で、今、丹羽五郎の生涯の生涯と記されているものにも間違いや混乱が見受けられます。そこで当事者に取材した明治44年の『西南記伝』によって五郎の戦いを精査しました。

 

■田原坂の決戦

西南戦争は、官軍と薩摩軍が相乱れ門外漢が理解するのが難しい戦争です。お叱りを覚悟の上でこの戦争まとめると、熊本城の攻防戦とこれに敗れた薩摩軍に対する掃討戦の二つの局面に分けることができると思います。
 

西南戦争、薩摩軍と政府軍の進路①

 
自分自身に対する暗殺計画を知った西郷隆盛は、このことに対する抗議と政治の刷新を求め、武装勢力を従えて熊本から東京に上京する決意で蜂起しました。西郷がどこまでこの計画を現実的なものとして捉えていたかは謎ですが、西郷の計画としては九州中央部の要害である熊本城を手中に収め、その後福岡を落とした上で九州を制圧、そこから東進しようというものでした。
 
このようにして明治10年2月17日、薩摩軍は鹿児島を出発して熊本に向かいます。一方で官軍は当時陸軍少佐として熊本鎮台連隊長であった乃木希典に討伐を命じました。
 
薩摩軍はやすやすと熊本城下まで侵入し、城の攻略を始めますが、さすがの天下の名城。守備隊もよく耐えて侵入を許しません。2月22日、乃木希典の部隊が到着し、戦闘となりますが、西郷軍はこれを打ち破り、連隊旗を奪います。
 
それでも、熊本城は落ちません。24日に官軍の参軍山県有朋が博多に到着したため、西郷は城の攻略を諦めて一部の守備隊を残して北上をすることを選びます。
 
南下する官軍と北上する薩摩軍が熊本平野北部で激突。有名な田原坂の戦いとなります。官軍が田原坂を抜いて鹿児島に迫るか、薩摩軍が官軍を打ち破り北上続けるか。田原坂の戦いは西南戦争全体の帰趨を分ける決戦となりました。
 
兵員と装備で有意な官軍に対して、薩摩軍は入り組んだ田原坂の地形を利用し、強固な陣を構え、神出鬼没な遊撃戦によって官軍を苦しめます。この時、官軍の主力は戦闘経験未熟な徴兵であったのに対して、薩摩軍は幼少の頃から武芸の訓練を受け、明治維新の動乱を戦い抜いた猛者であったことは前章で紹介した通りです。
 

■五郎出撃

日本刀を抜いて切り掛かる薩摩軍の抜刀隊に官軍は苦戦しました。薩摩軍優位なまま戦線がこう着する中で、事実上の総司令官・山形有朋は、元士族によって編成された巡査隊に抜刀隊の編制を命じます。この中に丹羽五朗はいました。丹羽五朗の自叙伝はこう述べています。
 

明治10年3月14日(新暦4/27)、黎明、木の葉の本営を発し、川畑等の諸隊は右翼の塁を攻撃し、五郎は加藤警部(寛六郎)と20名を率いて抜刀、左塁に切り込み、奇襲を奏し、加藤警部は足部に負傷せり。[1]

 
五郎が抜刀隊の一員としてこの戦に加わったことがわかります。
 
もう少し詳しく状況を見てみましょう。五郎は自叙伝のなかで田原坂の戦いのエピソードを書き残しています。
 

明治10年3月15日(4/28)、午前4時、賊兵、横平山の胸壁に襲来し、短兵衝突す。官兵守を失い、賊兵、山を奪いて下る。[2]

 
 

田原坂の戦い②

 
横平山は田原坂の南側にある小山で、官軍の塁がありました。上の図の④の場所です。
 
3月15日早朝、薩摩軍は突然にこの山を襲い、官軍を追い出してしまいました。ここを奪われると木葉川を挟んで対峙していた官軍は薩摩軍に包囲されるかたちなり、山頂から攻撃を受けることになります。
 
この状況を明治44年の『西南記伝』は「官軍これを失えば、田原坂の連日の苦戦健闘を絵に描いた餅に帰せしむるのみならず、二股の諸塁も保つことができない」としています。日露戦争にたとえれば「二〇三高地」にあたる場所が「横平山」でした。
 
『西南記伝』によって戦況を見ましょう。これは明治の言葉をかなり現代風に改めました。
 

15日未明、薩軍は各隊より7連銃を携帯した壮士40名を選抜して、横平山の官軍の塁を襲わんとし、潜んで塁の下に伏せた。午前4時、塁下の薩軍、機を見てにわかに起き出し、官軍を襲い、ついに塁を占領した。
 
薩軍の本隊も駆けつけ、声雷の如く叫び、白刃を奮って突撃すると、横平山の官軍守備兵は山を捨てて敗走した。
 
ここにおいて官軍、力を合わせて山塁を回復せんとし、諸隊に命じて横平山に向かわせた。向かったのは第11連隊の二個中隊および抜刀隊30名。
 
薩軍山腹に下り、密林の間に隠れ、官軍の来攻を防ぐ。
 
官軍、抜刀隊を二分し、田村は右側より、園田は左側より、追撃ラッパとともに一斉に敵線に突入すると、薩軍はわずかに退却した。官軍はついに二塁を回復した。[3]

 

 
ここに出てくる田村が丹羽五朗の警察官時代の名前・田村五郎です。五郎は抜刀隊の右主力として敵陣に斬り込んだのです。なお左陣の園田は後の第8代北海道長官園田安賢。元薩摩藩士でしたが、巡査隊の2番小隊長でした。
 

園田安賢③

 
園田は西南戦争後、出世街道を駆け上り、明治24年と明治31年に警視総監になり、その後、北海道長官になりました。園田と五郎は死線をともに乗りこえた仲だったのですね。この園田長官と五郎は北海道時代にエピソードが生まれますが、それは次回に。
 

■横平山奪還

五郎の活躍もあり、官軍は横平山の中腹まで前進します。
 

しかし、薩軍は山頂の一塁に籠もり、兵を増して、極めてこれを厳守する。官軍、山下に拠り、進み撃たんとするものの、身を隠す場所無く、進めば直ちに斃れる。工兵を働かせて小塁を急造するが、薩軍の勢い到底覆すことはことはできない。
 
こうして戦局は進まず、午後になる。野津少将がこう檄を飛ばした。
 
「敵、我が山塁を略奪せり。今、もしこれを復せんとするに、抜刀隊の力を待たざるべからずや。諸君これを能くするや否や」
 
と決死隊に編制を宣言した。衆、皆、憤然として奮い立って曰く「願わくば任にあたるを得ん」と。かくして50名をもって抜刀隊が組織された。
 
抜刀隊、匍匐(ほふく)蛇行し、ついに敵塁に迫る。正面の銃隊、抜刀隊の敵塁に近づくの計って射撃し、抜刀隊はこれを機に白刃をもって一斉に突入。
 
銃隊もまた白刃を振って躍進し、ともに必死に奮戦。ついに山頂の塁を復し、完全に横平山を占領した。とき正に午後4時なり。[4]

 
西南戦争は白刃が武器として有効な最後の戦争だったのでしょう。この後、戦争の主力は銃や砲になり、刀は象徴以上の意味を持たなくなりますが、刀という刃物を振るって敵陣に分け入る覚悟は現代人には想像も出来ません。
 
この横平山の戦いがいかに激戦であったか。死傷者の数が物語ります。
 

官軍の死するもの無慮900名以上の多きにいたり、抜刀隊の如きは50名中死するもの12名、傷つくものは36名。[5]

 
「二〇三高地」が奉天会戦の勝利に繋がったように、五郎たちの奮闘により横平山を奪取したことは、3月20日の官軍による田原坂での総攻撃とその勝利に繋がりました。
 

■飛鳥のごとく前方に駆け抜けたり

さて、五郎はこの「横平山奪還戦」の戦いについて自叙伝はこう書いています。「西南記伝」が紹介した戦況と見事に重なります。
 

14日、未明、木の葉の本営を発し、川畑等の諸隊は右翼の塁を攻撃し、五郎は加藤警部(勘九郎)と20名を率いて抜刀、左陣に斬り込み、突貫奮進。彼我入り乱れ、近衛鎮台と協力して攻撃最も努む。
 
この時、五郎は一つの立木を盾として休みしおりに、二等巡査伊藤厳松、来りて言う。「我が銃、破損せり。よって死者の銃と交換せり。君にこれを預く」と。五郎答える。「廃銃いかにせん。そこに棄てよ」と。言いまだ終らざるに敵弾来りて伊藤の左腹部より背部を貫通す。享年28なり。
 
五郎これを見て、つと立ちしに、黒帽を冠りたるー賊は、銃を膝に据え、狙うを認め、飛鳥のごとく前方に駆け抜けたり。
 
後刻、このところを通りしに、賊はすでに倒れ、衣服は燃えいたり。賊は身辺にて発射せられ、その銃口の火にて焼かれしならん。
 
この日、我が隊の戦死は中警部内村直義、伊藤厳松、和良栄輔、荒木新作、牟田道演の五氏を算し、負傷は園田警部をはじめ18名あり。五郎は危くも災難を逃れたり。[6]

 
僚友が敵弾に斃れるととに、五郎は刀を手にし「飛鳥のごとく前方に駆け抜け」ました。後には敵兵の骸が転がりました。映画の一シーンのようです。

この時の五郎の勇躍はたちまち知られるところとなり、五郎は西南戦争の英雄として凱旋することとなるのです。
 

熊本県田原坂激戦の図④

 

■戊辰の復讐

元資料を確認していないので、参考としてご紹介しますが、この時の五郎の活躍について、ウィキペディアに犬養毅が報知新聞の記者時代に書いた記事のことが取り上げられていました。
 

3月14日早朝に突如襲撃を加えた抜刀隊は大きな戦果を挙げ、田原坂攻略の要となった。しかしながら勢いに乗って深入りしすぎたため、抜刀隊側も相当の損害を出している。全滅した分隊も少なくなかった。
 
旧会津藩士の隊員が、戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられた雪辱を果たすべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫びながら斬り込んでいったといわれている。これは、当時郵便報知新聞記者であった犬養毅によって報道された。『戦地直報』第二回
 
十四日、田原坂の役、我進んで賊の堡(とりで)に迫り、殆ど之を抜かんとするに当り、残兵十三人固守して退かず、其時故(もと)会津藩某(巡査隊の中)身を挺して奮闘し、直に賊十三人を斬る。其闘ふ時大声呼(よばわ)って曰く、戊辰の復讐、戊辰の復讐と。是は少々小説家言の様なれども、決して虚説に非ず。此会人は少々手負いしと言う。
 
ただし、この内容は公式記録には無く、また犬養自身も直接現場を見てはおらず、伝聞情報に基づいて報道したものである。この声の主は戦闘当時、抜刀隊分隊長として奮戦した元会津藩士田村五郎三等少警部ではないか、とする説もある。[7]

 
いわゆる「田原坂の戦い」は大きな戦闘で、五郎が参戦した横平山攻防戦を含む熊本平野北部での激戦全体を含む場合と、3月20日に田原坂で行われた戦闘だけを指す場合があり、混同されがちです。3月20日の田原坂の戦いでも政府軍の抜刀隊が活躍しましたが、主力は元薩摩藩士でした。
 
この話は、この薩摩藩士たちの抜刀隊と、横平山の巡査隊による抜刀隊の活躍が混合しているように思います。事実かどうか確かめる術はありませんが、五郎の奮戦には「戊辰の復讐」はあったでしょうし、西南戦争で「田村五郎」こと丹羽五朗は大いに名を高めたことは間違いありません。
 

■木留の戦い

この後、田原坂の戦いを制した官軍とともに五郎は南下し、木留にあった薩摩軍本営攻略戦に参加します。
 

明治10年3月28日(5/11)、午前4時、各隊、戦を開き、木留の賊塁を撃つ。10時いまだ抜くを能はず。これにおいて我隊に令し、西渓谷より進ましむ。
 
時に我隊29人、一斉に突貫、内藤兼才、木村定勝、先に1弾を発せず、直ちに賊陣に躍入り、たちどころにこれを抜き砲戦す。
 
彼我、相隔てること咫尺(ししゃく=短い距離)で互に砂礫を没し、土塊を撃ち相挑むに至る。
 
五郎は隊を二分し、交互に休息せしむ。
 
しかしして五郎は道路右側の傾斜なる土手に、内藤兼才を右にし、武川武士を左にし、仰いで頭部を土手に当て、2人は頭部を五郎の面前に出し、雜談しありしに、突然敵弾来りて、内藤の右頬を貫通し、武川の右頭骨より口內を貫く。内藤は斃れる。享年24歳。武川を病院に送らしむ。
 
この日我隊戦死は内藤と木村定勝、宮川正盛、高木新六の4氏にして負傷6名あり。五郎は幸にして免がれたり。[8]

 
この「木留の戦い」も田原坂の戦いと変わらない激戦でした。ここでも五郎率いる抜刀隊は抜群の活躍を見せたのです。
 

木留の戦い

 

 


 

【引用出典】
 
[1][2][6][8]丹羽五朗『我が丹羽村の経営』1924・丹羽部落基本財団
[3][4][5]黒竜会本部編『西南記 中巻』1909・黒竜会本部
[7]https://ja.wikipedia.org/wiki/抜刀隊
①「Felia」西日本新聞社・薩摩軍行軍・配送の図 https://felia.373news.com/attachment/145235/
②熊本県玉東町教育委員会「西南戦争遺跡」https://seinansensou.jp/theseinansensou/
③https://ja.wikipedia.org/wiki/園田安賢
④https://ja.wikipedia.org/wiki/抜刀隊

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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