北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

関矢孫左衛門と北越植民者社(7)

 

関矢孫左衛門

 

関矢孫左衛門 野幌に死す

戊辰戦争と西南戦争、幕末維新の動乱を駆け抜けた関矢孫左衛門は、盟友大橋一蔵の死を受けて、野幌開拓の先頭に立ちます。しかし、そこには数々の試練が待ち受けていたのでした。

 

■孫左衛門、第一回帝国議会選挙に出馬する

明治22(1889)年5月、関矢孫左衛門は急死した大橋一蔵に代わり、北越植民社の社長に就きました。
 
関矢孫左衛門は明治22(1889)年7月に北海道へ渡り、道庁に北越植民社への移民保護金を要請し、10月には新潟に戻って、移民200戸を集める活動を行います。翌明治23(1890)年5月、34戸205名の移住民を率いて野幌へ入植さました。孫左衛門はこのまま野幌にとどまって開拓を指導するかと思われました。
 
しかし、明治22(1889)年2月に大日本帝国憲法が発布されて帝国議会の設置が決まると、新潟県選出の代議士に推されて、第一回衆議院議員選挙に立候補することになったのです。ご紹介したように関矢孫左衛門は地域第一の名望家であり、北越植民社の社長に推されて断れなかったとの同様に、地域を代表して国会に出てほしいという声を無視することはできなかったのです。
 
明治23(1890)年7月の総選挙で悠々当選すると、8月には北海道に向かい、移民の指導にあたりました。そして10月に第1回帝国議会のために新潟に戻るなど慌ただしい日々を送ります。
 

■進む野幌の村づくり

孫左衛門が再び北海道の地を踏むのは明治24(1891)年4月、前年に移住させた新潟移民の留守家族118名を引率して野幌に入りました。そして秋まで開拓の指導に当たりましたが、10月に第2回帝国議会が始まると帰郷します。留守の間は三島億二郎が野幌に入り、道庁との交渉、移民の指導を引き継ぎました。

 

明治24年、北越植民社植民図②

このように北越植民社の社長に就任してから、北海道と国会を往復する日々が続きましたが、この間、関矢孫左衛門と三島億二郎の指導によって野幌のむらづくりは大きく前進しました。
 
明治23(1890)年4月、開拓の拠り所として「人民の帰向を幸福安寧を祈るべく」[1]神社が必要として天照大神、大国主命、弥彦大御神を祀る「野幌神社」を創建し、小作料によって運営費を賄えることができるようにと境内町歩と畑4丁目3反を北越植民社から寄付しました。
 
もう一つの心の拠り所として明治24(1891)年5月、真宗大谷派の「瑞雲寺」を建て、僧侶を新潟から招いています。入植者はそれぞれ家の宗派を持っていましたが、この寺ができるとみな瑞雲寺の檀家となったといいます。
 
さらに瑞雲寺ができるとこれを教室として野幌小学校の前身となる私塾を開設しました。明治29(1896)年8月に入植者の労働奉仕で自前の校舎を建てました。
 
「共助」によって農業を進めようと「農談会」と言う組織を作り、開墾の進め方、作物の栽培技術、日常生活の事など情報交換する場所を設けました。入植者の中から有為な青年を選び、最新の援助技術を学ぶため札幌農学校伝習科に通わせています。
 

■孫左衛門、衆議議員を辞す

明治25(1892)年1月、衆議院が解散となりましたが、孫左衛門は周囲の強い期待にもかかわらず、立候補を断りました。北海道開拓に専念するためであり、第1回帝国議会の経験で議会政治のあり方に失望したことも理由だったようです。
 
『野幌村沿革史』に関矢孫左衛門の「衆議議員辞任の弁」が掲載されています。原文は明治の文語調なので『情熱の人 関矢孫左衛門』掲載の磯部定治氏による現代語訳を紹介します(数字を算用数字にしています)。関矢孫左衛門の思想、北海道開拓に向けた決意のほどがよく示されています。すべての道民、特に政治に関わる方に読んでいただきたい。
 

改進党のやり方は大隈伯爵を奉じて現内閣を倒し、自党がその地位を奪おうとしているのであって、天皇の大権を侵し憲法に違反し、天下国家の秩序を乱し、自由平等の党員と結合して破壊主義に出ている。そのため私は彼らとは意見を同じくしない。

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いやしくも官を罵るを以て智と為し、法律を不完全とすることを学識と為し、暴力を振うことを勇と為す。眼中に上は天皇なく下は兆民無しと為し、少壮の者を扇動して乱民を誘導している。そのために真実国を憂える者は退き、忠義の者は口を閉じ、実学者はこれを陰で憂えている(中略)。
 
故に私は議員であることを快しとせず、尽くすべき時ではない。かつ議員であることを名誉とせず、徳望とせず、却って議員たることを恥じる。しかし議員になってわずか1年で、まだ天下の識者に会っていない。必ずそういう人物がいよう。その人に会い、ともに力を尽くすことを考えないではない。また反省してみれば国会は重大である。
 
しかし殖民社は今日、野幌に240人を入植させた。私は奮発してこの挙に及んだのである。今年12月限りで移住民の扶持米支給を止める以上、移住民には独立する者もあり、できない者もあろう。農作物の出来具合もどんなであろうか。300里も離れた孤島に渡り、親戚知人に別れて墳墓の地を去り、一家を滅ぼしてここにきた者は、先輩を信じ生命財産を任せ後世の子孫のことを考えてのことである。
 
もし万一信ずるべき人が去り、収穫がなく生計を保つことができず、人々の疑惑を生み、忍耐の気持ちが挫けて離散するようなことになれば、我々は千余名の命を断ち、財産をなげうたせる罪人になる。何の面目を以て人に顔向けができようか。生きてはいられない。
 
このことは国家の大事に比べれば小事かもしれない。いや、どうしてこれが小事なものか。北海道移民開拓の事業に障害が出るのだ。故に私は断然国会を辞し、終身開拓事業に尽力し、野幌の移民と生命をともにする覚悟がなくてはならないのだ。これはまた国家に尽くすことの本分でもある。なにも天下に、また後世に恥じることがあろうか。[2]

 
関矢孫左衛門にとって、北海道開拓は国を救うことと同じだったのです。
 

■新開地を襲う困難

衆議院議員を辞めた関矢孫左衛門は、野幌の村づくりに専念しました。しかし、さまざまな条件が未発達な明治20(1887)年代の北海道。野幌に孫左衛門はすぐに困難と直面します。

 

北越植民社事務所(大正7年頃)③

少し遡りますが、大橋一蔵が存命の頃、渡航費を全額北越植民社が負担する約束で四国徳島の阿波団体100戸と移住の契約を結んでいました。入植の成績が思わしくないことに焦った一蔵が破格の条件を提示したのです。
 
大橋一蔵の跡を継いだ孫左衛門はこのことを全く知らず、突然阿波団体から100戸分の渡航費を請求される事態となりました。この問題は話し合いによって何とか解決しましたが、越後移民と徳島移民は何かにつけて対立しました。
 
北越植民社の結社員である越後移民と、一般入植の阿波団体とでは待遇に差があったのは当然ですが、徳島移民はこのことを不満に想い、植民社の事務所に暴れ込む者も現れたそうです。
 
関屋孫左衛門もこのことに苦慮し、以降徳島からの入植者を拒みましたが、阿波団体は明治30(1897)年前後に1・2戸を残してほとんどが撤退しました。
 

■石狩川の大氾濫から村を救う

明治30一年9月には未曽有の大水害に襲われました。9月6日午後1時より雨が降り始め、8日の午前11時間まで大雨が降ると、この日の午後11時頃より石狩川の水が溢れ始め、越後村、江別市街が完全に水没しました。全道では250名もの死者を出し、3500戸が家屋を失いました。なかでも石狩川に近い江別では実に人口の約半数が水没する大災害でした。
 

石狩川氾濫図④


市町村自治体が未整備な入植地で、関矢孫左衛門が社長を務める北越植民社が復旧復興の全責任を背負いました。
 
孫左衛門は直ちに瑞雲寺、小学校、北越植民社の事務所を直ちに避難所として提供し、炊き出しを行って避難民を収容しました。水害を逃れた 「山手の人逹は收獲物を持って救援、全部落一致の美しい情景が描き出され、植民社は特に尽力せる者に対して感謝状を呈した」[3]といいます。
 
水害が収まると関屋孫左衛門は、道庁に「官林間伐之義ニ付願」「早苗別川浚漂請願」など、竣工後に村の財産となる救済木工事を働きかけ、一石二鳥を狙いました。
 
札幌に出向いては「水災救済会」を組織し、多くの支援を集めました。『野幌部落史』よれば、この運動が農民団体の政治的運動の萌芽として、やがて北海道同志倶楽部、憲政党札幌支部へと発展していったといいます。
 
しかしながら、救済事業が一段落した明治32(1899)年、水害に恐れおののいた村民500戸が大挙して村から撤退しようとしました。こうなれば入植事業は崩壊です。この時、孫左衛門は次のように入植者を諭したと言います。
 
浸水地は地味膏沃(こうよく)なればその用意あれば棄つべきに非ず、気を強うして他転住等の事思うべからず[4]
 
この大量離脱事件は孫左衛門の説得によって未然に終わりました。古老たちは、今の私たちが戦前と戦後で時代を区分するように、「大水害の前か、後か」と振り返っていたそうです。
 
次は『情熱の人 関矢孫左衛門』からの引用です。
 
新潟大学人文学部の古厩忠夫教授は、平成十二年十旦一十三日付け『新潟日報』の 「にいがた歴史物語」に「開拓で一番難しかったのは開拓技術などではなく、人々の心を一つにすることだったようです。関矢はこの点で非常に優れた指導者でした」と書いている。確かに孫左衛門は入植者の心を結び合わせることに成功した。[5]
 
このように新潟で関矢孫左衛門は郷里の生んだ偉人として研究の対象にもなっているのですが、北海道では孫左衛門のような開拓功労者は省みられることがありません。このことを一道民として恥ずかしく思います。
 

■孫左衛門74歳 野幌に死す

明治33(1900)年、関屋孫左衛門の運動が道庁に届いて、北海道から貸与されていた1300町歩の土地が北越植民社に無償譲渡されました。植民社は各戸に2町5反ずつ払い下げして、個々所有地とし、残った土地を社有地としました。これによって水害により疲弊した村の経営はようやく安定軌道に向かいます。
 

開拓事務所から関矢孫左衛門邸を臨む⑤


明治35(1902)年、合併により江別村ができると関矢孫左衛門は推されて初代村議となりました。
 
明治40(1907)年5月、合資会社であった北越植民社は株式会社に組織変更をしました。社長には関矢孫左衛門が就き、専務には次男の山口多門次が就きました。
 
明治42(1909)年、66歳になった孫左衛門は、家督を長男の橘太郎に譲りました。
 
その後の孫左衛門を『野幌部落史』は次のように伝えています。
 
「京城離去入蝦夷、迎我移民尽奮知、芋塊菜根酌濁酒、陶然共酔臥茅茨」、また曰く「飽安非願甘寒苦、身似征人戊遡辺、許国丹心開拓事、一千男女共迎年」等とへる如く、園続する飽安の全てを打ち棄てて、死去に至る30年の余世をここに定着し、移民を慰撫し叱咤し督励して、幾度か逢著した部落=殖民社め困難を越えて歷史の建設に挺身した。
 
共の後幾度に及んだ殖民社への栄誉は、何よりも都落=殖民社株主、雇員等の協力ー致の賜ではあるが、まず関矢の献身的努力を挙げるべきである。大正元(1912)年9月「北海道開拓の功」により紫綬褒章を賜り、あるいは没後大正7(1918)年開道50年記念式に表彰されたのもゆえなきではなかった。
 

「留魂」⑥

耕された山野を一望に原始の樹蔭も美しい岡の上に庵をあみ、「道庵」と称してその処で詩作にふけるを無上の楽しみとした。また同所に髪、爪の外、印、茶器等日常愛用の品々を埋め、その上に部落協力によって碑が立てられ、碑面には自らの筆で「留魂」と鮮かに刻まれているが、この文字こそ氏の半生を象徴しているものである。
 
この竣工は大正2(1913)年4月のことである。この「留魂」碑を中心に庭園を築き「千古園」と称して喜び、中風の晚年には唯一の散策所であった。

 

千古園⑦

大正6(1917)年、折柄の欧州大戦に好況の余波を受けた部落の隆盛を喜びつつ「楽彼天命」との絶筆の額の下に死去した。時6月21日、行年74歲。
 
茶毘に付した遺骨は村人に送られて新潟県関矢家の墳墓に埋葬された。遺骨がこの地を立った30日を記念して每年いわゆる「千古園祭」の取り行なれていることはこの頁の最初に記した。[6]
 
ここにあるように関矢孫左衛門は、晩年「道庵」という隠居所を設け、詩作の日々を送り、心血を注いで拓いた野幌の地で亡くなったのです。
 

関矢孫左衛門の古希を祝い村民が「留魂」の石を運ぶ⑧

 

 


 
【引用出典】
[1]『江別市史 下巻』1970・648P
[2]磯部定治『情熱の人 関矢孫左衛門』2007・新潟日報事業社・119-120P
[3]『野幌部落史』1947・野幌部落会・106-107p
[4]同上104P
[5]磯部定治『情熱の人 関矢孫左衛門』2007・新潟日報事業社・146P
[6]『野幌部落史』1947・野幌部落会・307-308p
①②③⑤⑥⑦⑧『北海道開拓 原生林保存の功労者・関矢孫左衛門』柏崎市立柏崎ふるさと人物館・2003
④五十嵐齢七『画集・野幌開拓のころ』(『北海道開拓 原生林保存の功労者・関矢孫左衛門』柏崎市立柏崎ふるさと人物館・2003)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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