北海道の歴史・開拓の人と物語

北海道開拓倶楽部

関矢孫左衛門と北越植民者社(8)

 

関矢孫左衛門

 

かくして野幌の森は守られた
関矢孫左衛門の執念、和田郁次郎の勇気

 

北海道百年記念塔建設の歴史的背景を知るためとして開始した関矢孫左衛門伝の最終回は、明治32(1899)に関矢孫左衛門を中心に行われた野幌官林の保存運動を紹介します。日本のような人口が緻密で高度に発展した国において、人口200万の巨大都市に隣接して巨大な平地の森があることは奇跡と言ってよいことですが、その奇跡は一通の電報から始まりました。

 
なおこの回の記述は平成24(2012)年に出版された石村義典著『評伝 関矢孫左衛門』に拠っています。関矢孫左衛門は詳細な日記『北征記』を残しました。この書は孫左衛門の膨大な『北征記』を読み下した貴重なものです。
 
 

■野幌官林の分割払下げ

 

ノッポロ カンリン サッポロク ホカ三ケソン
(野幌の官林 札幌区外3カ村)
キホンザイサンニ ブンカツノ ナイタツ
(基本財産に 分割の 内達)
ゼヒソウダン シタシ アス一バン シヨサツ マツ
(ぜひ相談したし 明日一番 出立 待つ)
セキヤマコサエモン サッポロヤマガタヤ オオカハラ イクチ)
(関矢孫左衛門 札幌山形屋 大原 井口) [1]

 
明治32(1899)年3月31日、このような電報が野幌の関矢孫左衛門邸に届きました。驚いた孫左衛門は、野幌原生林の保存運動に奔走することになりますが、ここに至る背景を説明しましょう。
 
明治2(1869)年、版籍奉還が行われた後、新政府は旧藩が持っていた林野を一旦「官林」として国有林化します。同じ年、北海道では開拓使が設置され、道南の私有林を除いた大部分の山林が官林に編入されました。とはいえ、北海道の大部分の森林は未調査でしたから、野幌の森林は明治7(1874)年に初めて調査が行われ、5610ヘクタールが明治10(1877)年「公林」に、明治11(1878)年「官林」に指定されました。
 
この後、帝国憲法発布を記念して、北海道の国有林の半分近くが皇室財産にあたる「御料林」に編入されることになり、明治23(1890)年、野幌の森は御料林となりました。
 
しかし、あまりにも多くの面積を御料林に指定したことで、拓殖事業の妨げとなり、すぐに見直しが行われました。明治27(1894)年、野幌の森は御料林の指定が解除され、国有林として道庁の所管となりました。
 
明治32(1899)年3月、孫左衛門が受けた電報は、道庁が国有林の指定を解き、札幌区、白石村、広島村、江別村に基本財産として払い下げることを決めたというものです。札幌区に1000町歩、江別に460町歩、白石と広島に230町歩という割合でした。
 

昭和天皇陛下在位50周年を記念した野幌森林公園内「昭和の森」①

 

■水田農業の生命線

決定を聞いた各村の総代は、山林を売り払って村の財政に充てることができるとして、喜んで帰りましたが、「江別は無言にして引き取れり」といいます。江別の総代がこの決定を不服としたのは、森の中にある溜め池がこの地域ではじまったばかりの稲作に貴重な農業用水を供給していたからです。
 
石狩平野での米栽培は、明治6(1873)年、隣の北広島島松で試作を始めた中山久蔵によって端緒が開かれ、明治26(1893)年、栗山における
泉鱗太郎の試作などを通じて広がっていきました。野幌でも明治24(1891)年から試作が試みられ、明治26(1893)年には40戸が米作を行うようになりました。しかし、
 
中には無謀とさへ見える試作者も多かった。排水のない当時とて沢地はもちろん、原野一体湿潤地で畑にならない。そこで願望の水田にでもと、水の当てもなく開始されたようなわけだった。もっとも樹根 畦畔が整理されず、また水不足で植付面積はずっと下っていたであらう。[2]
 
このように当時の米づくりは、今のように水田に苗を植えるものでは無く、あちこちに残っていた原生的な湿地に植えたものでした。灌漑設備もなく、水不足によって米づくりは行きづまってしまうのです。
 
しかし、全然無計画な「水溜り式」稲田のみでなく、早くも26年官林内溜池敷地の出願者は続々出で、27年には桜沢1番堤の築造成り、平澤政栄門は国元から築造の経験ある土工を呼び、小規模の堤も次々に計画された。[3]
 
このようにで野幌では、野幌の森の溜め池から水を引き、灌漑施設を巡らせて計画的に稲作を行うという動きも出てきました。こうした中で関矢孫左衛門は、米づくりの主導者として明治26(1893)年、自ら水田7段を自作し、稲作の普及に努めました。
 
野幌官林から水を引くことで、ようやく周辺地域の稲作は安定し、明治27(1894)年17町歩であった野幌の水田は29年に48町5段、明治30(1897)年代に入って100町近くに増えていきました。
 

野幌森林公園内「瑞穂池」。明治時代の溜め池を拡張して大正時代に作られた②

 
 

■道庁に抗議する

野幌の稲作がまさにこれからという時に、水源地として頼みにしていた野幌の森が払い下げられることになったというのです。水田の成功こそが北海道定住の成功と考えていた孫左衛門にとって、それは開拓事業を否定しかねない決定でした。
 
札幌でこのことを知り、「ぜひ相談したし。明日一番に出立されたし」とすぐに電報を打った大河原文蔵、井口文蔵両名も同じ思いだったのでしょう。大河原文蔵は北越植民社の創立者大橋一蔵の近親、野幌の最初の入植者の一人で、井口文蔵も北越植民社の初期の入植者です。
 
電報を受けた孫左衛門は、翌朝一番に野幌の自宅を出ました。まず江別屯田の長雄也に会って事情を話し、同行を求めます。そして札幌の山形屋に着くと、大河原文蔵、井口文蔵に会って詳細を受けました。
 
そして一行は道庁に向かい、札幌支庁長の加藤勘六郎に会って「長官に会わせろ」と要求しました。しかし、当時の北海道長官園田安賢は師範学校に視察に赴いており、不在。代わりに出てきた大塚事務官は、官僚らしくあれこれ言って孫左衛門らをなだめようとしまうが、孫左衛門は
 
条件をもって水源涵養の意を保たんよりは、それよりも水源林の部分を定めて後世百年の業を確立すべし[4]
 
と主張して引き下がりません。執拗に抗議を続けると大塚事務官は
 
不穏のことなきようにいたすべし、且つ篤と考うべし[4]
 
と言い放ちました。官の権威を盾に恫喝したのです。
 

■後世子孫のため成し得べき

そんな官僚の恫喝に怯む孫左衛門ではありません。翌2日、孫左衛門と大河原文蔵は、文字通り「不穏なこと」をします。軽川温泉(現手稲区富丘)で憩いの一時を過ごしていた園田長官を強引に訪ねて、こう申し入れるのです。
 
我々は方は今移住して一村を創始し、後世百千歳の子孫のためにできる限りの将来計画を成さざるべからず。また、成し得べきの時なり。北海道長官閣下の権限内において、後世子孫のため成し得べきことなれば、是非とも水源涵養林永続存置を定められたし。今日御清暇を御妨げいたし恐れ入ることなれど、この事件のためには、何様の何処にも御出あるも御尋上申せざるを得ず。[5]
 

園田賢安③


これには関矢孫左衛門の尋常ならざる決意が示されています。対して園田長官は「何ほど仰々しく申されても変更することはでき難し」とにべもなかったのです。
 
4月3日、関矢孫左衛門、大河原文蔵、安達民治は、札幌支庁長を尋ねて申し出を行いますが、支庁長は「官の命令は遵守せざるべからず」。すなわち官の命令に黙って従えと冷たく言い放ちました。また7日に長官が上京する旨を伝え、言外に「諦めろ」と言いました。
 
そして4月5日、同庁は関係地の輪番と野幌官林内の溜め池周辺の入植者を集めて、野幌官林が分割になることを告げました。孫左衛門に先回りして既成事実を積み上げにかかったのです。
 

■長官宅を急襲

4日に野幌に戻った関矢孫左衛門は、翌5日には、江別、野幌、広島の代表者を集めて集会を開きます。
 
長官の反省せざる以上は各郡の人民より直接上願するの外なし。かつ長官は7日上京のことなれば、その前に上願すべしと決す。野幌15名・広島10名・野幌屯田10名、小野幌5名 [6]
 
大塚事務官からの指示でしょう。孫左衛門の動きを警察も警戒していました。翌6日に、孫左衛門宅に警察が来て前夜の集会について取り調べを行いました。これは「不穏なことはするな」という圧力でもありました。
 
しかし、こんなことで怯む孫左衛門ではありません。警察が引き上げると直ちに各地の代表者とともに札幌に向かいます。総数は50名にもなりました。
 
4月7日、午前6時、総勢50人で長官宅に押しかけます。応対に出た取次者は「本日、上京につき面謁致し難し」と言って長官に会わせません。
 

■和田郁次郎、長官を追いかける

ここからはドラマのような展開となります。『評伝 関矢孫左衛門』から引用しましょう。
 
4月7日、午前6時出願、凡そ50名、長官邸宅に到り面謁を乞う。取次者の日く、本日上京につき面謁致しがたしと、遂に遇えず。
 
衆者、停車場にて謁せんとして停車場に到るも、憲兵・巡査等控所に満ち、園田安賢北海道庁長官は刻限に直ちに汽車に入る。遇えず。
 
ここにおいて、各部代人室蘭において謁せんと追尾す。佐藤乙蔵・沢提・和田郁次郎・小黒加茂次郎・松川永太郎が追尾す。関矢孫左衛門は、札幌に待機して残る。
 
室蘭において長官築立地を視察し、歓迎会に赴き、遂に宿には入らずして、汽船に至る。ここでも遇えず。長官に面謁すべきには上車せざれば不可なり、遂に和田郁次郎•佐藤乙蔵・沢墨が長官を函館に逐う。[7]
 
室蘭と長万部の間、静狩峠の難所を当時の技術では越えられず、札幌を出ると室蘭で汽船に乗り換え、噴火湾を渡って森で降りる必要がありました。
 

■郁次郎 長官を捉える

札幌で園田長官を捕まえられなかった一行は、警備の目が光る中、北広島の
開祖・和田郁次郎を先頭に長官の追尾を続行します。室蘭で長官が歓迎会に臨んでいる合間に、郁次郎たちは函館に先回りするのです。
 

和田郁次郎④


長官の函館の旅店において喫飯を了するを、その戸前に待ち、許可をまたずして案内とともにその室に入る。
 
長官既てに出発せんと欲して立つ。和田郁次郎云う
 
「野幌官林を各町村に分与せらるるにつき、水源涵養林の区域を定められたし」
 
長官の日く
 
「左様のことで当地まで来るとは何事ぞ」
 
怒気満面。和田郁次郎
 
「札幌より面謁を願っても、その暇を得ず、遂にここに到る」
 
長官の日く
 
「左様六ケ敷(むつかし)きことなれば、己れが悪かった。やらぬ、やらぬ」
 
和田郁次郎ら、これを言質として受けとめる。となれば、帰村の上村民の報ずべしとして、引き返す。[7]
 
随員の制止を振り切って長官の居室に押し入って上申した和田郁次郎は、逮捕厳刑は当然の覚悟だったでしょう。明治20(1887)年代という時代であれば、その場で撃ち殺されることだって想定されました。
 
度重なる圧力にも負けず陳情を繰り返した孫左衛門の執念、そして和田郁次郎の勇気──これらが園田長官の翻意を生みました。関矢孫左衛門にも言えますが、幕末明治の動乱を駆け抜けた男の胆力というべきでしょう。
 

■野幌の森は「禁伐林」に

札幌に残った孫左衛門は江別に残り、野幌官林請願文の起草を行います。4月9日に、函館から和田郁次郎が戻って事の次第を告げました。
 
12日に請願文が完成し、関係者の捺印を集めにかかります。4月21日、孫左衛門たちは加藤札幌支庁長に請願文を渡しますが、この間に集められた捺印は野幌263名、広島288名、野幌兵村221名、小野幌31名の計800名分にもなりました。
 
これを受け取った大塚事務官は
 
了承せり。官林中の水源涵養林への編入は出来ざる事も無し、何れ長官帰道の上、その筋の技官による調査の上処分すべし [7]
 
と答えます。こうして明治28(1895)年、野幌の森は正式に「禁伐林」に指定されました。
 
その後、明治44(1911)年に332町歩が天然保存区となり、大正10(1921)年にはほぼそのまま天然記念物に指定され、昭和43(1968)年、「北海道100年」を記念して道立自然公園に指定されます。
 

■北海道開拓の象徴としての野幌

昭和43(1968)年の「北海道百年」で、中心事業である北海道百年記念塔と開拓記念館の設置が決められたとき、
町村金五知事
 
この両施設の場所については私は特に心を砕いた。この事業が決定すると、道内各地から適地を提供したいとの申し出があったが、結局私は東南端の野幌の天然林に隣接し、西北は広い石狩平野を一望の中に臨むことができる現在地が最適の場所と考え、野幌森林公園に決定をした。[8]
 
と回顧しています。なぜ野幌が選ばれたのか、その答えを『野幌部落史』にあとがきを寄せた高倉新一郎先生はこう言っています。
 
北海道の拓殖史は、全く自然の跳梁に任せた天地に、新しく安住の地を作って行った戦いの歷史である。その規模の大きかった点において、かつ短日月に大きな結果を見た点において、我が民族史の上にも稀に見る大事業であった。(中略)
 
野幌部落は、北海道開拓史上屈指の事業に数えられる北越殖民社の遠大な計画と援助の下に、北海道拓殖史の縮図と見られる石狩平野に、北海道拓殖が漸く軌道に乘り出した北海道庁開設期に開かれた村である。
 
その経緯も比較的明瞭に記録されて伝えられているし、発達も比較的統一された、北海道において典型的な集落である。北海道の部落の発達を見るためには最もいい材料の一つである。[9]
 
すなわち、北海道百年記念塔が建つ野幌の地は、塔を取り囲む原生林を含め、その歴史も北海道開拓の象徴だったのです。
 
なお、明治32(1899)年に道庁の計画をいち早く関矢孫左衛門に知らせて保存の起点をつくったのが「井口文蔵」。百年後、その野幌で百年記念塔を設計したのが「井口健」──歴史は面白いです。
 
 

 


 

【引用参照出典】
[1]石村義典『評伝 関矢孫左衛門』2012・自費出版・460p
[2]『野幌部落史』1947・野幌部落会・152p
[3]同上
[4]石村義典『評伝 関矢孫左衛門』2012・自費出版・461p
[5]同上
[6]同上
[7]同上
[8]『北海道開拓記念館10年のあゆみ』1981・北海道開拓記念館・177P
[9]『野幌部落史』1947・野幌部落会・あとがき
①江別市公式観光サイトhttps://www.ebetsu-kanko.jp/archives/sightseeing/1161.html
②https://ja.wikipedia.org/wiki/
③https://ja.wikipedia.org/wiki/
④『広島村史』1960・541p
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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